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第二章 4
霧桐自身に訊いたのではないにしろ、普通初対面の人間の前でそのような会話をするだろうか。ここにいると、霧桐は時たま常識というものが分からなくなる。
霧桐が疲れた表情で、眉間を指で解す。その隣で、愛沢が「いいや。未遂だよ」と何でもないことのように答えるのを耳にして、霧桐は眩暈を感じた。
「愛沢さん……一体、何なんですか? このためだけに呼ばれたんですか、俺?」
はっきりいって、この場にいることに限界を感じ始めていた霧桐が愛沢に尋ねると、引き止めるかのように愛沢にシャツの腕部分を引っ張られた。ちゃっかり退路も塞いであるところからするに、愛沢はまだ霧桐を解放するつもりはないらしい。
「それがさ、土師さん俺のセフレだから。唯ちゃんの話したら、唯ちゃんと話してみたいって言い出したんだよ」
「は? ……セフレ?」
霧桐は、ぽかんと口を開けたまま愛沢の口にした言葉を繰り返した。そうして数秒経ってから、ようやく言葉の意味を飲み込んだのか。
「なっ、うえっ!?」
素っ頓狂な声を上げ、その場で身体を仰け反らせながら驚いた霧桐の顔は、真っ赤に染まっていた。
「面白い声出すね、唯ちゃん」
霧桐の上げた声が余程おかしかったのか、愛沢は楽しそうにクスクスと笑っている。
「まったく……尚吾、お前言ってなかったのかよ」
「だって、土師さん帰ってくるのもっと先のことだと思ってたし。今言う必要ないかなって」
「悪かったな、帰ってくるの早くて」
勝手に自己完結せずに、そういう情報は前もって与えておいてほしいものだ。霧桐は内心で愛沢に向かって文句をこぼす。
まあ、元から愛沢が噂多き人だというのは分かっていたから、今更セフレの一人二人出てきたところで、霧桐が愛沢を嫌いになることなどないのだが。
――それにしても、目の前のコイツが……。
出会った当初から霧桐は土師のことを苦手だと思っていたが、彼が愛沢のセフレだと聞いた途端、益々苦手――というよりも、嫌いになった。出来れば、彼と同じ場所に居たくないほどである。
話すことも話したのだし、もうこの場から移動してもいいだろうか。霧桐がそんなことを考えている時だった。
カクテルグラスの中ほどまで減っていたカクテルを、土師が一気に飲み干す。そうして空になったグラスをカウンターの上に軽い音を立てて置いた。
「それより、いつものねぇのかよ? 甘い酒じゃ、ぜんぜんアルコールが回らねぇ」
それならば、はじめからアルコールの強い酒を頼めばよかったろうに、と霧桐は心の中で毒づく。ここ、リーベは女性客の好みそうな甘いカクテル類も豊富だが、土師のような客のためにもウォッカやワイン、ウイスキー、日本酒など様々な酒も提供している。
その中には、アルコール度数が六十度以上のものも存在していて。それを聞いた時、霧桐は一体そんなものを誰が頼むのだろうか、と思っていたのだが。今日のを見る限り、恐らく土師のような人間がそういったものを頼むのだろう。
「今持ってくるって。唯ちゃんと話しながら待っててよ」
そう言って、愛沢が霧桐と土師を残しバックヤードの方へと消えていく。店が狭いということもあって、普段客が注文しないような酒類はバックヤードの方に置いてあるのだ。
「……」
意図せず土師と共にこの場に残されてしまった霧桐は、自ら土師へ話し掛けようとはせず。無言のまま、愛沢が戻ってくるのを待つつもりであった。
が、どうやら土師は霧桐を放っておくつもりはないらしい。
霧桐の沈黙の理由は明らかな拒絶であると土師も理解しているだろうに。土師はそれをものともしていない様子で「おい」と霧桐を呼びつける。
「……お前、下の名前は?」
人に名を尋ねるにあたってその訊き方はないだろう。
霧桐はムッとした表情を浮かべるが、相手は一応客だし、相手が礼儀を欠くからといって、霧桐自身まで礼儀を欠いていい理由にはならない。
霧桐は、渋々口を開いた。
「……愛沢さんから聞いてないんですか?」
「あ゛? あー、聞いたような、聞いてねぇような……忘れちまった。いいから教えろ」
土師という男はつくづく尊大な態度の男である。霧桐は、ヒクリと口許を戦慄かせながらもどうにか寸でのところでキレることだけは堪え、口を開いた。
「……唯仁、です」
「ふぅん、唯仁……な」
舌で転がすように霧桐の下の名前を口にした土師は、何やら長い指で顎下を触りながら思案している。
――そういえば、愛沢さんも俺の名前聞いて驚いたような顔してたな……。
霧桐は確かに珍しいかもしれない。が、唯仁は探せば幾人もいるであろうし、特別珍しい名前ではないはずだ。それなのに、二人とも“霧桐”ではなく“唯仁”の方に驚いていたのは、一体どういうことなのだろうか。
新たに出来てしまった疑問に霧桐が頭を悩ませていると、おい、と土師が再び霧桐を呼びつける声が聞こえた。
「唯仁、お前何で尚吾を好きになったんだ? アイツ、変わりもんだろ?」
確かに、土師の口にした通り愛沢は変わり者である。が、それを土師に言われるとなんとなく腹が立つ。
愛沢の顔に泥を塗りたくはないが故に今まで我慢してきたが、もともと霧桐はそう気が長い方ではない。
「何でアンタに言わなきゃならないんですか?」
怒り混じりに吐き捨てる。と、普通の客であれば霧桐の態度に怒って帰りだしそうなものを、土師は手を叩かんばかりに楽しそうに笑った。
「おっ、化けの皮剥がれたか。気持ち悪い敬語なんてよせよ。こっちは気持ちよく酒飲みに来てんだ。腹わって話そうぜ」
「っ、ふざけんな。断わるに決まってるだろ」
すっかり頭に血が上ってしまった霧桐の口調からは、形ばかりの敬語すら消え失せていた。土師は愛沢を変わり者だと言ったが、土師こそ変わり者ではなかろうか。わざわざ人の神経を逆撫でるようなことをして喜ぶなど、悪趣味にもほどがある。
霧桐が、もう話しかけてくるな、と言わんばかりに目で威嚇していると、土師は何がそんなに楽しいのかとうとう腹を抱えださんばかりの勢いで笑い出した。
「く、はははっ、威勢がいいな。俺に噛みつくヤツなんて久々に見たぜ」
「噛みつきたくて噛み付いてんじゃねぇよ」
霧桐とて、好きで土師に噛み付いているわけではない。土師が霧桐の神経を逆撫でるような言動をとるから、噛み付かざるを得ないのだ。
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