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第1―33話
バレンタインデー翌日。
美濃以外、フレックス出勤のエメラルド編集部。
美濃は別に誰に頼まれた訳でも無いが、こうなることに予想がついて、自主的に定時出社したのだ。
美濃の次に出社して来たのは羽鳥。
それでもギリギリ午前中だ。
「美濃、ひとりで済まなかったな。
良かったらこれ」
羽鳥が紙袋から某コーヒーチェーン店のアイスコーヒーを取り出す。
「ありがとう」
美濃はいつもの微笑みを崩さず受け取る。
羽鳥は今にも鼻歌でも歌い出しそうに機嫌が良い。
ここ数日の羽鳥からしたら夢のように、いつものポーカーフェイスはどこへやら、何処かの書店の王子様のようなキラキラオーラ満載の笑顔だ。
同じフロアの女性社員達が頬を赤くして、そこかしこで見とれている。
次に出社して来たのは高野と小野寺ペア。
高野は機嫌が良いともいえないし、悪いともいえない微妙な表情だ。
が。
対して小野寺は物凄く機嫌が悪い。
だったら一緒に出社して来ることも無いだろうが、小野寺は高野から逃げられなかったのだろう。
筋肉痛らしく、少し動くのもかったるそうだ。
最後に出社してきたのは木佐。
木佐も動きづらそうだが、いつもの美肌に更に磨きがかかり、ピカピカだし、瞳までキラキラ輝いている。
勿論、超機嫌が良い。
そして今日のエメ編には外せない作業がある。
昨日編集部宛と作家宛に届いたチョコレートの仕分けと整頓だ。
これを通常業務をこなしながら進めるのは、かなり大変な作業だ。
木佐がガサガサと担当作家別に宅配便を作っていると、隣りの席の小野寺が深いため息を吐いた。
「あれ?
律っちゃん、チョコレートの整理しないの?」
木佐が心配そうに小野寺の顔を覗き込む。
小野寺は額に青筋を立てながら、
「すみません。
何もやる気になれなくて…。
もう少ししたら浮上しますから」
と怒りを含んだ声で言う。
「どした?
昨日何かあった?」
「……最悪のバレンタインデーでした」
「へ?
律っちゃん、チョコレートフォンデュだったよね?
飾り切りもマスターしてたし、失敗のしようが無いんじゃない?」
木佐の言葉に、小野寺のデスクの上の両手の拳がブルブルと震える。
「高野さん、フルーツやパンを3個くらいまとめて串に刺してチョコレートに潜らせるんです…」
「えー!?
せっかくあんなに綺麗に模様を入れたのに?
高野さんって普段はオラオラ系だけど、もっと繊細だと思ってた~」
木佐が呆れ顔になる。
「ただの無神経なら、まだいいですよ!!
アイツは悪魔だったんです!!」
「あ…悪魔…?」
「そう!
まとめて串に刺していたのは、チョコレートを減らさない為だったんです!
残ったチョコレートを、お、俺の身体にっ…!」
「マ、マジ!?
どこまで塗られたの!?」
木佐が興味津々と身を乗り出す。
「上半身はね…まあ我慢しました…。
せっかくのバレンタインデーだし。
だけどナニに塗られそうになった時は流石にブチ切れました…」
「で?で?塗られちゃったの!?」
小野寺がフッと笑う。
「そんなことさせる訳、無いでしょう。
思いっきり高野さんのナニを蹴り飛ばしてやりましたよ!」
ひーえー…
高野さんが悪魔なら、律っちゃんは鬼だわ…
木佐が一瞬で青ざめた瞬間、小野寺の背後から「小野寺、トイレに行こう」と声がした。
木佐と小野寺が振り返ると、チョコレートを仕分けしていた羽鳥が立ち上がっていた。
「トイレ…ですか?」
不思議顔の小野寺の腕を、羽鳥がガシッと掴む。
「今の話、詳しく聞かせてくれ」
羽鳥はそう言うと、小野寺を引き摺ってエメラルド編集部から出て行く。
悪魔がもう一人いたか…
律っちゃん、ご愁傷さま…
千秋ちゃん、今夜逃げられるかなあ…
木佐は作業に戻りながら、雪名との、最高にロマンチックだったバレンタインデーを思い出す。
雪名は結局木佐が作ったトリュフを、木佐とキスしながら全部食べてしまった。
勿論、セックスをしながら。
バレンタインデーに相応しい、甘い甘いセックス…
木佐がウットリしていると、高野とバチッと目が合った。
木佐は一気に現実に引き戻され、さっさと手を動かすのだった。
そしてその日の夕方。
ジャプン編集部から戻って来た逸見が、横澤に感動に満ちた顔で言った。
「横澤さんって本当にやさしいですよね~!」
「何のことだ?」
「またまたあ、知らばっくれて!
