『都心の駅前から徒歩で約五分。居並ぶ飲み屋街の一画の外壁が青い雑居ビルの階段を上ること、約三階分。 　仄かなオレンジ色を帯びた電飾に彩られた看板の下がる、木目の浮き出た扉を開く。 　その先にあったのは、四人掛けのテーブル席が一つに、六人掛けのカウンターが置かれたこじんまりしたバーだった。 　頭上では故意に絞られた照明の明かりがほんのりと降り、カウンターやスツールに腰掛ける人物の表情を僅かに憂いを帯びたように見せるはずだ。 　さて、カウンターに腰掛けてみる。 　目の前に飾られたざっと数えただけでも数十種類以上もある酒類は、棚に設置された照明が青く冷たい光で照らし、それすら調度品として店に馴染ませていた。 　木目の美しいカウンターテーブルに、座り心地の良さそうな革製のソファー。ボックス席のテーブルやカウンターチェアに至るまで全てオーナーが特注で作らせた拘りの品だというから、その凝り様には純粋に舌を巻くしかない。 　店内の内装は、温かみのあるブラウンで統一され、ゆったりと、けれどもどこか心が躍るようなジャズが店内を満たしている。一言でこの空間を表すとするならば、そう。“落ち着ける大人の隠れ家的な雰囲気”だ。 　音楽にゆったりと身を委ね、店長のオススメの“キール”とチーズタルトに舌鼓を打つ。甘い物が苦手な人でも食べられるように、とオーナー自らが焼く“酒”のためのチーズケーキは、ゴルゴンゾーラをベースにブルーチーズ、マスカルポーネといったチーズがブレンドされており、こってりと濃厚な味わいになっている。 　キールの他にもスタンダードなカクテルや、オーナーのオリジナルカクテルがリーズナブルな値段で味わえるようになっているのも魅力の一つだ。 　音楽と、食事。それにこの店“リーベ”と、オーナー。まさにキールの持つ“最高のめぐりあい”が“リーベ”には存在していた。 　一人でゆっくり楽しみたい、ゆったりと雰囲気を味わいたい。そういった人に是非ともおススメしたい。 　貴方がリーベの扉を開く時。その先には“最高のめぐりあい”が貴方を待っているだろう。』 　そんな一文で締めくくられ、雑誌の紹介は終わっていた。 　ドイツ語で“愛”を意味する名前を持つ店。その場所こそ、霧桐　唯仁(きりぎり　ただひと)の今の職場だ。 　壁掛けの文字盤と針が剥き出しの時計が指す時刻は、午前四時を過ぎた辺り。最後の客を閉店時間である三時を半刻ほど過ぎた辺りで見送って、それから急ぎ取り掛かっていた閉店作業が丁度終わった頃だった。 「あ、あの！！」 　霧桐は、床を掃き終え、後は掃除用具入れに仕舞うだけになった箒を手にしながら、緊張した面持ちでこの店のオーナー兼バーテンダーである愛沢　尚吾(あいさわ　しょうご)を呼び止めた。 　ゆっくりと、気だるげに愛沢が振り向く。 　薄明るい照明の明かりを受けて、きっちりと後ろに撫で付けた愛沢の黒髪が濡れたような光を放つ。 　長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳は、純然たる闇色で、左の目尻に泣き黒子が一つあるのがひどくセクシーだ。 　首もとのボタンまできっちりと留められた白の長袖シャツに黒の蝶ネクタイ。カマーベストとロングエプロン、黒色のスラックスといったかっちりした服装も相まって、見る人間に冷たい印象を与えるような美貌とでも言えばいいのだろうか。 　百八十にも届こうとかといった長身の彼は、立っているだけでまるで雑誌の中から抜け出てきたモデルのようでもある。 　今年で三十七を迎えるという彼の顔には皺の一つもない。が、酷く疲れが滲んでいるように見えるのは、なにも霧桐の気のせいではなかった。 　年の瀬の迫るこの時期は、忘年会終わりに立ち寄る客が多く。この“リーベ”も十二月に入ってからというもの、週末は閉店時間にきちんと終われることの方が少なかった。 　その上、深刻な人手不足で。霧桐は勿論、オーナーであり店唯一のバーテンダーである愛沢も定休日である水曜日を除き、十二月のシフトはほぼフル出勤だったのだ。そんな状態で、疲れないはずがない。 「何、唯ちゃん？　俺、疲れてんだけど」 　ふぁ、と欠伸をかみ殺して、愛沢は愛想なく言った。冷たいイメージのある愛沢であるが、彼は非常に気さくで接客中はこれでもか、というくらいに周りに愛想を振り撒く人である。が、一度仕事が終われば途端にこの有様。いっそ、多重人格かと疑いたくなるほどに無愛想である。 　霧桐は、愛沢に怯みながらも口を開いた。 「すみません。でも、お話がありまして……」 「ふぅん、で？　何？」 　早く話せとでも言いたげに顎をしゃくられる。 　霧桐はゴクリ、と唾を飲み込み、意を決して話し始めた。 「あ、えっと……その、……」 　しかし、覚悟を決めたというのに、緊張から喉が張り付き中々本題を口に出せない。 　愛沢は何も言わないままだが、霧桐がモゴモゴと口を動かすのを面倒臭そうに見ていた。 　まるで、早くしろ、とでも言いたげなその視線に霧桐の百八十を超える大きな体が縮こまる。 　――うぅ、視線が痛い……。 　突き刺さってもおかしくない鋭い視線に晒され、霧桐のなけなし勇気が縮み上がった。 　しかし、今ここで愛沢の視線に負け、言えないまま終わるのも格好が悪い。 　それに、愛沢にわざわざ時間を割かせているのだ。言わずに終わるといったことが許されるとは、霧桐には思えなかった。 　もう一度、覚悟を決めて深呼吸する。すぅ、と大きく息を吐いて、そうして漸く霧桐は口を開いた。 「そ、そのっ……俺。俺、……愛沢さんの事が、す、好きなんですっ！！」 　最後の方に至っては叫ぶようになってしまった告白に、愛沢の黒色の瞳が一瞬見開かれる。が、告白するので一杯一杯で目を瞑ってしまっていた霧桐には、愛沢のその表情は見えなかった。 　真っ赤に染まった顔を俯かせ、霧桐は、緊張で震える手できつく箒を握り締める。 　――き、気持ち悪いって思われたかな……？ 　長い間と室内を満たす静寂によって、霧桐の頭に不安が浮かぶ。これはもう望み薄なのではなかろうか、とまで考え始めた時だった。 「……へぇ、それだけ？」 　と、愛沢の声が霧桐の頭上から降ってきたのだ。