9 / 9

第9話

 ベッドのなかにずっといると、時間の感覚がなくなってしまっていけない。何気なくベッドサイドの目覚まし時計に気だるげな視線をやり、14時過ぎだと知った時は呆れ、笑うしかなかった。  身体、主に腰と頭に倦怠感がべったりとへばりついていた。かすかに鈍い痛みを孕んだそれは、さきほどから微動だにすることなく、筋肉や脳髄に我が物顔で居座っている。じくじく、じくじくとその存在を主張している。  嫌な感じ、なのかも知れない。けれどもそうと感じないのは、それがショーンとの行為によってもたらされたもので、むしろそこはかとなく幸福だった。ふぁ、とあくびを噛み殺しながらも、目元や口元は笑みを湛え続ける。ポールは目のふちに滲んだ涙を人差し指で拭った後、その手をショーンの広い背中に回し、眼前にある分厚い胸板に額を擦りつけた。 「眠い?」と、頭上から甘く掠れた声が降ってくる。小さく頷けば、ショーンは左手で後頭部を撫でてきた。幼児を寝かしつけるような、ゆっくりとした優しい手つきに睡眠欲がむくむくと育ち、またあくびが出る。ポールはおもむろに口を大きく開きながら、ショーンを抱きしめる腕の力を少しばかり強めた。  ……幸せだ。  情事の名残を思わせる素肌同士の密着、人肌のぬくもり、呼吸するたびに鼻腔をくすぐってくるほのかな汗のにおい、穏やかな心臓の音、裸の自分たちをくるりと包むシーツのさらりとした感触。そして、それらを思う存分堪能できるこのひととき。そのすべてが心を満たし、睡眠を促してくる。 「……昼間から、何やってんだろ」  うとうととしながらそう呟けば、ショーンが小さく軽快に笑う。 「有意義な時間だと思うけど」 「爛れてるよ」 「たまには、こんな休日があってもいいんじゃない?」  やおら、ショーンが身体を離してきた。ぼうっと暗くなりつつあった意識がふっと明るくなり、顔を上げれば、柔らかいもので唇を覆われる。ちゅっ、と下唇を甘く吸われ、そのくすぐったさにふふっと笑い声が吹き出た。 「ちょっと、もう無理だって」 「分かってる。眠っていいよ」  そう言って、ショーンはまた唇を食んでくる。今度は舌で口の中までぬるりと舐めてきた。こんなことをされて平静と眠りにつけるわけがなく、くすくすと喉奥から笑い声が転がり出てくる。  あれから、ショーンは2回避妊具を付け替え、ポールの中で果てていた。自分はと言うと、少なくともその2倍ほど高みにのぼりつめ、出せるものは何も残っていなかった。体力も底をついている。それでもショーンの可愛げのないキスを受け容れると、身体の芯がまたぼうっと熱を帯び始めた。  お互い30代半ばで、盛りは過ぎ、あとは下がっていくだけだというのに、若いカップルよりもがっつき合っている気がして、世話がないと胸のうちで失笑する。けれども、こんなに肌を重ねられるのは久しぶりで、明日からまたしばらくご無沙汰になるとを思うと、翌朝ベッドから起き上がれない……とまでいくと困るが、その手前くらいまでなら、と考えなくもなかった。  それに、ショーンに求められると嬉しくて、拒むという選択肢をどうも消してしまう。定職につかず、借金をこしらえるような駄目な男に惚れたら人生が終わるタイプだという自覚はある。好きになったのがショーンで良かったが、直すべきだと思う。……まぁ、それはおいおいと言うことで。 「……ん……ショーン、……」 「……ん?」 「もう1回、だけ……――」  ピリリッ、ピリリッと弾くような電子音と耳障りなバイブ音が織りなす不協和音がベッドサイドから聞こえてきたのは、その時だった。  喉が渇いてひりひりしそうなほどの甘ったるい空気がさっと散っていき、ふたりの動きがぴたりと止まる。