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第5話

 壁時計が21時30分を指す頃、ショーンとポールは「明日も仕事だから」とチェックを頼んできた。煙草代を差し引いた金額で会計を済ませると、ふたりは席を立ち、アウターを着込み、そして酒でふやけた顔に笑みを浮かべて私を見た。 「ご馳走さま。また来るね」 「ええ、いつでも」  私は汚れたグラスを洗いながら笑顔を返す。「今度、私のウチに遊びに来て。今夜のお礼をさせて頂戴」 「お礼だなんて、気にしないでよ」 「いいえ、というかただ単に仕事抜きでアンタ達と会いたいのよ」  そういうことなら、とふたりは笑みを深くした。そして「また連絡するよ」と言ってショーンはポールの細い腰を抱き、店を出ようとした。その時だった。 「……あ、ごめん、先に出てて。手洗いに行ってくる」  ポールはつとそう言い、ゆるりと身を翻してショーンの腕から離れる。「すぐに行くから、ごめん」 「分かった。タクシー拾っておくよ」 「ありがとう」  ショーンは唇を左右に広げたまま、ポールの頭にキスを落とし、店を出て行った。カランカランとドアベルの音が鳴り、キィと木扉の軋む音が床を這う。それらが消えていったところで、ポールはふっと息を吐き出し、先ほどとは打って変わり、申し訳なさそうな表情で私と向き合った。 「どうしたのよ、そんな顔して。トイレ行くんでしょ?」 「いや、それは嘘」  ポールはそれから、がしがしと後頭部を掻き、もそもそとした声で「あの、その……なんかごめん」と謝ってくるので、洗い物をやめ、眉間に皺を寄せる。 「何で謝るの?」 「えっと……貴女がそんな時にふたりで来てしまって……」 「何言ってんのよ」  私は思わず目を丸くし、コンマ数秒後には噴き出していた。「アンタ達は私の友達だけど、お金を出してこの店の酒を飲んでるんだから客でもあるの。私が彼氏に逃げられて落ち込んでいようが、アンタ達が相変わらず呆れるくらいラブラブだろうが、これはこれ、それはそれ。だから変な気を遣わないでちょうだい」 「……気のせいかな、割と刺々しいこと言われたような」 「あら、気のせいよ」  ふふ、と笑みを溢し、努めて明るい口調で言葉を返す。……改めて、気の毒なまでに他人に気を遣い過ぎる子だと思った。自己評価の低さや、過度なまでに自責の念を感じてしまう性格は、ショーンとの日々によってだいぶ改善されたそうだが、今でも随分と生き辛い思いをしているのだろうと思うと、私やショーンの分厚い面の皮を分けてあげたくなる。もっと遠慮なく、好き勝手に生きても文句は言われないわよ、とその慎ましい背中を何度も叩いてあげたくなる。 「ありがとう」  私は目尻を柔らかく引き絞った。「アンタの優しさは十分に伝わってるわ」  翳っていたポールの表情に明るさが戻る。彼は誰かさんに似た穏やかな微笑みを目元や口元に滲ませると、「お疲れ様」と労いの言葉を残して、店を出て行った。  ひとりきりになった店内には、私たちが吸った煙草のにおいが残り、ジャズ調のピアノ曲がおとなしく流れているだけだった。賑やかとまではいかなくとも、ショーンとポールによって暖められた空気が、ゆっくりと冷めていくのを感じる。朝靄のような物寂しさが胸のうちに広がって、なんだか鼻の奥がツンとした。  ……いいえ、私は大丈夫。オジサンになろうが、肌が曲がり角に差し掛かかろうが、手痛い失恋を経験しようが、胸を張っていたらいい。私の人生は、まだまだこれからも続くのだから、諦めるなんてもったいないわ。  ええ、決めた。いつかあのふたりがびっくりするくらいのいい男を捕まえて、コーラの原液よろしく病的に甘いところを見せつけてやるわ。そうよ、私はこうでなくっちゃ。  次にふたりに会う時には、いつもの勝ち気でさっぱりとした私に戻っているはず。いつまでも湿っぽい気持ちでいたら、黴が生えてしまうわ。  すんすんと鼻を啜りながら、洗い物を再開する。気分は幾分、上向きになった。程なくして例のドアベルが鳴り、本日2組目の客がやって来た。ビアンカップルらしき彼女たちに艶やかな笑顔を振りまけば、胸のなかにあった暗い感情たちがすうっと晴れていくのを感じた。

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