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第4話
「――出て行かれたの」
紫煙を吐き出しながら口にしたひと言に、ポールは顔を上げ、ショーンは穏やかな表情を変えることなく頬杖をつき、私を見た。
「いつもの、些細な言い合いで終わると思ってた。けど、あの日は違った。多分これまでの、積もりに積もったものが噴き出したのかも。彼、怒ってたかと思ったら、ふっと気が抜けたような表情になっちゃって、『いいよ、分かったよ』なんて言って……翌朝、仕事から帰ってきたら彼の私物ごと消えていなくなっていて、洗面所に彼のスマホが水没していたわ」
淡々と話す私に、ポールはもちろん、さすがのショーンも二の句が継げないでいるようだった。ふたりの固まった表情を見て、煙草臭い苦笑が吹き出る。
「私が負担だったのか、私との生活がそうだったのか、分からないけど、そこまでされちゃったってことはもう無理よね……彼の職場の前で待ち伏せる勇気や、みっともなくても食い下がってやるっていう情熱をハナから砕かれたもの。というわけで、元サヤは絶望的。ばいばい、二度と会うことはないでしょうねって感じ」
「……そんなに突然だったんだ」
「遅かれ早かれ、こうなるだろうって思って覚悟はしてたわ。でも、実際になっちゃうと途方にくれるものね……同じ酒でいい? それとも別のにする?」
「あぁ、同じのでお願い」
ショーンから空いたグラスを受け取った私は、棚から新しいグラスを取り出し、タラモア・デューを注いで渡した。ニューヨークで売られているカップケーキのような、どこまでも甘ったるい微笑みを浮かべてショーンは礼を言ってから、すうっと静謐な表情になってウイスキーに口づけた。
出っぱった喉仏が上下に動くのを見ているうちに、口腔に唾液が溜まり、喉奥がカッと渇いてくる。……酒を嗜むいい男は、極上の肴だ。いくら気分が塞いでいようが、身体が酒を欲してくる。そしてその様をこの特等席で正面から拝めるというのが、儲けが少なくとも店を続けている理由のひとつでもあった。
ジョニー・ウォーカーで喉を潤し、湿った口のなかを煙草で汚す。身体の芯や脳髄がぼんやりと熱くなるのを感じながら、吸い終えた煙草を灰皿に押しつけたところで、ショーンの深みのある低音が耳に入ってきた。
「それで、未練はないの?」
「……ないって言えば嘘になるわ」
私は肩をすくめて笑い、胸に手をあてる。「ただ、ここに残っているこの感情が、愛情なのか依存心なのかが分からない。どっちもなのかしらね」
「だったら、勇気や情熱がないなんて言ってないで、一度会いに行けばいいのに」
「……僕もそう思う」
控えめな声色でポールがショーンの意見に同意した。「いや、僕もケニーの立場だったら同じ心境に至ってると思うから、この人みたいにズバッとは言えないんだけどさ……」
「俺は、しない後悔よりする後悔派だからね」
そうだ、この男はそういう奴だ。のんびりと煙草を喫するショーンを見つめながら、ポールも「まったくその通りだな」と言いたげな表情で苦笑した。これまでもこれからも彼はそうやって生きるのだと、ポールは身を以て知っているのだろう。そして、仕方がないとため息をつきながらも、彼に一生付き合うのだろう。穏やかな見た目と口調に反して、強引で芯の強いこの男に手を引かれながら、共に歩んでいくのだろう。
「だって、その気持ちを抱えてしばらく生きるのも、しんどいでしょ。今以上に傷ついたとしても、相手の顔を見て伝えたいことを伝えきった方が、早く立ち直れるんじゃないかな」
「傷ついたら、その分立ち直るのが遅くならない?」
ポールは眉間に浅い皺を作り、眉尻を下げてショーンに言うが、ショーンは小さくかぶりを振り、私を見てふふっと笑う。
「ケニーなら心配いらないよ。君も知ってるでしょ? この人、結構逞しいから」
「あら、言ってくれるじゃない」
私は挑発的な笑みを顔に描き、ウイスキーグラスを唇に傾けた。……確かにショーンの言う通りだ。主に両親の死を経験したことで精神面が鍛えられ、何だかんだ言いながらも図太く生きてきたのが私だ。そして、互いの人となりを理解し、熟知した間柄だからこそ、遠慮のない言葉と態度を交わし合える。互いに同性愛者だが恋愛対象にはなり得ない長年の友人は、中年の入り口に立とうとしている私にとって、欠かすことのできない存在だった。