ポールは眉間にわずかに皺を寄せ、ふーっと鼻から息を吐き出した。……鳴っているのは自分の仕事用の携帯電話だった。  嫌な予感がし、ショーンと顔を見合わせる。ショーンは微笑んで「出てもいいよ」と言ってくれた。ため息をつきながらベッドサイドにあるそれを掴み、発信者を確認すると、眉間の皺が深くなる。 「――……スコットです」 「あぁ、ポール」と、上司のサム・ローリー警部補の申し訳なさそうな声がスピーカーから聞こえてくる。「オフのところすまないね。今、少しいいかね?」 「はい、大丈夫です」  ポールはぼさぼさの髪を手ぐしで整えながら、身体を起こした。事件が起きたのだと直感した。休暇中の自分にまで連絡がきたということは、人手が足りない――管轄内で複数の事件が発生したのだろう。 「ワンズワース区で通り魔だ」  やはり。ポールは整えた髪を台無しにするように、がしがしと乱雑に掻いた。ショーンは寝転んだまま、こちらをぼうっと見上げていた。 「場所は?」 「バッタシー・パーク・ロード。シアター503という劇場付近。通行人が3人刺され、2人が心肺停止。犯人は20代くらいの若い男性、現在逃走中」 「シアター503……ウチからは車で10分ほどか……人手が足りないんですか?」 「察しがいいな」  ローリーがため息まじりに笑う。「今朝、イーストエンドの空き家でひとり分の切断遺体が見つかった上、サザークの桟橋下で女性の絞殺体が発見された。そちらにウチの奴らも向かわせていて、手薄になっている」 「またそんな厄介なことが……」 「困ったもんだ。こうも事件が立て続けに起こると、各方面からうるさく言われて、流石の私も参る」  あぁ、と重い声がこぼれる。ここ最近の殺人事件の頻発により、《ロンドン市民の安全を守る会》だとか、《刑事事件被害者の会》などといった市民団体からの苦情や叱咤激励が警視庁に数多く届いているようだが、今回でその声がより一層激しくなるのは必至だろう。  さらにはマスコミによる警察叩き、警視庁上層部からの憤怒と焦燥の声も大きくなるに違いなく、自分を含めSCO1の面々はまた、心身の疲労とプレッシャーのなかで事件を片していかなければならない。……今後、若い奴を中心に集団退職しないか心配だった。 「もし出てこれるなら、今日の分の代休をどこかで取ってくれればいい。だが、無理強いはしないよ。ダメ元で電話をかけてみたからね」  そうは言われても、事情を知った以上……いや、この電話に出た以上、断ることなどできなかった。ショーンをちらりと見れば、表情で色々と察してくれたのだろう、彼は肩をすくめて笑いながらも、唇が「行っておいで」と動いた。……スピーカーを手で押さえ、ごめんと囁いたのち、ポールは電話を持ち直し、「現場へ向かいます」と告げた。 「……申し訳ないが、よろしく頼む。ゲイリーとトムをそちらに向かわせている。私からゲイリーに連絡を入れるから、合流したら詳細を確認し、指示を仰いでくれ」 「承知しました、では」  そう言って電話を切ったところで、ショーンがのっそりと身を起こし、顔を覗き込んできた。何が起こったの、とその顔には書いてあった。 「シアター503の近くで通り魔だ」と硬い声で答えてベッドの下に落ちた下着を拾い、もそもそと履く。「犯人は逃走中。今日は外に出ない方がいい」 「怪我人は?」  そう訊ねてきたショーンの表情には緊張感があった。仕事から離れていても、救命救急医としての思考が定着しているのだろう。それに、真っ先に着眼する点が刑事の自分と異なっていた。 「刺された3人のうち、ふたりは心肺停止だって聞いてる」 「……ウチの救命に運び込まれてるかも知れないな」  いつもの朗らかさが雲散した低い声でそう独りごちたショーンの手を握ってから、ポールは下着姿でベッドを出てシャワールームへ向かった。