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第2話
夢を見た。粟立つほどの怖い夢だった。
いや、記憶と言った方が正しいのかも知れない。風邪薬の作用で深い眠りについていたが、やがて目が覚め、夢と現の間をショーンの意識はゆらゆらと漂っていた。そこに、ぬるりと這うように姿を見せたそれは、もう何度目かも分からないほどにフラッシュバックされてきたというのに、新鮮で克明で、臨場感に溢れていたのだった。
飛び起きたショーンの身体は冷や汗でぐっしょりだった。薬に含まれる解熱剤が効いているのか、頭が少しばかり軽くなり、悪寒はおさまっているが、額や脇、背中から噴き出る汗の量が尋常ではなく、気持ち悪い。とくとくとく、と心臓が荒々しく鼓動し、脳裏には当時の光景が依然映し出され、恐怖心を煽ってくるので、落ち着こうと胸もとをさすり、深呼吸を繰り返した。
それでも、胸のうちに蔓延るそれがそう易々と消え失せることはなく、猛烈な心細さを覚え始めた。ショーンはうなだれた頭をあげ、電気が消え、カーテンが閉めきられた暗い寝室に視線を彷徨わせる。……ポールはいなかった。何よりも求めているもの、自分を自分たらしめてくれている存在が視界にいない、触れられないことが、寄る辺ない思いに拍車をかけた。
ポール、と小さく震える声が静かな部屋に響く。もちろん、返事は聞こえてこない。ショーンはベッドから抜け出し、裸足のまま、ホラー映画に出てくるゾンビのような覚束ない足取りで寝室を出た。キッチンから物音がしている。そちらへ向かえば、買い物から帰ってきたところなのだろう、ポールは買ってきた食材を冷蔵庫に入れていた。
その姿を見て一気に安堵した。それでも、悲鳴をあげたくなるほどの恐怖からは解放されず、半ば衝動的にポールへと駆け寄り、そんな自分に気づき驚いた表情を向けてきた彼をきつく抱きしめた。
「……びっくりした」
こちらのただならぬ様子に依然驚き、戸惑いながらも、ポールは抱きしめ返してくれた。服越しからでも伝わってくる彼の体温やトワレの爽やかな香りを噛みしめる。母鳥にエサを乞う雛鳥のように必死になって、愛しい夫の名前を呼び続ける。他人が見れば、少なからず狂気じみていると思いかねないショーンの行動を、ポールはしかしすべて受けとめ、「うん、うん……」と応えてくれた。
「嫌な夢でも見た?」
うん、と素直に答え、腕の力をやんわりと強めれば、背中を優しくさすられる。何を言わなくとも、こちらがどんな夢……いや、今回の場合は記憶を見たのかを、ポールは分かってくれているだろう。それ以上のことは何も訊ねられなかった。有り難かった。
もう30年近く前のことだ。8歳の自分と4歳下の妹が、周りの大人たちの制止を振り切って、頭が割れ絶命している母親と、その傍らで片脚を吹き飛ばされ、内臓を損傷し、息絶えようとしている父親の元へ駆け寄り、彼らの手を握りながら泣き叫んでいる記憶だった。
自宅近くの公園で遊んでいた自分たち兄妹を、外食に連れて行こうと家から出てきたところ、所有者不明の路駐車が突然爆発し、その横を通り過ぎようとした両親を巻き込んだのだ。
北アイルランドとの境にある都市で暮らしていた。当時はIRAによるテロ事件が盛んで、イギリスは混沌と混乱を極めていた。両親はそういった政治的、宗教的な活動とは無縁のごく普通の会社員だったが、無差別テロとはそういうもので、何の関わりもない市民が多く犠牲になっていた。あまりにも理不尽で、恐ろしく、そして暗澹としていた。
自分はもう助からないと悟っていたのだろう、あの時の父親は顔面蒼白になりながらも穏やかに笑い、「おとうさん、おかあさん」と何度も叫び、わんわんと泣き続ける幼い子どもたちに、搾り出したような声で「愛してる、愛してる」と繰り返していた。人間はまず最初に死者を声から忘れていくと言うが、父親のその苦痛と愛情に満ちた声と言葉は、今でもいっさい薄れることなく、鼓膜にこびりついている。
そして、そんな父親を前にして何もできない己の無力さに激しい憤りを覚え、絶望し、恐怖と悲しみに狂った子どもの自分と、いまだに折り合いがついていないが故に、こんなにも震えあがっている。けれどもポールに宥められていくうちに、不安定な心は落ち着きを取り戻してきた。
