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第3話

 入り口の木扉がゆっくりと開き、ドアベルのカランカランという軽い音が店内に鳴り響いた。ネイビーのトレンチコートにフレンチグレーのマフラーをふんわりと巻いた姿で、ポールが白い息を吐きながら店に入ってくる。 視界にショーンの姿が映ったのだろう、彼はほのかに表情を明るくさせ、次いで私を見て、「こんばんわ」と目を細めた。 「ほら、アンタのスイートハートよ」 「スイートハートだなんて」  ポールは苦いような面映ゆいような笑みを浮かべながらトレンチコートを脱ぎ、マフラーを取って、ハンガーラックにかける。それからショーンの右隣の席に腰をおろし、身体の内側に溜まった疲弊を追い出すようにふっと息を吐いた。  黒い背広、それに馴染むように選ばれたストライプ柄のブルーのネクタイ、遊び心のまったくない焦げ茶色の革靴は、彼が自己紹介などしなくともお堅い職業の人間だと知らしめる。麦わら色のマッシュヘアは、眉にかかるほどの長さの前髪を今夜は整髪料できっちりとした七三分けにし、メタルフレームの四角いメガネは知的さと清涼感をまとっていた。  けれども悲しきかな、童顔の彼にその装いが似合っているかと問われれば、申し訳ないが首を傾げてしまうだろう。彼自身も自覚しているのか、目が合えば、居心地の悪そうな表情で、ぎこちない微笑みを向けてくれた。  そして、ポールはいささか顔をしかめると、ショーンとその手元にある灰皿に視線をやった。 「……本数多くないか?」 「んー? そうかな?」  ショーンは小首を傾げ、甘ったるい笑みをポールに向けた。「ケニーが吸った分もあるからね。俺はそんなに吸ってないよ?」 「ケニー、煙草やめたんじゃなかったっけ?」 「今夜だけよ」と、私は言下に答えた。「今夜だけってアンタの旦那に約束して吸ってるの」  メガネ越しに見える翡翠色の瞳が、私の言葉の意味を探るように揺れる。それから、事情を察してくれたのか、ポールはふっと柔らかな表情になると、いつものように「スタウト」を注文し、「それから、ジョニー・ウォーカーを」と付け加えた。 「あら、ひょっとして奢ってくれるの?」  背後の棚からビールグラスとウイスキーグラスを取り出しながら、年齢不相応の幼い顔立ちに反して酒の好みが渋い男に訊ねる。ジョニー・ウォーカーは私の好きな銘柄だ。呑む度に南米系の男と抱き合っているような、熱くて爽やかな陶酔に浸れる。ひとつのベッドで一緒に眠ってくれる相手がいる時には、香辛料のような刺激と痺れるような背徳感を覚え、独り寝が続く夜に嘗めれば、人肌が恋しくなり胸が痛くなる。それはもうある種の自慰行為だった。 「1杯だけだよ」 「もちろんよ。2杯目からはショーンに奢ってもらうから」 「俺、用事を思い出したから帰ろうかな」 「ふふ、冗談よ」  3人で顔を見合わせ笑ってから、私はビールグラスに黒々としたビールを注ぎ、ポールに渡した。次いでウイスキーグラスを琥珀色の澄んだ酒でゆっくりと満たし、顔の前にかかげる。乾杯と同時に、3つ分のグラスがカランと軽快な音を立てた。  それが舌に乗り、喉奥に運ばれ、食道を伝って胃に流れていくと、身体の奥底からカッと熱くなり、脳髄がくらりとした。それからじんわりと身体中に熱が広がり、腰のあたりに甘い疼きがへばりつくような感覚が生まれる。口いっぱいに広がるスパイシーで奥深い香りと苦味を堪能しながらグラスから口を離せば、ほっと熱い息が溢れ、口の端が吊り上がった。 「……たまらないわ」  うっとりとした声でぼそりと呟けば、残りのタラモア・デューを呑みきったショーンがクスッと静かに笑った。 「入れ込んだ酒って、薬にも毒にもなると思わない?」 「そうね、表裏一体よ。呑まなきゃ死ぬし、呑んでも死んじゃう。どちらが幸福なのかって考えたら、そりゃあ後者だって話」 「ロマンチックだね」 「感傷的なだけよ」  もうひと口、エキゾチックな男の味を愛でながら、私たちのやり取りを静観していたポールに視線をやる。彼はビールグラスを3分の1ほど空け、口の周りについた泡を青色のハンカチで拭うと、硝子玉のような丸っこい双眸を私に向け、少し悲しげに、それから心配そうに細めたので、私は苦笑いを浮かべながらゆっくりとかぶりを振った。 「あんたが湿っぽくなることはないわ。いつもの失恋に自棄酒よ」 「……ごめん、つらい思いをしてるんだなと思って」  ポールはそして短い息を吐くと、ショーンに「1本ちょうだい」と言って、彼の手元にある煙草の箱を左手の人差し指でトントンと軽く叩いた。 「珍しいね」  ショーンは横幅のある目を縦に広げて驚きながらも、口角をゆるりと上げ、煙草の箱を開けてポールに1本差し出す。受け取ったポールがかさついた唇でそれを咥えると、流れるような動作でライターに火を灯し、その先端を炙る。ぎこちなさなど一切ない、自然なやり取りだった。 「……あんたが煙草を吸ってんの、随分久しぶりに見たわ」 「僕も、最後に吸ったのがいつだったか、覚えてないくらいだ」  ポールは苦笑しながら言い、煙をゆっくりと肺に入れ、静かに吐き出した。口に出して言わないけれども、今の格好同様、見た目が幼いためにそれほど煙草が似合っていない。本人も分かっているのか、顔を隠すように伏せているのが、なんとも可愛らしい。ショーンも同じことを思っているのだろう、彼を横目で見ながら柔らかく微笑んでいた。  ……いつもはこんなことを思わないのに、なんだか見せつけられているような気がして、少しだけ妬ましく思い、胸が苦しい。彼らに自覚や意図的なものはないのだが、だからこそ尚更、タチが悪かった。耐えられず、私はさりげなく彼らから視線を外し、新しい煙草に火をつける。  ――どうして、私とあの人は上手くいかなかったのだろう。  私だって、私なりにではあるけど相手を想い、大切にしてきたはずなのに、いつの間にか噛み合わなくなって、取り返しがつかないところまであの人の心は離れてしまった。  あの人の残り香が薫る家でひとりきりの生活を送るようになって、明日でちょうど1週間になる。関係を持った男が家を出て行くのは、何もこれが初めてではないけれど、何度経験しても慣れるものではなく、むしろ歳を重ねた今の方が胸のうちの索漠は広く深かった。30代も終わりが近づき、昔のように着飾って愛想よくしているだけで相手から声をかけられることもなくなった今、そう簡単に「次がある」と切り替えられるわけがないのだ。

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