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第1話

 看護師のハンナが呼んでくれたタクシーに、まるで旅行カバンに衣服を詰めるかの如く押し込まれたところで、「明日も治ってなかったら来なくていいから。というか来ないで」と見送りに来た同僚に随分ときつい口調で言われる。研修医時代から切磋琢磨してきた彼女――リサ・ウェリントンは、同期であるが故に辛辣で容赦がないが、無理をし過ぎるきらいがあるショーンを何度となくフォローしてきてくれた。  ショーンは車窓越しに肩をすくめて笑ってみせ、「分かったよ。迷惑かけてごめん」と謝れば、白衣姿のリサはふっとクールに微笑み、片手をあげて背を向けた。ハードな職場に身を置き、かつ男勝りな性格なため、36歳になった今も独身ではあるが、本人はまったく気にしておらず、さばさばとしているところがとても格好よくて好きだ。タクシーを離れた彼女には見えないし、聞こえないだろうが、ショーンも手をあげ「ありがとう」と言ってから、初老の不愛想な運転手に行き先を告げた。  3月17日土曜日の今日は、朝から夕方までのシフトだった。  ウエストミンスター橋のそばにある病院で、救命救急医として働いている。タイムカードを押して出勤したはいいが、同じシフトだったリサに体調不良であることを目敏く見抜かれ、取りつく島もなく「帰れ」と追い返されたのが先ほど。東の曇り空に、輪郭のない朝日が鈍色に光っている。それを数十分前にも見た気がするなと思い、ショーンは人知れず苦笑した。通勤ラッシュ前で道は空いており、ワンズワース区の自宅までものの10分ほどで到着した。  何だか妙にふわふわとするなと思いながら自宅を出た時、ポールはまだ静かな寝息を立てていた。  平素はしっかり者なのに、オフの日は少しばかり寝坊助でものぐさになる彼のことだから、ひょっとするとまだベッドの中か、起床していたとしてもダイニングで飲み物を啜りながらぼけっと物思いに耽っているか。そのどちらかだろうと思いながら玄関のドアを開ければ、案の定、少し前に起きましたと言わんばかりの寝ぼけ眼と、マッシュヘアに寝ぐせを散らせたポールが、ダイニングテーブルで紅茶を飲んでいた。  ドアの開閉音と足音を聞き、おもむろに顔をあげた彼のメガネは白く曇っていた。それがさっと晴れていくと、翡翠色の目をぱちくりさせ、素っ頓狂な声をあげたのだった。 「……あれ? 今日は朝から仕事って――」  とまで言って一旦口を閉ざしたポールは、怪訝な表情を浮かべ、こちらの顔をじーっと見つめてきた。それから椅子から立ち上がってこちらにやって来ると、ショーンの額に手を当て、やがて閉ざした口をへの字に曲げた。 「……ひょっとしなくても熱があるな」 「……やっぱり、そうなのかな」  ポールは慌ててリビングへ向かい、救急箱から取り出した体温計を持って戻ってきた。椅子に座って体温を測っている間、職業病と言うべきか、尋問口調で訊ねられる。 「いつから調子悪かったんだ?」 「起きた時から、喉が痛くて何だか頭がぼーっとするなぁ、とは思ってた」  ポールは眉間にきつく皺を寄せた。「何で出勤したのさ」 「仕事してるうちに治ると思って」 「そんなわけないだろ……」  いったい何を考えているんだ、貴方それでも医者なのかという刺々しい視線を向けられ、苦笑を返すことしかできなかった。ピピッと甲高い電子音が鳴り、脇から体温計を抜く。「……38.4度」と申告すれば、ポールの表情はさらに険しくなり、大きなため息をつかれた。 「とりあえず風邪薬飲んで様子見る?」 「そうだね……」 「用意するから、寝室行ってて」  言われた通り寝室へ向かい、寝間着に着替えてすぐにベッドに潜った。そこはまだポールの体温が残っており、ほのかに暖かかった。それから10分ほどして、プレートに温められたクルミのパンとマグカップに注がれたホットミルク、錠剤の風邪薬と水を乗せて、ポールが入ってきた。ベッドサイドにプレートを置くと彼はキッチンへと戻り、再びやってきた時には氷枕を両腕で抱えていた。 「軽く何か食べてからの方がいいと思って……こういう時、手早く料理できたら良かったんだけど」  申し訳なさそうにそう言って、ポールはベッドに腰掛ける。料理以外の家事なら任せてほしい、と何年か前に言われたことをふいに思い出し、思わずくすりと笑ってしまいながらも、礼を言いパンの皿を受け取った。数年前からバラ・マーケットの近くのパン屋で買い続けているそれはほかほかで柔らかく、ひと口食べればクルミのカリカリとした食感と香りが広がり、とても美味しい。拳ひとつ分ほどの大きさをぱくぱくとあっという間に食べ、匂い立つホットミルクをゆっくりと飲む。  侵入したウィルスと戦うために発熱した身体は重く怠かったが、胃袋からぼんやりと広がる熱には、そこはかとない安堵感と活力が含有されているような気がして、自然と笑みが滲んできた。 「――睡眠不足と、気温の変化にやられっちゃったかなぁ」  風邪薬を飲んで横になったところで、肩をすくめながら笑う。頭の下で氷枕がコロコロと鳴っている。頭の芯にまで響くような冷たさに最初は少し身震いを起こしたが、次第に慣れてきて、心地が良かった。 「きっとそうだ。やっぱり、ちゃんと睡眠導入剤を飲まないと。それと、暖かくなってきたからって下着一枚でベッドに入るのもダメだな……僕もだけど」  ポールはため息混じりに言ったが、それからすぐにふふっと笑い、幼子を寝かしつけるようにショーンの頭を優しく撫で始めた。 「こういうのを、医者の不養生って言うんだな」  手のひらの心地よさにおのずと口の端が柔らかく上を向く。思えば、誰かに看病してもらうなんて子供の頃以来だ。その時は学友からインフルエンザをもらい、2、3日高熱にうなされていた自分を祖母がつきっきりで面倒をみてくれた。汗をかけば熱が下がると言って厚着をさせられたのは苦しかったが、蜂蜜をたっぷり入れて温めたジンジャーティーがとびきり美味しく、数時間ごとに中身を詰め直してくれる氷枕が気持ち良かった。そして、寝つきが悪い自分の胸元や頭をぽんぽんと優しく撫で「だいじょうぶよ、すぐに良くなるわ」と子守唄をうたうように言い聞かせてくれたのだった。  瑕ひとつないガラス玉に映るような、澄みきった思い出だった。当時のように、ショーンはあたたかい羽毛に包まれたような心地で、安心しきっていた。ぼうっとポールを見つめているうちに、潮が引くような緩慢さで眠気に襲われる。まばたきをする毎にまぶたが重くなり、目を閉じている時間の方が長くなっていき、ただでさえぼんやりとしている意識が、かたちをさらになくし、薄れていく……。 「おやすみ」  丸みのあるポールの声が、すぐ近くにいるはずなのに遠くから聞こえる。「しっかり休んで、早く元気に――」

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