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第1話

 ふと、昼間に休憩室で耳にした与太話を思い出した。同僚らが嘲笑まじりに喋っていたのは、巷で話題沸騰中の刑事ドラマについてだった。  ロンドン警視庁の重犯罪捜査課所属の切れ者刑事を、30代の売れっ子俳優が演じ、その脇をモデル出身の女優やベテラン俳優で固め、昨今の社会問題を絡めた重大事件を解決していくという内容らしい。重厚でシリアスなストーリーを売りにしている一方で、制作会社の金回りの良さが分かる派手な演出と、うぶなティーンエイジャーが赤面しかねない刑事同士の濃厚なラブシーンが視聴者にウケているそうだ。  ――昨日、家に帰ったらカミさんと子どもがテレビに釘付けになっててよ。俺もしばらく一緒に見てたんだが、まぁアホらしいわな。子どもが「パパも毎日、こんなことしてるの?」って目をキラキラさせて訊いてきたから「そうだぞ、すごいだろ」って言っといたけど、どんだけウチを美化してんだよって鼻で笑いたくなったぜ。  ――あのドラマ、俺たちをリスペクトしてんのか馬鹿にしてんのか、分からないよな。あんなに爆発に巻き込まれそうになったり、犯人に拘束されたり、高級レストランで優雅なプライベート過ごしてないし。それにウチのどこを探せば、あれだけ美形でやつれていない男女の刑事がいて、オフィスで盛ってんだよってな。  ――そうそう。リアリティを追求するために、監督や脚本家がウチに取材したって聞いたけど、面白味がないと分かって脚色しまくったんだろうよ。まぁ、あのドラマに影響されましたーっつってウチに入ってくる新人が気の毒だわな。  ……まったくだ。自分は見たことはないが、さぞかし華々しく、スマートな刑事模様が描かれているのだろう。1話丸々使って、警視庁内のデスクでパソコンと向き合っているようなストーリーがあれば、評価は覆るかも知れないが、今のところは同僚らと同様、一笑に付して終わりだった。  麦藁色のやや癖のある髪をがしがしと無造作に掻いた左手は、デスクの上のコーヒーカップに伸びた。が、その中身は焦茶色の滓が底に溜まっているだけで、思わずため息が出た。……まぁいい。後はデータベースに報告書をアップロードするだけだ。ポール・スコットは薬指に嵌っているプラチナリングを何気なく弄ったのち、再びパソコンのモニターに向かった。  ロンドン警視庁――通称ニュー・スコットランドヤードに入庁し、専門刑事・業務部SCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)に配属され、12年が経とうとしている。  アップロードが無事に完了し、デスクトップPCの電源を落とした。椅子の背もたれを利用して、ぐーっと大きく背中を伸ばす。胸もとあたりからせり上がってきたあくびを噛み殺し、姿勢を戻して、首を何度か大きく回す。パキ、パキと乾いた骨の音が聞こえ、凝り固まった肩の筋肉が引き伸ばされ、頭にまで響くような痛みが生まれる一方で、すうっとした気持ちよさもあった。  時刻は午後6時52分。報告書の作成や整理だけで半日以上を費やした。  ここのところ現場に駆り出されてばかりで、こんなに延々とデスクで事務仕事を片したのは久しぶりだった。メガネを外し、疲労が蓄積する目の周りを揉みほぐす。……未処理だった報告書の数が、ここ数ヶ月の多忙さを物語っていた。殺人、傷害致死、強盗殺人、殺人……グレーター・ロンドンで発生した殺人絡みの事件を、各区の警察署と連携して捜査し犯人を検挙、取り調べののちに送検するのがSCO1の仕事であるが、なぜだか夏の終わり頃から件数が増え始め、2ヶ月後の今頃になってようやく落ち着いてきたので、今日のうちにまとめて処理してしまおうと、憂鬱な気分になりながらも、ホットコーヒーをお供にキーボードを叩き続けたのだった。  とりあえず、ひと通り全部片付いた。上司がデータベースを通して、報告書の誤字脱字、掘り下げが足りない点などを指摘してくるだろうが、それは明後日出勤した際に修正すればいい。今日はもう帰らせてもらう。ポールはコーヒーカップを握りつぶし、デスクのそばに置かれたゴミ箱に捨てると、引き出しからカバンを取り出し、椅子から立ち上がった。  ……ふいにコツコツと軽い足音が、こちらに近づいてくることに気づき、顔を上げる。と同時に、「あら、帰るの?」と透き通った声をかけられた。  自分のデスクのそばで足音を止め、にっこりと微笑みを向けてくる白衣姿の女性――レベッカ・パウエル解剖医だった。  今朝見た時にはつやつやと塗りたてだったローズ色のリップが取れ、本来の肌色をあらわにした唇は、それでも色みが良く、弛みのないゆるやかな弧を描いている。ブラウンのアイシャドウが差された大粒のアーモンド型の目は疲労の色が混ざり、この数年で目尻の皺の数が増え、掘り深くなったと常日頃から自虐しているものの、ヘーゼル色の瞳は未だ活力を失っていないのが、彼女より5歳も年下のポールにとって尊敬と称賛に値するものだった。 「ええ、何とか仕事が片付いたので」 「そう、お疲れ様。明日はオフだって言ってたわね?」 「はい。なので、何かあれば携帯に電話ください」 「ダメよ。