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第4話
「最近、仕事の方は?」
「ん? まぁ、変わらずかな」
ショーンはぼんやりとした口調で答え、視線をおもむろにゆらゆらと彷徨わせた。「交通事故とか、階段から転げ落ちたとか、色んな人が運ばれてきて処置して……っていう感じ。目が回るほど忙しいと思うのは週1くらい。平和なもんだよ」
「それは何より」
「君の方はどうなんだ?」
あっという間に1切れ目のサンドウィッチを食べ終えたショーンが、ペーパーで口を拭いながら、もごもごとした声で訊ねてくる。「まだ当分忙しい?」
「いや、落ち着いてきたよ」と言い、フラット・ホワイトを飲む。「今後、良からぬことが起きなければ、の話だけど」
「前もそんなこと言ってたな」
「言ってたかな?」
ポールは苦笑し、肩をすくめた。SCO1に在籍する限り、自分は蟻地獄のなかにい続ける。ロンドン、特にウエストミンスターで重大事件が発生し、捜査が始まり、犯人を逮捕し事件が解決しても、また新たな事件が起き、捜査に駆り出される。そんな日々を12年続けているのだ。
「少し前、立て続けに色んな事件が起きてたけど、そのうちのどれかに君も関わってたの?」
「どんな事件があったっけ?」
と、とぼけてみたが、ショーンの言う色んな事件が何を指しているのか、ポールは理解していた。それらがここ数ヶ月、ポールを始めとするSCO1の刑事たちを忙殺し、「勘弁してくれ」と唸らせ、うんざりさせていたのだった。
「ああも示し合わせたかのように事件が頻繁すると、ウチらへの組織的な嫌がらせに思えてくる」
「モリアーティ教授がどこかに潜んでたりして」
「あり得る」
ショーンのジョークにふたりは目を合わせ、くすくすと笑った。
「……カムデンタウンであった画商殺しの事件、覚えてる?」
サンドウィッチを半分ほど食べ終え、程よい満腹感を覚えだしたところで、ポールはおもむろに切り出す。「愛人の若い女が、30歳以上も歳の離れた男を刺し殺した……」
「あぁ、先月末の話だっけ? 確か臨月の女性が犯人だった」
「そう、その事件。僕の担当だったんだ」
2切れ目のサンドウィッチにぱくりと噛みついていたショーンが、声を出せない、言葉を発せないかわりに眉を引きあげた。茶目っ気のある表情に、胸のあたりがじんわりと暖かくなるような愛しさを感じながら、ポールは話を続ける。
「現行犯でその女を逮捕した後、ウチで事情聴取して送検だってなったところで、急に産気づかれてさ」
「ニュースになってたね」
「そんなの前代未聞で、その場にいた全員が泡食ったよ」
ポールは当時の状況を思い出し、青息吐息混じりに笑った。……美術業界ではそれなりに有名らしい50代の画商と不倫関係にあった女は、男の子どもを身ごもると堕胎させられることを恐れ、臨月がくるまで姿を隠していた。そして事件当日、カムデンタウンにある男の画廊で7ヶ月ぶりの再会を果たすやいなや、愕然としがたがたと震える男にお腹のなかの子供を認知するよう迫った。
しかし、元モデルの恐妻と3人の子供がいる画商にとって、女の要求に二つ返事ができすはずもなく、しどろもどろになりながら拒否すると、女は激昂し、口論の末にカバンの中にあった護身用ナイフを取り出し、男の腹部を深く刺した。男の死因は失血性ショックだった。
労働階級の貧しい家の出である女は、ピカデリーサーカスにある小劇団の舞台女優だった。2年前、座長に連れられ参加したパーティーで画商と知り合い、男女の関係に発展した。画商は女優業だけでは生計を立てることができず、風俗業を掛け持ちしていた女のパトロンも務め、女は彼に頼りきっていたという。