そういう意味では、私は決して孤独ではない。お金には困らず、好きな職についており、徐々に劣化しているものの「美形だ」と褒めそやされ、色んな男とのロマンスを経験しても、どこか空疎な日々を過ごしていた私を否定するかのように、ショーンは私の胸のうちにいて、そして目の前にもいる。……彼の存在が、その実どうしようもない私の心を救い、支えてくれている。有り難いことだ。
「……まぁ確かに、私はタフよ。だからたくさん恋をして、その度に破れ去っても、次を求めて生きてきた。けどね、私だってか弱くなる年頃なの。アンタたちのアドバイスは聞き入れないわ」
「……まぁ、押しつけるつもりはないよ」
まるで引き潮のようにショーンはさっと引き下がると、静かに微笑みながら酒を飲んだ。ポールの方は何か言いたげだったが、ショーンに倣ってスタウトをぐいぐいっと飲み、言葉も共に胃の腑へと流し込んだようだった。泡だけが貼りついたビールグラスをテーブルに置き、小皿に盛ったナッツをパクパクと口に入れ、カリカリと音を立てて咀嚼する。2杯目がいるかと訊ねたが、「やめておく」と返ってきた。
「オジサンの私に、次なんてあるのかしらね」
ポールにチェイサーを渡し、自分のグラスにウイスキーを注ぎながらため息混じりに呟けば、ショーンがふふっと笑う。
「大丈夫だよ、君は今も美人なんだから」
ショーンの励ましの言葉に、ポールがこくりと頷く。そばかすが散らばる頬は、アルコールのおかげでほんのりと赤くなり、唇はわずかにだが弧を描いていた。
「美人ね……そりゃあ聞き飽きた言葉だけど」
「聞き飽きてるんだ」ポールがくすりと笑う。
「ええ。でも、それも昔の話。今の私なんて、肌はぼろぼろだし顔は浮腫みがちだし? 皺も出てきたもの」
「それでも、君は綺麗だ」
ショーンがいやにはっきりきっぱりと言うものだから、私もポールも少々面食らった。が、すぐに私は腕を組み、頬杖をついて、ニヤニヤとした顔をポールに向ける。
「ちょっと、アンタいいの? 旦那が目の前で他の男口説いてるわよ」
「口説いてはいないよ、称賛してるんだ。だから見逃して?」
「見逃すわけにはいかないわ。ね、ポール?」
「うーん、後で説教だな」
冗談めいたやり取りに3人でニヤニヤと笑ってから、ショーンは少しばかり色を正し、澄んだ瑠璃色の双眸を私にじっと向けてくる。
「真面目な話、君が誰よりも信じなきゃ、くるものもこないよ。というか、そんな弱気になって君らしくない。まだまだ弾けてなきゃダメだよ」
「……それで、いいのかしら」
「いいよ。そしたら、ひょいと現れるかも知れないよ、ジョニー・ウォーカーみたいな男がさ」
思わず目を丸くし、右手に持ったウイスキーグラスに視線をやる。店の仄暗い灯りに照らされ、宝石のように煌めくグラス、それを彩る琥珀色の酒。身も心も恍惚とさせてくれるそのウイスキーは、ゆらゆらと水面が揺れ、鏡のように私の顔を映している。
ずっと見つめていたら、いつしかこの中に飲み込まれ、情熱的に抱擁され、そして氷のようにじんわりと溶けなくなりそうだった。真夏のいきれた風を孕んだ小さなこの海に、私は何もかもを剥ぎ取られ、素肌を犯され、身体の奥底まで浸され、ゆっくりと殺されていく……。
もがくほどに苦しいだろう。けれどもそれ以上に、熱く熱く、涙が溢れて止まらないくらいにうっとりとし、このまま死ねるのなら本望だと思えるほどに満たされるに違いない。……これから先、そんな男と巡り会えるのだろうか。そんな、なりふり構っていられなくなるような恋が、私にできるのだろうか。
「……信じるわ」
口の端からスコーンの欠片をこぼすように、肯定的な言葉をぽろっと出せば、ショーンとポールは揃って相好を崩し、それぞれグラスを持って私の前に掲げた。3つのグラスは、キンと澄んだ音を響かせ、指先の骨に浸透していった。
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