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第5話

 フラット・ホワイトを飲み終え、しばらくぼんやりしたのち、ふたりはさらに賑わってきた店を後にした。  腕時計は、午前8時47分を指していた。どんよりとした空模様はいつもどおりで、鉛を連想させる灰色がかった空に朧げな輝きをまとった朝日が浮いていた。  薄明るい朝の街は、人々の目覚めに合わせて起動していた。平日なので、仕事へ向かう人の車が行き交い、住宅のカーテンは開けられ、主婦が慌ただしく家の中を動き回る。子どもたちは今頃、学校で授業を受けているのだろう。  自宅に戻り、閉めきったままだったリビングのカーテンを開けてから、ポールはソファーに腰をおろし、スマートフォンで大英博物館行きのバスの時刻を調べた。……30分後のトラファルガー・スクエア行きに乗り、大英博物館行きに乗り換えれば、10時頃には着くはずだ。出かけるまでの間に寝室の片づけでもしていようか。  せっかくなので、1ヶ月以上ぶりにコンタクトレンズにしようか。ショーンと外出する時くらいしかする機会がないし、確か使用期限が切れかかっているのが1セットあったはずだ。レンズをはめるついでに、鏡の水垢が目立ち始めているので、洗面所を掃除することにしよう。……寝室は綺麗にしてもどうせ、帰宅すればまたぐちゃぐちゃになるだろうから。  わずかに熱くなった顔を手で扇ぎ、ポールはソファーから立ち上がる。ちょうどその時、キッチンの換気扇の前で一服し終えたショーンがこちらに来たので、洗面所へ向かいながら口を開いた。 「30分後のバスに乗ろうか。この時間帯だし、道は混んでないと思うから、トラファルガー・スクエアで乗り換えが上手くいけば、30分くらいで博物館まで行けそうだ」 「うん」と、ショーンから返事がくる。ポールは満腹からくる眠気を身体から追い出そうと、ぐっと伸びて欠伸をする。 「あ、昼飯の店、どうしようか。ソーホーだし、久しぶりに中華料理でもいいかもって思うけど、どうだろう? 貴方は何が食べたい?」 「……そうだねぇ」 「あの辺りなら、評判の良い店が結構ありそうだし、ぶらついてみて決めてもいいかも」 「……うん」 「あ、でも平日でも、お昼時は混んでそうだな。やっぱり先に探しておいて、席予約して――」  シャワールーム兼洗面所のドアを開けようとしたところで、ふいに手首を掴まれる。身体がびくっと跳ね、そして固まった。  振り向きざまのことだった。目を見開いた時にはもう唇を塞がれ、眼前にはまぶたをおろしたショーンの甘ったるい顔があった。ひと呼吸後には煙草臭い唇は離れ、苦笑いのような照れくさそうな笑みを浮かべて、ショーンは額同士を擦りつけてきた。 「……せっかくのオフだし、外出しなきゃもったいないって思うんだけど」  声に情欲が混ざっていた。唾液で濡れた唇にはじっとりとした吐息がかかり、ポールは小さく身震いする。下半身にずくりと重みが孕み、腹のなかがじわりと熱くなったような気がした。  昨夜の名残が身体じゅうに波紋のように広がっていく。広がった波紋はやがて蝕むような微かな痛みとなり、体内を巡った。 「今日は一日中ずっと、君を味わいたいなぁ、なんて」  こちらの両眼に降り注ぐように向けられた碧眼は、指先が触れれば溶けてしまいそうなほどの熱を帯びているようだった。柔和な表情と口調のなかに、それらと相反する激しい劣情が確かに含まれている。……この人は、僕を求めている。僕そのものを喰わんばかりに求めている。そう確信すれば、身体のなかはさらに熱くなり、毒が溶け込んだかのような淡い痛みを感じたのだった。 「……もったいないな」  ショーンの情熱的な視線からゆらりと逃れながら、ポールは低い声でぼそっとそう言った。「レベッカに、博物館に行った感想を教えてほしいって言われてるのに」 「ごめん」 「手袋とマフラー、買いたかったのに」 「うん、ごめんね」 「いや、謝らなくていい……」  ポールは口元を手の甲で隠し、赤くなった顔をショーンから逸らした。……謝らないでほしかった。好きな男からそんな風に誘われ、求められ、嬉しくないわけがない。自分という人間は存外容易く、扱いやすいのだと、ショーンとのこれまでの日々のなかで気づかされていた。恥ずかしくて、自分自身に苛立ちを覚え、けれどもどこか愛しく思える。それは多分、そんな側面を含め、ショーンがすべて受け容れてくれていると知っているからで、ポールもまたそういった自分を認め、受容しているのだ。 「僕も……、それがいい。そうしたいって、思ってるから」  ふふっとそよ風のような笑い声が聞こえたかと思えば、顎を掴まれ、唇を食まれた。口内にぬるりと舌が入ってきて、下唇の裏側をちろちろと舐められると、下腹部のあたりに甘い微弱電流が走り、腰がひくりと強ばった。  たまらず、ポールはショーンの背中に腕を回し、自らも積極的に相手の熱い舌に絡んでいった。一度スイッチが入ってしまえば、後はもうショーンのことしか考えられなくなる。相手を貪らんばかりに求めてしまうのは、自分も同じだった。 「――シャワー、浴びよっか」  長くて深いキスを終え、ショーンが耳朶を甘噛みしながら囁いてきた。それに対し、「うん」と答え、目を伏せた瞬間にはもう、子どもがお気に入りのぬいぐるみにそうするように、ふわっと身体を抱き上げられていた。

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