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第二章 5
未だに笑い続ける土師を、殴って止めようかと霧桐が考え始めた頃。ようやく愛沢が日本酒らしき瓶を片手に、二人のもとへと戻ってきた。
チラリと見えたラベルに“眠酒(ねむりざけ)”と書いてあるソレは、芋焼酎を十年以上熟成させたもので。一本五万円ほどするのだと、確か愛沢が言っていたはずだ。
「何? もしかして、盛り上がってた?」
愛沢のその問いかけに霧桐は無言のまま、ぶんぶんと勢いよく頭を横に振る。確かに、目尻に滲んだ涙を拭いながら未だに笑っている土師だけ見れば、会話が盛り上がっていたようにも見えなくはない。が、霧桐のこの不機嫌さと眉間に刻まれた深い皺を目にしている筈なのに、どうして愛沢がそう思えたのか。霧桐には不思議でならない。
「尚吾。コイツ、気に入ったぜ」
丸氷の入ったグラスに愛沢が日本酒を注ぐトクトク、といった音がジャズに混じって聞える中、漸く笑い止んだ土師がそう言った。
それを耳にした霧桐は、信じられないものを見るかのような目で土師を見た。少なくとも、霧桐は土師に気に入られるような言動はとっていないし、気に入られようとも思っていなかった。
「へぇ、土師さんもしかして唯ちゃんに乗り替えるの?」
「あ? あー、コイツ啼かせるのも面白いかもしれねぇが、そういう意味で気に入った訳じゃねぇよ」
土師と愛沢の会話を隣で聞いていて、自分が土師に啼かされる姿を想像してしまったのか霧桐の表情がみるみるうちに青ざめる。
――冗談じゃねえ。死んでも絶対に嫌だ!!
愛沢にそうされるならまだしも、嫌いな相手に啼かされるなどただの屈辱でしかない。
霧桐は土師と距離をとるように体を横へと移動させた。幸い、愛沢が土師へ酒を出す際に場所を入れ替わってくれていたので、すんなりと遠ざかる事が出来た。
そうして、そのまま霧桐は綾華の側へと逃げ帰る。愛沢の事は心配だが、このまま土師の側にいたならば霧桐の精神衛生上よくない。
青ざめた顔のままの戻ってきた霧桐に、綾華が唇に指先を宛ながら上品に笑んだ。
「あら、お帰りなさい。どうだった?」
「どうだったって……、見てたんなら分かるでしょう?」
「そうね。だいぶ翻弄されてたわね」
やはり綾華にもそういうふうに見えていたのかと思うと、霧桐は頭を抱えたくなるほどだった。
「っ、何なんっすか。アイツ……」
精神的にひどく疲弊させられた霧桐は、素の口調のままぼやく。と、それを聞いていた綾華が苦笑いをしながらたしなめた。
「唯ちゃん、言葉遣い崩れるほど動揺してるわよ」
「……ぅ、すみません」
綾華の指摘に霧桐は項垂れる。もともと霧桐の素の口調は荒っぽく、だからこそこのリーベに勤めるようになってからは出来るだけ丁寧な言葉遣いを心掛けていた。しかし、土師に揺さぶられただけでこうもボロが出てしまうとは。
――ああ、最悪だ……。
ずぶずぶと自己嫌悪に陥って落ち込む霧桐を、綾華の柔らかな声が慰める。
「まぁ、アタシは荒い口調の唯ちゃんも好きだから気にしないの」
「綾華さん……」
不覚にも、じんわりときてしまった霧桐は綾華を尊敬の眼差しで見つめる。外見はけばけばしい化粧の体系がごつい不自然な女性であるが、やはり綾華は頼りになるし、優しい。
思わず霧桐が綾華に向かって『姉御』と呼びたいような心境になっていると、綾華が徐に口を開いた。
「しかし、アイツが帰ってきたなら、唯ちゃんますます大変そうね。尚吾ちゃんが言ってた通り、土師って男は尚吾ちゃんのセフレよ。けっこう昔からの付き合いみたいで、唯ちゃんがここで働き始める前から頻繁にここに来てたわ」
「でも、俺……アイツの事ここで見たことないです」
霧桐は、楽しそうに愛沢と談笑し続けている土師を横目で見た。
土師は、いい意味でも悪い意味でも目を惹く男だ。いくら人の顔を覚えるのが苦手な霧桐といえど、土師のような目立つ男の顔を一度でも目にしていれば忘れるはずはない。だからこそ、先ほど霧桐は土師とは“初対面”であると判断したのだ。
――そう言えば、愛沢さんが“帰って来た”って言ってたな。
霧桐がここで働き始めて三ヶ月になるが、土師はその間何処かに行っていて店に顔を出せないような状況だったのではなかろうか。そうであれば、霧桐が土師のことを知らないのにも納得がいく。
「確か、九州に行っていたんじゃなかったかしら?」
霧桐の思考が一段落ついたところで、丁度綾華のそんな言葉が聞えた。
「九州……」
霧桐の声に懐かしさのようなものが僅かに滲む。
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