身体中にへばりついた汗や体液だけでなく、眠気や疲労もまとめて洗い流し、着替えようと寝室に戻れば、下着を履いたショーンがベッドに腰かけ、ポールの革靴をクリーナーと布で磨いていた。 「……ありがとう」 「うん」  ショーンはそして、寂しそうに笑った。「今日は1日中、君を独り占めできると思ってたんだけどな」 「ごめん」 「いいや、いいんだ。それに、我が儘を言う権利なんて俺にはないし」  ポールはクローゼットを開け、背広を取り出しながら苦笑した。「アフガン派遣の件なら、今更気にしなくていいのに」 「離れて暮らしてる間、寂しい思いさせたし、心配かけたからね」 「寂しい思いをしたのは僕だけ?」 「……そんなこと言われたら、しがみついて離れなくなるよ?」 「それは困るな」  インナーシャツを着て、ワイシャツに袖を通す。紺色の靴下を履き、スラックスを穿いたところで、足元に革靴が置かれた。目の前に翳せば、自分の顔が映りそうなほどにツヤツヤに磨かれていた。 「君はいつも、仕事への熱意がないとか妥協ばかりしてるって言うけど、決して惰性的にはならないよね」  クリーナーと布を靴箱にしまいながら、ショーンは穏やかに言った。「君の、そういう真面目さが好きだな」 「ありがとう。でも、たいていの人がそうだ」 「そうなのかな?」 「そうだよ。それでも向き合わなきゃならないのが仕事だと思ってる。責任感からくるものなのか、強迫観念なのかは人それぞれだろうけど」  2年前の誕生日にショーンから貰ったフェンディのネクタイの詰め合わせの中から、灰色と茶色のストライプが入った紺色のネクタイを選び、クローゼットに備えつけられた鏡の前で手早く結ぶ。そして、ショーンが用意してくれた革靴を履き、クローゼットの扉を閉めた。  刑事という仕事に夢や理想など、抱いていない。そんな時期はとうの昔に過ぎ去った。  しかし刑事として、自分が今何をすべきか、頭や身体がしっかり把握し、的確に動いている。夫とのだらしないけれども満ち足りた休日を過ごすゲイから、大学時代に学んだプロファイリングを駆使し、犯人逮捕に奔走する中堅刑事へと思考が置き換えられている。旬の刑事ドラマのような華やかさは皆無の、地味で地道で精神がすり減る仕事だが、それでもやらねばならないと自分に言い聞かせているのだ。  ベッドサイドに置かれたメガネをかければ、まるでカメラのピントが合った時のように、ぼやけがちだった視界はクリアになり、背筋がピンと伸びた。仕事用のカバンに財布やハンカチ、仕事用の携帯と個人のスマートフォンを入れ、出かける準備は整った。ショーンもベッドの上にあった服を着て、シューズを履いた。ふたりは寝室を出て、玄関へと向かう。 「――帰る時は連絡する。多分遅くなるから先に寝てて。晩飯は食べてくるから」  ドアの前でポールは振り返り、ちょうど欠伸を噛み殺していたショーンに言った。ふにゃりといささか間抜けな表情のまま、彼は笑みを湛えた。 「……ベッドは暖めておくよ。気をつけて」  ショーンの右腕がするっと腰に回ってきた。くっと身体を引き寄せられたので、ゆっくりと目を閉じれば、唇をやわく吸われた。  ちゅっ、と軽やかな音を立て、ショーンの顔が離れていく。まぶたを上げたポールは、一切の濁りのない鮮やかな碧眼に向かって微笑んだ。 「行ってくる」 「あぁ、行ってらっしゃい」  腰にあった手は離れ、鼓舞するように背中を軽く叩かれる。ゆるやかな弧を描いていた唇が水平に伸びた。ポールはドアを開け、薄暗いコンクリートの廊下に革靴の乾いた足音を響かせた。

ともだちにシェアしよう!