とにかく、自身の出自がトラウマになっているような人間だった。貧困から抜け出すために持ち前の美貌を活かし、女優として成功することを夢見て、19歳で両親の反対を押し切ってリバプールの実家を飛び出し、小劇団に入ったはいいが、現実はそう思い通りにはいかなかった。
――ならば、こうして羽振りの良い男にしがみついて生きていけばいい。
相手は自分に骨抜きにされている。だから、搾り取れるところまで搾り取ってやり、捨てられたのなら、また別の金持ちを捕まえて、同じことを繰り返せばいい。……教養はないが、人が羨む容姿に生まれた自分だからこそできる生き方だと思っており、女は満足していた。はずだった。
「――どうして堕胎しなかったのか。聴取を始めてすぐの頃にそう訊ねた時、『産みたいからに決まってるじゃない』ってつっけんどんに返されてさ。だから、認知させて養育費を貰おうとしたのかって訊いたら、『金なんてどうでも良い』って怒鳴られた」
新聞やニュースで女の動機を知り得ているのだろう、ショーンはこれといった反応はせず、食事をしつつこちらの話を静かに聞いていた。
「……容疑者は物言いや考え方が妙に自信過剰だった。被害者が家庭を手離すことはなくとも自分を選んでくれると思ってたんだ。だから口論になった際、絶対に認知しないって突き放してきた相手にカッときて――」
ポールはそこで言葉を切り、フラット・ホワイトを飲んだ。……痴情のもつれによる傷害事件や殺人事件は、いつの時代にもある。今回の事件もよくある話と言えばそうなのかも知れないが、一生忘れることはないだろう。
いや、自分が関わった事件はすべて記憶に残るに違いないが、その中でも今回の件はそうそう色褪せないはずだ。
「容疑者が陣痛で苦しみだした時、その場に男しかいなくて……ほら、ウチって仕事柄、奥さんの出産に立ち会えない人たちばかりだからさ、誰も要領が分からなかったんだ。だけど苦しんでる妊婦を前に呆然としてるわけにもいかないし、救急車が来るまでの間、僕がずっと彼女の介抱して」
「それは大変だったね」
「本当に」
そう言って、食べさしのサンドウィッチを少し齧る。「……初めてのことであたふたしながら、背中をさすったり顔の汗をぬぐったりしたけど、どうも上手くできてなかったみたいで、『あんた、自分の奥さんの時もそんなだったの!?』って呻きながら一喝された」
ショーンが思わずといった様子で噴き出し、笑いだした。「そんなこと言われたんだ」
「なんて返せばいいか分からなくて黙ってたら、『もういい! 私に触らないで!』って手を払われて、結局うずくまってる彼女のそばにいるしかなくて……」
ポールは力なく笑い、何気なく左手薬指にはめた結婚指輪をいじった。「気の強い女は苦手だ」
「でも、無事に出産したんだよね?」
笑いがおさまったところで、ショーンはサンドウィッチを食べきり、パン屑がついた手を払いながら訊ねてきた。ポールは首肯する。
「なんとか。けど、容疑者の両親は経済的にとても育てることができないって言って赤ん坊を引き取ろうとしないし、親族に至っては連絡が繋がらないから、施設に預けることになった。……女が刑務所で服役を終える頃にはそれなりの年齢になってるだろうけど、一緒に暮らすのは難しいかも知れないな」
なんて身勝手な女なのだろうと、ポールは改めて呆れていた。聴取時から何度となくそう思っていたが、それ以外の感情が胸のうちに湧くことはなかった。昔の自分であれば少なからず憤っていたに違いないが、事件の動機などに触れ、そういった若々しい感情を露わにする度に、元より強靭とは言い難い精神が擦り減っていく実感があった故に、現在では極力何も考えないよう努めていた。刑事の仕事において、怒りや感傷を圧し殺し理性的であることが、何よりもの自己防衛だった。
けれども職場を離れている今、産まれながらにして殺人犯の子どもという肩書きを背負ってしまった赤ん坊の今後を思うと、確かに胸が痛んでいた。
