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第3話

翌日は、朝日が昇って久しい時間の目覚めだった。  泥のように眠っていた。ポールはベッドの上で半ば覚醒していない身体をのっそりと起こし、目ヤニが貼りついたまぶたをゆっくりと開いた。何度か鈍いまばたきをし、その合間に大きなあくびが出て、ぐーっと大きく背筋を伸ばせば、眠気が溜まった重い頭がいくらか軽く爽快になった。  眼をこすりながら、ふと隣を見ると、昨晩一緒に眠りについたはずのショーンの姿はなかった。ついで、枕元のスマートフォンを起動させ、時間を確認する。……10月28日、時刻は朝の7時17分。普段であればとっくに起床し、朝食を食べ終え、新聞を読んでいる時間だった。随分と寝坊してしまったと軽く苦笑する。であればショーンは恐らく、フラット周辺を走っているのだろう。ランニングは彼の日課だった。  起こしてくれれば一緒に走ったのにと、少し残念に思ったが、昨夜くたくたになって熟睡していた自分を気遣ってくれたのだろう。今は肌寒いこのベッドで、汗みずくの身体でショーンとぐちゃぐちゃにもつれ合った後、ポールは半ば意識を飛ばしながら眠りに落ちた。7時間以上、一度も目覚めることなく朝を迎え、倦怠感や疲労感はさほどないものの、身体のなかにいまだショーンがいるような感覚があり、入り口あたりにわずかに疼くような痛みと熱もあった。……こんな状態で運動に励むのはよろしくないなと、考えを改めた。  ベッドサイドに置かれたメガネをかけ、スマートフォンを紺色のパジャマのポケットに入れて、ポールはベッドから抜け出した。カーテンを開け、窓ガラス越しに灰色を帯びた朝日の光を浴び、今一度大きく背筋を伸ばす。うっすらと曇った今朝はどうやらそこそこ冷えるようで、窓から硬い冷気が漂ってくる。  昨夜は裸のままで就眠したはずだが、その直後かそれとも目覚めてからか、ショーンは寝間着を着せてくれていた。自分のだらしなさに苦笑しつつも、甲斐性のある夫に感謝し、のろのろとした足取りで寝室を出て洗面所へ向かい、顔を洗って髭を剃る。それから寝室に戻って服に着替えたところで、玄関からドアの開閉音が聞こえてきた。  ショーンは案の定、有名スポーツブランドのランニングウェア姿で、健康的に紅潮し、汗が浮かんだ端整な顔をタオルで拭いながら家に入ってきた。出迎えると、さっぱりとした笑顔で「おはよう」と挨拶され、腰を抱かれて唇を啄ばまれる。口の周りには髭が生えたままで、ざらざらとした感触が肌に触れ、むずむずとした。 「……よく眠れた?」 「おかげさまで」  ショーンは微笑み、右頬にキスしてきた。溶け出したアイスクリームのような彼の甘い顔立ちは、やはり《寝起きのマシュー・グッド》のようだ。先日、レベッカが「ショーンって誰かに似てるわよねぇ」と言ってきた際にそう返せば、心底納得した顔で笑っていた。ただ、ショーンの方が顎が細く、皺が少なかった。 「朝飯、外で食べる?」  ショーンからタオルを受け取り、洗面所にある洗濯機の中に入れたところで、寝室で着替え始めた彼に聞こえるよう、ポールはやや声を張って訊ねた。「バス停の近くに、新しいカフェができたんだっけ? そこに行ってみたいんだけど」 「いいね、そうしよう」  白塗りの壁越しに、ショーンの声が聞こえてきた。財布とジャケットを取りに寝室へ向かうと、ショーンがスポーツウェアを脱ぎ、上は黒地のシャツ、下はグレーのボクサーパンツという姿でタンスの前に立っていた。引き出しの中からネイビーのコットンパンツと黒の靴下を取り出してもぞもぞと履いてから、彼は振り返って笑みを向けてくる。 「サーモンとレタスとオニオンのサンドウィッチが美味いらしいよ」 「へぇ。食べてみたいけど、ボリュームあるのかな」 「どうだろう? 見てみないと分からないな」 「食べきれなかったら、貴方に食べてもらう」  そんな話をしながらポールもデニムシャツにベージュのチノパン、黒のライダースジャケットに着替え、ふたりは家の鍵を持ってフラットを出た。