休日は仕事用の携帯の電源は切っておかなきゃ」  快活にそう言って、茶目っ気たっぷりにウィンクを送ってくるレベッカに、ポールは肩をすくめて笑った。10年前、イーストエンド区内の警察署から異動してきた当初、「若くて美人な解剖医なんて、BBCの刑事ドラマに限ったことだと思っていた」などと言われ持て囃されていた彼女は、結婚と二度の出産を経て、身体つきはふっくらとし、琥珀色のバレッタで無造作に纏められたセミロングのブロンドヘアーは毛量が減ってはいるが、生来の端麗な顔立ちのお陰で、庁内の年輩刑事たちを中心に人気は健在だった。  確かに、レベッカの愛嬌のある仕草や笑みには、人を惹きつける魅力がたっぷりと宿っていると思う。身嗜みをきっちりと整え、ランチタイムや休憩時間の化粧直しを面倒がらなければ、カフェやブライダルショップなどの華やかな職場にいてもおかしくはないだろう。  けれども、そんな彼女が日々向き合っているのは、通勤や通学前の1杯のコーヒーを所望する人達でも、うきうきとした様子で結婚式の準備を進めるカップル達でもなかった。生命活動が永久に停止し、息をすることもまばたきをすることも、話すことも動くこともなくなった人間の声なき最期の言葉を、法医学の視点から一語一句こぼすことなく汲み取るのが彼女の仕事であり、彼女にとっての天職であった。 「ふぅん……なるほどね……」  そしてレベッカは突然、ひとり納得したようににんまりと笑い、ポールの顔をじっと見つめてきた。……女性特有の勘の良さ、鋭さをもった彼女の眼差しを受け、居心地の悪さが胸のうちを這っていき、ポールは思わず視線を逸らすも、レベッカはすべてを見透かしたわと言わんばかりに、ふふっと楽しげに笑ったのだった。 「何だか、めずらしく浮かれた顔をしていると思ったら、そういうことね」 「……浮かれた顔、してますか?」  頬がわずかに熱くなるのを感じた。手の甲で口元を覆い隠し、レベッカに表情を見せぬよう努める。「自分では、そんなつもりなかったんですけど」 「分かる人間には分かるものよ。良かったわね。じゃあ、明日はデートかしら?」 「いや……それが何も決めてなくて……」 「あらぁ」  それは大変と言わんばかりに、レベッカは目を丸くした。が、その1秒後には、今度は唐突にはっとした表情になり、「いけない! サムに報告しなきゃいけないことがあったんだわ!」と慌て、両手で抱きしめるように持っていたファイルを、さらにぎゅっと抱いた。 「今、大英博物館で面白い展示会をやってるって聞いたわ!」 レベッカは顔をこちらに向けたまま、フロアの奥にあるサム・ローリー警部補の執務室に早足で向かっていく。「良ければ行ってみて、感想を聞かせて! それじゃあ、良いオフを!」 「あ、ありがとうございます……」  執務室のガラス扉の向こうに消えていく際、レベッカの顔には愛嬌たっぷりの笑みが浮かんでいた。ポールはあちこちから、ちらほらと飛んでくる何とも言えない視線を感じながら、口元にぎこちない微笑みを作り、彼女に向かって手を振った。そして、カバンを持ってそそくさと仕事場を出た。  ……この職場で、自分や自分の私生活について関心を持っているのはレベッカくらいだ。後の人間は、知っていても触れてはこない。さっきの冷ややかな眼差しは、いささか場違いな彼女のテンションに向けられたものだと思いたい。「レベッカのあの性格は、長所であり短所だからなぁ」とローリー警部補がしばしば呆れたように笑うほどに、レベッカはいつも明るいのだ。もっとも、遺体を暴く時は人が変わったかのように冷静沈着、怜悧な女性になるが……。  駐車場に停めてあった車に乗り込んだところで、ポールは大きな溜め息をついた。レベッカを責めるつもりはないが、昔から人々の注目が自身に集まらぬよう努めて生きてきた人間として、先ほどのような状況はあまりにもいたたまれなかった。10月下旬のすっかり冷えきった空気がこもる車中で少しだけ天を仰ぎ、胸のうちに溜まったざわつきを追い出すように、もう一度ふーっと息を吐いた。  ……早く、家に帰ろう。  3年前に頭金3千3百ポンド、4年ローンで購入したブルーのフォード・フィエスタのエンジンをかけ、ベルトを締め、ルームミラーを微調整する。そこに映る、良く言えばやや童顔、悪く言えばいまいち垢抜けていない自分の顔と目が合い、ふいと視線を逸らす。  自分ではさほど表情に出ているとは思わないが、レベッカが言ったように分かる者には分かるのだろう。確かに先ほどから、先に帰宅し夕食の準備をしてくれているであろう夫の姿が、頭の中にいる。……いや、違う。今朝からずっとそうだった。ずっと、今夜がくるのを待ち望んでいたのだ。  ハンドブレーキをおろし、ゆっくりとアクセルを踏む。フィエスタは静かに動き出した。スピーカーから流れてくるのは、コールドプレイの『イエロー』。数日前から繰り返し聞いていた。  ……あぁ、早く会いたい。  駐車場を出て、テムズ川をのぞむ大通りを走りだした時、頬がようやくはっきりと緩み始めた。幸いにも道は混んでいない。30分ほどで、ワンズワース区にある自宅に帰れるだろう。……だから早く、あの人の顔が見たい。

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