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第二章 2

 ――き、気まずい……。  霧桐がそう思いながら、一度拭き終えたグラスを再び手に取り磨きだした目の前で、綾華の赤いルージュに彩られた唇が綺麗な弧を描いた。 「あら、尚吾ちゃん。今日も綺麗ね」  話題を逸らすための賛辞であるとあからさまに分かるのだが、あまりにも綾華が堂々としているものだから、愛沢は毒気を抜かれてしまったようだった。  上辺だけの笑みを取り払い、唇をたわませながら綾華の目の前に置かれたままの空のグラスを下げる。  そうして、カウンター内の小さなシンクの中に置き、かわりとばかりにナッツの盛られた小皿を綾華の前にトンッ、と軽い音を立てて置いた。 「綾華ちゃん、褒めたってオツマミくらいしか出せないよ。それより、何話してたの?」  愛沢が綾華に首を傾げながら訊ねた。ほぼほぼ聞こえていたからこそ、先程目が笑っていなかったのに、どうしても綾華や霧桐の口から言わせたいらしい。  愛沢のその一言を聞いて狼狽したのは、霧桐だった。  手の中で磨いていたグラスを危うく取り落としそうになり、慌ててつかまえる。  別に愛沢の悪口を言っていたわけではないのだから、綾華のように堂々としていればいい、とは思うものの。霧桐にそれは難しい。  何より本人が霧桐にあかそうとしない過去を、綾華から聞き出そうとしていた後ろめたさもある。 「え゛、いや……その、……」  霧桐は突き刺さる愛沢の視線から逃れ、うろうろと目線をさ迷わせた後。結局、自身ではどうすることも出来ず、助けを求めるように綾華を見た。  霧桐の視線を受けた綾華が、仕方がないわね、とでも言いたげに肩を竦める。 「ねぇ、尚吾ちゃん。唯ちゃんは本気で貴方のこと好きなの。だから、それを弄ぶなんてことしたら絶対に駄目」  真剣な綾華の言葉に、愛沢も霧桐も驚いていた。特に霧桐に至っては綾華に助けを求めた張本人であるが、きっといつものように「尚吾ちゃん、唯ちゃんをからかっちゃダメよ〜」と、軽い調子で諫めるくらいだと思っていたからだ。 「……唯ちゃんが本気だってことは分かってるよ。でも、俺色んな人に愛されてたいんだよね。だから、唯ちゃんが俺を好きなうちは俺のモノだけど、唯ちゃんが他の人を好きになったら手放してあげるつもり」  愛沢のその一言に、霧桐は怒りのようなものを覚えていた。  霧桐もいい歳をした大人なのだし、“永遠の愛”がいかに脆く、貫くことが難しいものか分かっているつもりだ。どんなに愛してると口にしたところで、裏切る人間は裏切る。  しかし、理解はしていても、霧桐はそういった人間に同感は出来ない。寧ろ、裏切る人間は、霧桐がもっとも嫌うタイプの人間だ。  愛沢は、そんなつもりで言ったのではないのだろうが、霧桐には仮にも恋人である愛沢以外の好きな人をつくることが“裏切り”としか思えなかったのだ。 「……俺、愛沢さん以外好きな人作りませんから」  低く、怒りを押し殺したような声が霧桐の喉から出た。  出逢って月日はそんなに経ってはいないが、それでも霧桐の気持ちは本気だった。そもそも本気でなければ、男性女性共に噂の絶えない愛沢に告白したりなどしない。  眉間に皺を寄せ、顰めっ面で霧桐がグラスを磨いていると、愛沢がスッと霧桐に寄ってきた。  その気配に顔を上げる。と、肩同士がぶつかるほど近くに愛沢がいて、霧桐をあの黒い瞳で見ていた。  一体、何をする気なのだろうか。僅かに霧桐の表情に警戒が滲んだのに、愛沢は気が付いたようだった。クッ、と口角の上がった色っぽい唇が、霧桐の耳元に寄せられる。それをちらちらと見ていた女性客達からキャアッ、と興奮した声が上がったが、霧桐にそれを気にしている余裕はなかった。  耳元に故意に吹きかけられる愛沢の吐息のせいで霧桐がどぎまぎしていると、愛沢の声が聞えてきた。 「そう? でも、いつかはきっと俺以外の人を好きになるかもよ?」  愛沢の一言に、霧桐は頭から冷水を浴びせられたかのようだった。どぎまぎしていたのもどこかに吹き飛び、腹の底のほうから悲しみと怒りがごちゃ混ぜになったような感情が沸き上がり――爆発した。 「……なりませんっ!!」  店内を満たすジャズをもかき消す霧桐の怒声が響き、空気が凍る。  女性客と綾華以外に店内に居た男性客二人も、ぎょっとした表情で霧桐を見ていた。  その視線でハッと我に返った霧桐は、バツの悪そうな顔をして「大声を出してしまい、申し訳ありませんでした」と、客達に深々と頭を下げる。そうして、顔を上げ「頭、冷やしてきます」と、言い残しリキュール等の予備を置いているカウンター奥の狭い部屋の方へと消えていってしまった。

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