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第2話
ワンズワース区は、ロンドン警視庁があるウエストミンスターからテムズ川を挟んで南西部にある。
グラッパム・コモンやバッターシー・パークといった大きな公園に挟まれたバタシー地区は、住宅が多く建ち並び、商業施設も充実している。テムズ川南岸にある廃火力発電所は、そのレトロなレンガ建築と豪華なアール・デコ式内装から、文化活動や商業活動にしばしば利用されるなど、ロンドンのランドマークのひとつになっていた。
緑豊かな土地は、現代的な建物や典型的なロンドン風私有家屋で構成され、そこにふとサブカルチャーの原色的な空気が流れてくる。そんな独特な雰囲気を醸し出す地区の東側、ランボーン・ロードに面した築30年のフラットで、ポールは夫とふたりで暮らしていた。
シャワールームの白い壁に、濡れた背中を預けようとしたところで、まるで掠めとるように太い腕が回ってきて、背面に重力をかけようとしていたポールの身体は、前に引き寄せられた。水気を帯びた唇同士がふに、と重なったかと思えば、いささか性急に口内に舌を差し込まれる。上顎をれろっと舐められながら、いきり勃った一物を下腹部に押しつけられ、身体がカチッと固まった。
けれども舌同士が絡み合い、互いのほのかに甘い唾液を飲みあっているうちに、強ばりは解けていく。……まるで熟れたトマトのようだった。あるいは弱火でゆっくりと時間をかけて煮込んだ玉ねぎのように、頭の芯までじゅくじゅくに柔らかくなって、溶けていきそうだった。
いつのまにか、シャワーは止まっていた。壁やドアの隙間から細々とした冷気が入り込んできて、ポールの濡れた素肌にまとわりついてきたが、寒いと感じても鳥肌が立つほどではなかった。それ以上に、夫の腕のなかが暖かかった。いや、熱いくらいだった。
「……ん、……ぅ……」
唇の間隙から、艶めいた声が漏れる。自分のものであり、夫のものでもあった。やがて、じゅっと瑞々しい音をさせ、舌と唇が遠ざかってゆく。名残惜しさを覚えながらゆっくりとまぶたを上げれば、ぼやけた視界いっぱいに水に濡れた色男が映る。
ショーン・スコットはくすりと笑って、額にぴたりと張りついたポールの前髪を搔きあげ、そして両眼をじっと見つめてきた。
帰宅して、先に帰っていたショーンに出迎えられ、彼が用意してくれた晩飯を一緒に食べ、それから流されるがまま服を脱がされ、シャワールームに連れて行かれたのが数十分前のことだった。
ウエストミンスター橋のそばにある病院で救命救急医として働くショーンは、目の下にうっすらと青黒いクマを作り、口の周りには無精髭を生やしているものの、顔立ちの良さが霞むことはなく、むしろ妙な色気を含ませていた。
清潔感のあるダークブラウンの短髪、やや眠たげに垂れた横幅の広い目、彫刻物のように精巧な鼻梁、顔色の悪さに反して血色が良い薄い唇。そして、ロンドンではそうそう仰ぎ見ることのできない晴天の日の青空、あるいは南国の凪いだ海を彷彿とする碧眼。歴史に名を残す画家が描くそれらに引けをとらないその色には清涼感があり、人を惹きつけ、包み込むような温もりがあった。
ふたりの行きつけのパブの店長からは《寝起きのマシュー・グッド》とあだ名がつけられ、数年前まではオックスフォード・ストリートあたりを歩いていれば、モデル事務所や俳優養成所のスカウトから必ずと言っていいほど声をかけられていた美丈夫が、どこからどう見ても並みな容姿の自分の伴侶だなんて、今でもたまに信じられなかった。あまりにも都合が良すぎてつまらない小説の登場人物になった気分だ。けれどもこうして肌の吸いつく感触や熱を全身で感じ、強い引力を孕んだ瞳に自分の顔が映っているのを見ると、これは現実だと思わされ、少しの狼狽と共に胸が高鳴るのだった。
ショーンの大きな手が臀部に触れる。そして硬い肉をやんわりと掴まれ、揉みしだかれると、ついさっき彼によって洗浄された場所が過剰に反応し、ぐっと窄まった。
「……ちょっと、だめだって」
「何がだめなの?」
羞恥心が笑いとなって口から漏れ、身を捩ってみせれば、ショーンは楽しそうな表情でそんなことを言ってくる。「嫌ならやめるけど、そんな風には見えないよ」
「嫌じゃない。恥ずかしいんだよ……」
「これからもっと恥ずかしいことするのに?」
「馬鹿……」
ポールは目を伏せ、もう一度「馬鹿」と掠れ声で言った。顔がひどく熱く、呼吸がかすかに乱れていた。ショーンの両手は依然、尻の肉を生のパン生地を捏ねるように触ってくる。
けれども、それだけだった。それ以上のことは、ここではしないつもりなのだろう。
……焦らされている。そう思うとますます恥ずかしくなり、目の前にある分厚い胸板に額を押しつけ、顔を見せまいと言わんばかりに広い背中に回した腕の力を強めれば、耳元で軽やかな笑い声が聞こえてきた。
「それより、また痩せたでしょ」
「……ん」
ショーンの言葉に、顔を上げずに頭を振る。「分からない……けど、多分そう」
「最近忙しそうだったけど、ちゃんと食べてた?」
「ん……時間がなくて、抜くことが多かったかな」
「やっぱり」とショーンは苦笑した。「忙しいのは分かるけど、食事しないと頭も体もしっかり働かないよ。何より健康に良くない。今の君は痩せすぎだし、免疫力が下がって風邪を引いてしまうと困るでしょ?」
