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第1話・事の発端は?

☆  紅葉のように小さな手が弱々しい力で人差し指を握っている。結 七緒(ゆい ななお)はウサギやタヌキなどの可愛らしいイラストを織り交ぜて、『にこにこ保育園』と書かれている門を抜ける。3歳になるだろう男の子と後にした。これから七緒が向かう場所は自分の家ではない。七緒が連れ歩いている男の子の家だ。  もちろん、七緒が連れ歩いているこの男の子は自分の子供でも弟でもない。面識さえもない今日初めて会う赤の他人だ。ならばなぜ、男の子を連れ立っているのかと言うと、そもそもの発端は昨日に遡る。  七緒は大手企業、回路設計エンジニアの会社で営業部に勤めている。国内シェアは常にトップだ。しかしながら社員は必ずしも有能であるというわけではない。  残念なことに、今年で入社二年目になる七緒はお人好しでドジで間抜け。先輩からは未だに怒られてばかりの日常を送っている。そんな七緒が社長に呼び出されたことこそすべての始まりである。  この会社を経営している社長、三谷 倭(みつや やまと)は若干27歳にして社長を務めている遣り手の経営者だ。冷静沈着で頭も良い。その上、眉目秀麗。決まった相手もおらず、独身だから社外でも社内でも女子たちのからの人気度はかなり高い。そんなできた社長とダメダメ社員七緒の接点なんてもちろん皆無。ーーだった筈なのだが、事件は起こった。  なんと出会い頭に三谷と衝突し、あろうことか彼の書物をぶちまけてしまったのだ。そして廊下に転がった一冊の『育児書』。それを見たのがマズかった。  果たして独り身の彼が育児書を手にしているのはどういうわけなのか。疑問が疑問を呼ぶ中、明くる日の今日、社長の三谷から呼び出され、隠し子がいることを打ち明けられた。そして、クビにされたくなければ子守りをするよう、有無を言わさず命じてきたのだ。  自分の社会的地位を利用したそれはパワーハラスメントとも言える自分勝手で高慢な態度だ。訴えることも可能なのだがーー七緒にはそれはできなかった。というのも、家族は腰を患って入院している母親と二人のみ。父親は七緒が15歳の時、不倫をきっかけに離婚した。そんなだから一家の生活費はすべて七緒が手配しなければならない。  もし仮にここで自分がクビになれば、もしくは会社を辞めてしまえば自分の食い口はおろか、腰を患い入院している母親がどうなることか。なにせ七緒はドジで失敗も多い。給料だって今の会社は自分のスキルよりもずっと良い。そんなこんなもあって、七緒は三谷の命令に背ける筈もなかったのだ。そしてそれを見透かした三谷はとんでもなく冷酷な人間だった。  きっと彼がそういう人柄だから、妻に見限られたのだと七緒は思った。

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