見ましたよ!
チョコレートの妖精!
桐嶋さんの娘さんの為にあそこまでする横澤さん!!
俺、一生ついていきます!!」
「……チョコレートの妖精を見たんだな?
何処でだ?」
横澤の地を這うような声。
「へ?朝から桐嶋さんが見せびらかしてるらしいですけど?」
横澤は椅子を蹴り倒し、営業部をダッシュで出て行った。
バレンタインデーから数日後。
京極がパリに帰国する日がやって来た。
京極の希望で見送りは井坂と朝比奈と吉野と、吉野の人見知り対策要員柳瀬だ。
京極は黒いロングコートで、吉野は京極がプレゼントした真っ白なフード付きのやはりロングコートを着ている。
そんな二人が抱きしめ合う空港のロビーは、まるで映画撮影のようだ。
行き交う人が皆、振り返る。
そしてその二人を、井坂が一眼レフのカメラで撮影している。
それを朝比奈と柳瀬が見守っている。
「千秋ちゃん。
これからも素敵な漫画を描き続けて下さい。
身体に気を付けて。
遠い異国で祈ってます」
「京極さん…。
京極さんのご活躍を俺も祈ってます!
バレンタインデーは本当にありがとうございました!
これからは新刊が出たらサインを書いて、井坂さんに頼んで送ってもらいますから!」
「本当ですか?
嬉しいな」
京極が寂しげに笑う。
と、京極の唇が吉野の唇に一瞬触れた。
「きょ京極さん!?」
真っ赤になる吉野を強く抱きしめ、京極が言う。
「ジュテーム オ ドゥラ ドゥ ラ レゾン」
「……え?」
「もう時間です。
さよなら、千秋ちゃん」
京極の潤む瞳は宝石のように輝く。
吉野は背伸びをして、京極の両肩を掴む。
「さよならじゃありません。
またね、ですよ京極さん」
吉野がにっこり笑う。
京極は「ありがとう」と言って、また吉野を強く抱きしめた。
「朝比奈さん、ちょっとお聞きしていいですか?」
柳瀬が京極と吉野から、朝比奈に視線を移す。
「何でしょうか?」
「京極さん、さっきフランス語で何か言いましたよね?
あれ、どういう意味ですか?」
「ああ、あれは…」
朝比奈がフッと微笑む。
「あなたが考えられない程にあなたを愛してる…。
あなたが想像もしていないくらい、私はあなたを愛しています、という意味です」
「…そうですか。
ついでと言っては何なんですが、片仮名でいいので、そのフランス語をスマホに打ってもらえますか?
千秋の今後のネタに役立つかもしれないので」
「いいですよ」
朝比奈はサラサラと柳瀬のスマホをフリックした。
羽鳥のスマホがメールの着信を告げる。
差出人を見て羽鳥の眉間に皺が寄る。
相手は柳瀬だ。
渋々メールを開くとそこには、京極と吉野のキスシーン。
柳瀬は井坂に撮影は許可されなかったが、こんなチャンスを柳瀬が逃す筈もない。
そして「京極さんの千秋への最後の言葉だ。訳せ」という文字と片仮名で
「ジュテーム オ ドゥラ ドゥ ラ レゾン」
と書かれている。
5分後。
羽鳥はスケジュールボードに
『吉川先生→直帰』
と書いた。
美濃が「あれ?佐藤先生のところは?」と訊くが、羽鳥は般若のような顔をして「連絡を入れておきます」とだけ言うと、挨拶も無しにエメラルド編集部を飛び出して行く。
京極が今日、日本を発つことを知っているエメ編メンバーは、高野は「しょーがねーなー」と苦笑し、美濃はいつもと変わらぬ微笑みを浮かべ、木佐と小野寺は真っ青になりながら吉野の無事を祈るのだった。
~fin~
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