その事実を認識できるほどに成長した彼女が受ける衝撃と苦悩は、きっと計り知れず、陰鬱とした暗い影がつきまとう人生が始まってしまうのではないか。だとすれば、そんな彼女を支えてくれるような人間は現れるのだろうか。血縁者から救いの手を差し伸べられなかった彼女を、だ。
それに学校に通い始めれば、周囲の子どもたちと上手く馴染むことができるのだろうか。子どもたちの純粋が故の言動によって彼女の心は傷つくのではないだろうか。そんな時に彼女は何を思い、感じるのだろうか。……そういった取りとめのないことを考えていると、ため息が吹き出ていた。
事件を担当したとは言え、女の子どもは自分にとっては他人だ。憂慮することはないのかも知れないが、刑事としてではなくひとりの人間として、ポールは少なからずそんな心境に浸っていた。
残りのサンドウィッチを食べきると、「これ以上は無理」と言わんばかりに胃袋がずしりと重くなり、少々苦しかった。それを紛らわせようとコーヒーを流し込み、ほっと息を吐いたところで、こちらの心に沁み入るようにショーンの凪いだ声がした。
「まぁ、こんなことになってしまった以上元も子もないけど……その女性は何があっても、相手の子どもを産みたかったんだろうね」
「……既婚者だと分かっていても割り切ることができずにいたのが、殺害に繋がったのは確かだ」
ポールは言う。「慕う気持ちが大きかった分、突き放された時に感じた怒りは凄まじかったんだと思う。発作的に相手を刺して、我に返った時には死んでたって言ってたくらいだから」
「だったら、子どものこともきっと、愛しくてたまらなかったんだろうね」
ちらりとショーンを見る。口調同様、彼の表情は穏やかだ。……命を尊び、救う人間である彼が女の動機を噛み砕き、そう考えるのは当然といえば当然なのかも知れない。
彼からしてみれば、善人であろうと悪人であろうと、罪人であろうと、向こう見ずで無責任な人間であろうと、傷つき、苦しみ、命が削がれゆくものなら、あらゆる手を尽くして救済する。そうして生命の営みは継続し、成功を手にする者がいれば、新たな生を宿し、親になる者もいるだろう。ショーンはそういった可能性や未来にも責任を持ち、守り抜こうとする男だ。職業柄もあるが、それが彼の人間性であった。
……とてもじゃないが、自分はそうはなれない。そこに至るまでの絶望であったり無力感であったり、悲しみを経験を基にした人格形成がされなければ、そんな風に生きることはできない。そして、そんな人生に苦悩しても、決して不幸の一語でまとめることのない彼に、自分はどうしようもなく惹かれ、いささか恐怖を覚えながらも、彼の心の拠りどころになると誓ったのだ。
「……赤ん坊は、幸せになれるのかな」
「不幸せなことも苦労することも、たくさんあるだろうけど、それだけでは決してないはずだと信じたいし、そう願いたいな」
会ったこともない赤の他人の子どもであるが、まるで目の前にその子がいるかのような、慈愛に満ちた声と面持ちでショーンは言った。「その子に対する責任も何も持たないから傲慢なのかも知れない。でも、そう信じて祈る自由くらいはあってもいいんじゃないかって思う」
……真っ直ぐな人だ。白黒のはっきりとしない現代社会に容易く馴染みながらも、偽りのない思いをするりと口にする目の前の男に、ポールは苦笑いのような呆れたような表情を見せた。そのあり余るほどの実直さ、優しさがどこか歪であり、呪いのようなものであると、ポールだけではなくショーン本人も気づいている。けれども、そうとしか生きられない以上は受け容れるしかない。それがふたりの在り方で、それに美醜や是非の判断をつけることはなかった。
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