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第2話

「――ねぇ、お金払うから何本か吸わせて」  スローペースでウイスキーをひと口、ふた口……と嘗めたあたりで、ショーンがカバンからライターと煙草を取り出した。それを見て、私はカウンターに頬杖をつき、唇を尖らせながらねだる。「買わなきゃ持ってなくて。いいかしら?」 「あれ?」と、早速煙草を咥えたショーンが、目を見開き私を見た。「君、禁煙してるんじゃなかったっけ?」 「してるわ。でも、今夜だけは許して頂戴」 「……どうかした?」 「まぁ、色々とね」  長い睫毛でびっしりと囲まれた形の良い両眼を何度か大きくしばたき、ショーンは私をじっと見つめる。やがて、ふっと力の抜けた笑みを唇の間隙から漏らし、こちらに煙草を差し出してくれた。 「ありがとう」 「いいえ。それで、何があったの?」  ショーンの問いかけに、私は軽く笑うだけで何も答えなかった。足元の引き出しを開け、使い捨てライターを取り出し、唇に挟まった煙草に火をつければ、細々とした白い煙がうっすらと視界を汚し始める。ゆっくり、たっぷりと息を吸えば、ほんのりと甘く、それでいて苦いにおいと燻りが肺に入っていく。そこから血液に混ざって全身や脳に巡っていくような感覚があり、頭の芯が良い具合にくらっとした。  そうだ、これだ。身体に毒だと分かっていてもたまらなくなるこの感じ。一度味わってしまうと、そう易々とは断つことができない一種の麻薬。3ヶ月ぶりの喫煙は、それはもう格別だった。私は口元を悦びで歪めながら、薄いベールのような白煙を吐き出す。それから同じく紫煙をたなびかせていたショーンを見て、「もう1箱ある?」と訊ねる。 「あるよ。カバンに入ってる」 「じゃあ大丈夫ね。悪いけど、吸い溜めするわ」 「貯金作るんだ?」 「ええ。今後、死ぬまで吸わずに済むようにね」  それから、数十分ほどの時間が経ったが、新しい客が来ることもなく、私とショーンは紫煙に包まれながら、降り始めの雨のように、ぽつりぽつりと他愛のない会話を楽しんでいた。  身体の内側――肺や臓器などといった箇所に、煙草の成分がじわりじわりと侵食を続けるような感覚がある。禁煙した当初に歯科医院で掃除してもらった歯には、ヤニが付着し始めていることだろう。服や髪にも強いにおいが沁みており、帰ったら入念にシャワーを浴び、普段より洗剤を多めに入れて洗濯し、歯医者に行かなければならないと思った。明日からまた禁煙生活を始めるにあたって、今夜の名残をすべて消し去っておきたかった。 「――そう言えば、あの子少しふっくらしたわね」  ふーっと煙を吐いたついでに、おもむろにそう口にすれば、新しい煙草を指先で玩んでいたショーンが、くすりと小さく笑った。 「ポールのこと?」 「ええ。ストレス溜まってるの?」 「いや、その逆だと思う」  ショーンは陽気な鼻歌を奏でるように答える。「ポールは追い詰められると食が細くなるんだ。先月くらいまで働き詰めで、結構食事を抜いてたみたいだから心配になるくらい痩せてたけど、今は落ち着いてるみたいだしね。俺が作ったものをパクパク食べてくれてるよ」 「それなら良かったわ」 「うん。前より抱き心地が良くなった」  2本目の煙草に火をつけたショーンが嬉しそうに報告してきたので、私は飽き飽きした表情を作り、鼻で笑う。 「アンタたち、いつになったら落ち着くのよ」 「うーん、お爺さんになってもこんな感じじゃないかな?」 「はいはい、訊いた私が馬鹿だった」  大袈裟にため息をついてやる。……冗談とは言え、愚問だった。この男とポールならきっと、身体のどこもかしこも皺々になろうが、抱き合ってキスをし、幸せそうに笑っているのだろう。私たち友人が呆れ返るほどにハートを飛ばし合い、ワンズワース区のフラットで仲睦まじく暮らし続けるに違いなかった。  ほんの一瞬、細い糸できつく縛られたような痛みが胸の奥であった。おもてに出すのが憚れる感情がそうなったのだと思う。 他人の愛の話を聞いて初めて、自分が思っている以上に傷を負っているのだと気づかされた。ショーンに悟られぬよう笑みを取り繕い、気取った様子で煙草を吹かせてみたが、胸奥で再び痛みを感じ、心の中でため息をついた。  ショーンとは、私がこの店をオープンした10年前からの付き合いだ。  当時は今以上に客足が少なく、その日も私は自分の好きな音楽を流し、酒やピーナッツを摘みながら暇を持て余していた。そこにふらりとやって来たのがショーンだった。  それなりに酒が入り、「ここが3軒目なんだ」とふにゃふにゃとした声で教えてくれたショーンは、当時はまだ研修医で、職場で何かがあったのか、五臓六腑を自棄酒で満たしていた。