ランボーン・ロードを北西に向かい、ウォンズワース・ロードに出て、朝っぱらから電車の車両のように路駐車が連なっている車道を横目に西へ2分ほど歩けば、古めかしいレンガ建築のセミデタッチド・ハウスに挟まれた、カントリー調ののどかな雰囲気が漂う建物が見えてくる。ここがそのカフェだった。  ショーンがガラス張りのドアを開けると、ふわりと焙煎されたコーヒーのふくよかな香りが漂ってきた。10席ほどしかない白塗りの小さな店内は、6席ほど埋まっていた。ふたりはカウンターで例のサンドウィッチとフラットホワイトを注文し、店の奥のふたりがけのテーブルについた。 「――今日はこれからどうする?」  ピアノ調のカーディガンズの名曲が流れるなか、ショーンがふあっと欠伸をしながら訊ねてくる。「どこか行きたいところはある?」 「そう言えば昨日、レベッカが大英博物館で面白そうなイベントやってるって教えてくれたな」  ポールは答え、ジャケットのポケットから取り出したスマートフォンでインターネットを開く。……おそらくレベッカが嬉々として言っていたのは、ヴィクトリア時代の娯楽に影響を受けた広告物やパフォーマンスを楽しめるイベントのことだろう。  産業革命による経済発展がピークを迎えた時期、美術が一定の知識層や富裕層だけのものではなく、大衆の視覚や意識に訴えかけるものとなった時代をリスペクトし、数多の色を混ぜ込んだように混沌とした現代社会に逆行せず、むしろ最前線を目指す姿勢が現れつつも、現代社会に受容されたがっている。奔放で一筋縄ではいかず、強烈な個性を放つくせに不安定。そういった作品の一部が、大英博物館のホームページ上に紹介されていた。  なるほど、確かに面白そうだ。幼い頃によく地元の小さな美術館にひとりで入り浸り、美術品を観て回っていたポールにとって、大英博物館で現在催されている展示イベントは、興味をそそるものだった。ショーンにスマートフォンを渡し、「どうかな?」と訊いてみる。 「うん、いいね」ショーンは画面を見ながら、唇を左右に広げた。「これ、行ってみようか。昼飯はソーホーで食べて」 「オックスフォード・ストリートに行くとか?」 「何か買うの?」 「新しいマフラーと手袋、いいのがあれば」 「あぁ、急に冷え込んできたからね」  エディ・レッドメインをいささか渋くし、彫りを深くしたような顔立ちの店員が、フラット・ホワイトとサーモンとレタス、スライスオニオンのサンドウィッチ2人前を運んできた。小ぶりなカップがテーブルに置かれると、エスプレッソ特有の甘くて芳醇な香りが、ふわりと鼻腔に漂ってきた。思わず、ほっと柔らかな吐息がこぼれる。サンドウィッチはトーストされた薄切りの食パンに、溢れんばかりの具材を挟み、三角形に切られたものが2切れ。少食で、特に朝は胃袋が寝ぼすけなのか、ホットミルク1杯で事足りるポールにとって、1切れでも十分過ぎるくらいの量だった。 「食べ切れそうになかったら、もらうよ」  考えていることが顔に出ていたのだろう、ショーンがそう言ってくれた。「俺、腹ぺこなんだ」 「あ。ありがとう、お願い」  1切れまるごとショーンの皿に移し、まずは温かいフラット・ホワイトに口づけた。甘くて香ばしい匂いが口腔や鼻腔だけでなく、頭にも充満していくようで、ついでホイップクリームのようなきめ細かく泡立てられたミルクの優しい風味が、味覚と嗅覚をふんわりと包んだ。  美味しい。この店はリピート決定だ。客数を見る限り、そこそこ繁盛しているようなので、末長く営業が続くことを祈るとしよう。  それから、サンドウィッチをひと口齧る。こちらもレモンの酸味と粉状のパルメザンチーズの程よく塩気がきいたソースが絶妙で、新鮮なレタスとオニオンのシャキシャキとした食感と脂がのった薄切りのサーモンの旨味に、頬がほころびそうになった。 「……美味いな」 「うん、当たりだったね」  ショーンもサンドウィッチを食べながら、満足げにうんうんとうなずく。節くれだった手のなかのサンドウィッチは、みるみるうちにいびつに小さくなっていく。 「これから、休みの日の朝はここに来てもいいかも」 「賛成」  ポールは口角を上げ、咀嚼物を飲み込んだ。

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