「ごめん……でも尻揉みながら言われても……」
「あぁ、ごめん。説得力がなくなってしまうな」
そう言ってショーンはあははと笑い、臀部にあった手を背中に移動させてきた。……朗らかで穏やかで、少しばかりすけべなところもあるが、頭が良く頼りになる男。それがショーン・スコットであり、ポールの夫だった。
この1、2ヶ月にあった出来事について振り返ろうとすると、頭や胃の腑に重苦しい石が溜まるような感覚に苛まれる。とにかく多忙だった。喧騒の中に身を投じているような、心が戸惑い、彷徨し、もがき苦しむような、そんな混沌とした昏い時間を過ごした。
まず8月末に、キングズクロス駅近くで起きたトラックの暴走、及びその運転手による銃乱射事件の対応から始まり、機動隊によって射殺された犯人が過激派組織のメンバーであったこと、またその組織が事件後に犯行声明を出したことから、SCO7(重大・組織犯罪対策指令部)やSO15(テロ対策指令部)に捜査を引き継いだ矢先に、今度はイーストエンドで札付きの少年3人がホームレスを暴行し殺害したとして、親に連れられ警察に出頭してきた。
少年たちは取り調べに対し「すれ違いざまに肩をぶつけられた上に睨まれ、カッとなった」と供述するも、反省の言葉はなく、むしろ「俺は悪くない」「誰が親にバラしやがったんだ」「アイツが一番、殴ってた」「俺は見ているだけだった」となどと言って互いに互いを貶め合い、己の保身に走り、聴取を担当したポールはただただ呆れた。
そしてその翌日に、少年たちを起訴し、事件が刑事法院の管轄になると、溜まっていた事務仕事を片付けるなどのデスクワークに追われた。そんな生活が4日ほど続いたところで、立て続けに3件の殺人事件が発生し、ポールは外に駆り出されることになったのである。
警察官になった当初に、心身に分厚くまとっていたはずの仕事に対する情熱や誠実さは、年数を重ねていくにつれ、バターナイフで削ぎ落とされたかのように薄くなっていき、13年目を迎えようとしている現在、絶えず雪崩れ込んでくる責務をそれらで押し切ることが、もはやできなくなっている。そんな現実に諦念を含んだ苦笑を浮かべたくなり、自分もそれなりに歳をとったのだなと妙に感心し、肉体と精神を蝕んでいる疲労をやむを得ず受け入れるしかなかった。
とは言え、密着したショーンの素肌を感じている今、そういったものを吹き飛ばし、自分のすべてを彼に委ねたかった。
何せ、ショーンと最後に休みが被ったのは、1ヶ月以上も前だった。その時はノッティングヒルで買い物や食事をして帰宅し、こうしてシャワーを浴びた後は、翌朝まで裸でベッドの中にいた。1分、1秒も離れていなくなく、久しぶりだから、次にこうしてゆっくり一緒に過ごせるのも何十日と先だろうからと、ふたりして言い訳をして、皮膚や肉だけでなく脳髄や骨の髄までどろどろに溶け合うような行為に耽っていた。
刑事と救命医。生活リズムがてんで違うなか、時には不満を漏らし、いささか険悪な空気が流れることもあるが、基本的には互いの仕事や時間を尊重し、毎日同じ家に帰ってひとつのベッドで眠りにつき、体力に余裕があれば、口や手で互いの身体を悦ばせ合う。そして、休日が揃った時にはタガが外れたかのように抱き合っていた。
結婚して2年、そのうちの1年は離れて暮らしていたものの、肩肘張ることなくゆったりと過ごしてきたのではないだろうか。
ポール、と名前を呼ばれ、ゆっくりと顔を上げれば、優しげな声とは裏腹に噛みつかれるような口づけが降ってきた。肉厚な舌がじっとりと蒸れた吐息とともに、ぬるりと口腔に入り込み、強張った舌を絡めとられると、胸のあたりに痺れるような痛みが走り、下半身がずくりと重くなる。
……唇や口の中を愛撫されるだけで、えらく感じてしまい、泣きそうなくらいに胸が満たされるのは、それだけ飢えていたということなのだろうか。
そんな今の自分は、薄っぺらいラブソングを聴きながら恋人への想いを募らせ、涙を流してみせるティーンエイジャーの頭と同等くらいかと思い、内心で自嘲気味に笑いながらも、ポールはショーンの舌をねっとりと愛でた。程なくして、糸状の唾液を伸ばしながら唇が離れていき、ふたりはうっとりとした表情で互いを見つめた。
「……いつまでもここでこうしてたら、身体が冷えるね」
ぽつりとそう言ったショーンに身体をひょいと抱きかかえられ、突然のことに裏返った声が出た。ゆらりとした浮遊感が全身を包み、反射的にショーンにしがみつく。
「びっくりした……」
「ごめんごめん。そんなにぎゅっとしなくても、落とさないよ? 知ってるでしょ」
「あぁ……うん……」
腕や脚に込めた力を抜き、ショーンを見下ろせば、ぱちっと目が合った。……彼の瞳は妖しく潤み、こちらの双眸の奥深くまでを射抜いてくる。目元や口元にはいつものように柔和な笑みが浮かんでいるのに、その両眼だけは欲情しきった男のもので、背筋がぞくぞくと震えるまでに色っぽかった。
「バスタオル持って、ベッドに行こうか。流石にこのままだと、シーツがぐしょぐしょになるから」
「……ん」
ポールはショーンの唇を塞いだ。待ちきれないのは、こちらも同じだった。
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