「何だか今夜は、誰かと遊ぶ気になれなくてさ、こうしてひとりでふらふら飲み歩いてるんだ」と言い、以降はひたすら管を巻き、しまいにはメソメソと泣きだしたので、酒屋の店主として半人前だった私は「面倒くさい奴を招き入れてしまった」とげんなりした気持ちになりながらも、仕方がないので彼の話に適当に相槌をうち、彼を励ましたのだった。  そして後日、再びこの店を訪ねてきたショーンは、酒を一滴も身体に入れておらず、青い顔でひたすら謝罪の言葉を述べてきた。それから「ここでの記憶がほとんどないんだけど、俺、変なことしなかった?」と訊いてきたので、ありのままに話すと、彼は端整な顔をますます青くし、こめかみに手を当てながら項垂れていたのを、今でもよく憶えているし、思い出してはニヤニヤとしている。  出会いがそんな感じだったので、私たちはお互いに恋愛感情が生まれることなく、気心の知れた友人として、以降付き合いを続けてきた。ショーンは残念ながら、あの夜のような醜態を二度と晒すことはなく、ゲイやビアンの友人、交際相手を連れて、頻繁に店に遊びにきてくれた。私がオフの日は他の友人たちを呼び出して飲みに行ったり、クラブで脳震盪を起こしそうなほどに踊り狂ったりしていた。  喉が枯れるまでお互いの恋人の話や仕事の話をすることもあったし、くだらない喧嘩で2、3時間を費やすこともざらにあった。そのどれもが、今となっては懐かしい良い思い出だった。  そうして、私たちが知り合って5年が経った頃、ショーンは初めてポールを連れ、この店にやって来た。  ショーンの後ろにやや隠れ、遠慮がちに挨拶してきた彼は、これまでの恋人とは明らかに毛並みが違い、内心戸惑ったものだ。  真面目で控えめ。人見知りが激しく、言葉の端々から自虐めいたものを漂わせながら、ぎこちない愛想笑いを浮かべているような男で、とてもじゃないが、ニュー・スコットランドヤードのそれなりに有能な刑事には見えなかった。 オンオフの切り替えが得意なのか、それとも職場では一匹狼なのか……ともかく、ショーンが彼のどこに惹かれたのか不思議でしょうがなく、ショーンの周囲の人間も、少なからず首を傾げていたくらいだった。  今となっては失礼極まりないが、案外ポールは強かで、ショーンは弱味を握られているのではないかと噂されていたこともあった。最近、その話をふたりにした際、ショーンは唖然としたのち、涙が出るほど大笑いし、ポールは「プライベートでもそんな芸当ができていれば、真面目に仕事しなくても良かっただろうな」とため息混じりに苦笑していた。そして、「弱味を握られてはいないけど、何もかも知られちゃってはいるよね」「お互いにな」「スマホのパスワードに」「現在の貯金額」「身体のどこにどのくらいの大きさのホクロがあって」「貴方がスピード違反の切符を切られた場所とか」「あれ? もしかして俺、弱味握られてる?」といったやり取りを愉しげにしていた。  ポールの魅力は、彼の極度の人見知りを解いた者だけが知り得るもので、なるほど冗談は通じるし、オックスフォード大卒の秀才だけあってウィットに富んだ発言もできる。自嘲的なのは変わらず、自分の良さをいまいち認識できずにいるのは、過去に様々な艱難辛苦があったからだろうけれど、その分他人に対する度量は大きかった。ある程度のことであれば難なく受け容れ、ある程度以上のことでも覚悟を決めて受け容れる。どこまでも優しくて、義理堅い。長年の友人の最後の恋人は、そんな男性だった。  男とは、その大半が見栄っ張りで、甘えん坊で弱々しい部分を隠したがる生き物だ。  ある日、いつものように店にやってきたふたりと酒を飲みながら談笑していた際、どんな会話をしていたのかまでは覚えていないが、ポールが発した言葉に対し、情けない表情で笑ったショーンを見て、私はひどく驚いたものだ。  ショーンとはそこそこ長い付き合いだが、彼のそんは顔は初めて見た。いつもどこか飄然とし、取り繕うのに長けた男がすっぴんを晒しているさまは、とにかく衝撃的だった。  と同時に、私は心底安心し、それでいて少しばかり寂しくなった。恋愛経験は人並み以上にあるのに、恋愛が下手だという私たちの共通項が失われた気がしたからで、私だけがこれからも下手くそなまま生きていくのだろうと、漠然とだがそう予感したのだ。  実際にその後、ふたりは籍を入れ、正真正銘の夫婦になった一方で、私は変わらず男ができてはいなくなり、いなくなってはできて、を繰り返し、ここまで生きてきたのだった。

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