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第二章 3

 十分ほど、一人バックヤードで頭を冷した霧桐は、もやもやした気持ちを無理矢理呑み込んで店へと戻った。  店内には新たに男性客が一人増え、愛沢が接客をしているところだった。  それを気にしないようにしながら、霧桐は客達のグラスが空でないのを確認し。そうして、綾華の目の前へと移動した。 「あら、お帰りなさい。復活するの早かったわね」  霧桐が戻ってきたことに気が付いた綾華が、爪先でグラスの縁を辿りながら笑む。 「いや、まだ復活は出来てないです……」  霧桐はそう力なく首を横に振り、バックヤードに行っていた間に溜まったのであろうシンクに置かれたグラスを洗い始めた。  霧桐の主な仕事はオーダーを取ることと、こうやって使ったグラスや皿を洗い片付けることだ。  簡単なカクテルくらいならば作れないこともないのだが。やはり愛沢が作った方が美味しいし、シェーカーを振る姿も様になるので客に頼まれない限りは霧桐がカクテルを作ることはまずもってない。  霧桐は視線を皿へ落とし、手早く洗い物を済ませていく。と、カウンターの上で頬杖をついた綾華が口を開く。 「まぁ、アレが相手じゃこれからこんなこと何度もあるわよ。試練だと思って頑張りなさいな」  アレ、と綾華が指差した先には、楽しげに談笑しつつ滑らかに銀色のシェーカーを振る愛沢の姿があった。  長く形の整った指がシェーカーを掴み、上下に振る。特別なことは一切していないのに、その立ち姿と動きには人を惹き付けるような魅力があった。  十分ほど前まで黄色い声を上げていた女性客達も言葉を忘れたかのように、ポウッ、と熱の籠った眼差で愛沢を見つめている。  これだけ人の目を惹く愛沢だ。彼と恋人として付き合う以上、これからも先程と同じことが頻繁にあるだろう、と霧桐にも簡単に想像できた。 「……試練、か」  呟きが溜め息と一緒に霧桐の唇から溢れ出る。あんなことを言われたにも関わらず、霧桐は愛沢のことが変わらず好きだ。しかし、これからの自身の苦労が垣間見えてしまっただけに気鬱になったのだ。 「まあ、叱るくらいはしといてあげる。といっても、アイツに効くかどうかは不明だけど」  表情の暗い霧桐を気遣ったのだろうその一言に、霧桐は「はは、……確かに効かなさそうですね」と、苦笑いを浮かべた。  きっと、綾華に諌められたとしても愛沢の浮気癖は治まりはしないだろう。  もはや諦めにも似た気持ちのままグラスを拭き、愛沢達を視界に入れないようにしていると、「唯ちゃん、ちょっと」と愛沢に声を掛けられた。  霧桐は顔を上げる。そうして声の方向を見ると、愛沢がカウンター席の一番奥に座る男性客の前に立ったまま、こちらに向かって手招きしていた。  正直、先程の一件で抱え込んだ負の感情が霧桐の中で消化しきれていないのだが、無視をするわけにもいかない。 「……何ですか?」  複雑な表情のまま愛沢達へと近づく。  愛沢が霧桐の腕を引き、立ち位置を入れ替えた。気が付けば、霧桐の目の前には先ほどまで愛沢と楽しそうに会話をしていた男がいる。  くっきりとした目鼻立ちに、ぎらついた獣のような鋭さを持つ黒い瞳。愛沢同様にきっちりと後ろに撫で付けられた黒髪が、見るからに高級そうな黒いスーツとよく似合っていた。  同姓の霧桐から見ても、いい男だと思う。が、それだけだ。霧桐は、愛沢以外の男には元々興味などない。  それに、巧妙に隠してはいるが男の纏う触れたら身を切られてしまいそうな危うい雰囲気と、何かを誤魔化すかのようにつけられたオーデコロンのムスクの濃い香りが、霧桐は苦手だった。  しかし、相手は一応客としてこの場にいるのだ。苦手意識が顔に出そうになるのを、霧桐は引き攣った笑みで必死に誤魔化す。 「いや、土師(はじ)さんが唯ちゃんに挨拶しておきたいってさ」 「土師さん?」  霧桐は聞きなれないその名前を繰り返しながら、目の前の男を見た。恐らくも何も、彼がその“土師”だということは明らかで。しかし、霧桐がこのリーベで働くようになって三ヶ月ほどが経つが、土師の顔は一度も見たことがなかった。 「お前が、霧桐か?」  土師は低く、艶のある声で言った。低音の声とカクテルグラスを大きな男らしい手で弄ぶその姿は、悔しいかな、様になっていた。が、やはり気取った感じがして霧桐は気に食わない。それに、いくら客であろうと土師の尊大な態度が、霧桐の鼻についたのだ。 「え、まぁ……そうですけど」  霧桐が若干ムッとして返す。  すると、土師は霧桐の態度を気にした様子も無く。悠々と淡い赤色のカクテルで喉を潤しながら、まるで値踏みをするような不躾な視線を霧桐へと向けてきた。頭から、顔。肩を過ぎ、カウンターで隠れている下半身以外を隈なく土師の視線が移動する。  霧桐はその気味の悪さと不躾な態度に、形ばかりの笑みを浮かべることすら忘れ、土師を睨みつける。そうして、時間にして約一分ほど無遠慮な視線を霧桐に向けていた土師が、形のいい唇をニッ、と吊り上げた。 「へぇ、お前がなぁ……。おい、尚吾。お前コイツ食ったのか?」  ――なっ……!?  霧桐は、土師のその一言を聞いて絶句した。幸いにして、声に出ることはなかったが、土師を見る目つきが不審者を見るようなそれに変わったのは言うまでもなかった。

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