部屋の換気をするのと同じように気持ちを入れ替えようと何度か深呼吸をしたところで、ポールを腕のなかから解放すれば、真っ赤になった顔で見上げられ、申し訳ない気持ちなった。随分と息苦しかったに違いなく、それでも何も言わずにこちらのしたいようにさせてくれていた彼が愛おしくて、少し鼻の奥がツンとした。
「……落ち着いた?」
「うん、ありがとう。おかえり」
「ただいま」
こんなに密着しておいて何だが、風邪をうつしてはいけないのでキスは我慢した。見つめ合っているともどかしくて、互いに苦い笑いを吹き出しながら身体を離す。するとポールはさらにきまりが悪そうに笑い、台の上に置かれた食料品店の袋からレトルト食品を取り出し始めた。
「一から作るのは時間がかかりそうだし、失敗しそうだったから、温めるだけでできるものを買ってきたんだ……あと、ジンジャーティーと蜂蜜も」
「……え?」
最後に袋から出てきたそれらを、ポールが見せてくる。目を見開いてぽかんとしていると、「あぁ、何で知ってるのかって?」と涼やかな声でポールは言い、柔らかく微笑んだ。
「お祖母様が教えてくれたんだ。『あの子が体調を崩した時、元気がない時は、温めたジンジャーティーにたっぷりの蜂蜜を入れて飲ませてあげて』って。昔、貴方がインフルエンザで寝込んだ時に作ったら美味しそうに飲んでくれてたからって言われてたのを思い出して……」
「……それ、いつの話?」
「最後に病院で面会させてもらった時だよ。貴方が医者と話すからって病室を出て、僕とお祖母様のふたりきりになった時に、うん……」
それは2年前、末期癌で入院していた祖母に、自分たちの入籍を伝えに行った時のことだ。両親が亡くなってからずっと、自分と妹を愛情深く育ててくれた母方の祖父母は、その5年前に祖父が肺炎を拗らせて鬼籍に入り、祖母もその面会から4日後に多臓器不全で息を引き取った。
彼女の葬式でショーンと妹以上にさめざめと泣いていたポールは今、少し寂しげな表情になりながらも、目元と口元には笑みが残っていた。「すごく嬉しそうというか、懐かしげというか、とにかく貴方のことを大切に思われているのが伝わってきて、胸がいっぱいになってさ」
そんなやり取りがあったのかといささか驚いたところで、くしゃみが1回、2回、3回と出て、ポールと顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。「ベッドで待ってて」と言われたので、おとなしく寝室に戻る。数分後、陶器のポットに入れたジンジャーティーとマグカップ、それから蜂蜜の小瓶をプレートに乗せ、ポールは寝室に入ってきた。
「お祖母様との約束を果たせて良かった」
そう言って至極幸せそうに笑いながら、カップに黄金色のティーを注ぎ、たっぷりの蜂蜜を垂らし入れ、ティースプーンで混ぜる。ジンジャーの香りと柔らかい湯気が立つそれを受け取り、ひと口飲めば、あの時と同じ甘さと風味が口腔だけでなく鼻腔にまでふわりと広がり、体力を消耗しきった身体に優しく沁み渡っていった。
「……美味しい」
カップから口を離し、ほっと息を吐き出してそう言うと、ポールは眼鏡の奥の丸い目をやんわりと細めた。壁にかけた時計をふと見れば、案外時間は経っておらず、11時を過ぎたところだった。せっかくの休日を、風邪をひいた自分の看病に費やしている彼に申し訳ない気持ちになりながらも、一日中一緒にいられるのが嬉しくて、ショーンも唇に笑みを描いた。
ティーカップをベッドサイドに置き、マリッジリングが煌めくポールの左手を握る。ありがとうと囁くように言えば、ポールは鼻歌を歌うように笑い、指を絡めてきた。
「安心して、ぐっすり休んで」
「うん、ありがとう。……治ったらたくさんキスさせて」
「ふふ」
甘ったるいジンジャーティーをひと口、ふた口と飲む。身体も心も春の陽気のようにポカポカとする。ロンドンもじきにそうなるだろう。その時はポールと妹の3人で、両親と祖父母の墓参りをしよう。元気な顔を見せて、色んなことがありながらも楽しくやっていることを伝えて。それからばあちゃんにはお礼を言わないと、だ。
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