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第1話

 キリの良いところで仕事を切り上げ、ローン完済まで半年を切った愛車を運転し帰宅したのが、22時半過ぎのことだった。ここ最近にしては遅い帰宅だった。  家の中は真っ暗だった。電気をつければ、その柔らかな眩さに目がチカチカする。ネクタイを緩めながらリビングのソファーにどかっと腰をおろしたポールは、おそらく新聞紙1枚を悠々と吹き飛ばせるくらいの大きくて深いため息をつき、首をコキコキと鳴らした。肩を揉めば、鋼鉄かと思うほどに凝っており、これには流石に失笑した。  日に日に蓄積された疲労だけが、身体のなかで元気だった。全身の筋肉、血管、脳みそにのっぺりと広がり、その存在を主張しているかのようで、うんざりする。20代の頃は、一晩眠れば翌朝には体力が回復していたというのに、何とも情けなくて再びため息が吹き出た。  2日前ハックニーで強盗殺人事件が起きた。4月22日深夜、一人暮らしの中年女性の自宅に侵入し、寝室にいた女性の胸部を鋭利な刃物で複数回刺して殺害、現金とキャッシュカードを盗んで現場から逃走した犯人を、ロンドン警視庁は今朝、逮捕した。  自動車部品の工場に勤務する28歳の男だった。借金の返済に困り、犯行に及んだという。痩せぎすの気弱そうな青年は、塩をふった青菜のように身体をしおらせ、ぼそぼそと反省の弁を述べていた。「去年、投資で失敗して、持ち金全部溶かしてしまったんです……まさか本当にEU離脱が決まるなんて思わなくて……刑事さんもそう思ってました? そう、ですよね……」などと言って項垂れている姿を見て、気の毒に思わないこともなかったが、それ故に人ひとりを殺し、金銭を奪った身勝手さは到底許されるものではなく、懇々と説教をしたのち、ポールは彼を送検した。  この件の報告書をまとめ、その後、上司のサム・ローリー警部補から頼まれていた雑務などを片づけていると、夕方に突然、大手製薬会社ロンドン支社に爆破予告の手紙が届いたと警視庁に通報が入り、テロ対策部門がざわつき始めた。ポールが所属するSCO1(殺人・重大犯罪対策指令部)にも情報が入ると、ポールはテロ対の同期から「プロファイリングの観点から、犯行予告文の分析を手伝ってほしい」と頼まれ、ああでもないこうでもないとしているうちに、退勤がすっかり遅くなってしまった。  ……まぁ、いい。明日出勤すれば、明後日は休みだ。特に予定はなく、自分ひとりだけがオフなので、のんびりと過ごして身体を休めることにしよう。  それよりもと、ポールは背広のポケットからスマートフォンを取り出した。……ニュースサイトからのメールマガジンの通知しか届いていない。念のためテキストチャットのアプリを起動したが、ショーンからの返信はなかった。  ショーンは今夜、イギリスの医療業界の著名者が集まるパーティーに出席していた。リージェント・ストリートの高級ホテル内のバーを貸し切って開催されるらしい。「規模はそれほど大きくはないけど、大学教授、製薬会社の営業本部長、医療機器メーカーのエンジニア、それから俺みたいな医療機関のスタッフが集まって和気藹々とするみたいだよ」と今朝、自分が作った朝食を食べながら彼はのんびりとした口調で教えてくれた。  警視庁を出て駐車場へと向かうまでの間に、ポールはテキストチャットで帰宅の予定時間を訊ねていたが、既読マークはつきこそすれ、一言も返してこなかった。パーティーはとっくに終わっている時間なので、河岸を変えて飲んでいるのだろうか。だとしたら、さぞかし盛り上がっているのだろう。  それならそうで構わないから、連絡をくれればいいのに。  少し腹が立った。ショーンはいつもそうだ。飲み会で楽しんでいると、こちらへの連絡を疎かにする。そして夜中にしれっと帰宅し、ベッドに潜り込み、先に眠る自分を抱きしめて気持ちよさそうに眠りにつく。これまで何度も「ちゃんと返事をしてほしい」と伝え、その度に「ごめんね、次からはするから」と返されるのだが、改善されることはなかった。  そう言えばショーンは、過去に付き合ったとある男性と、今回のようなことが原因ですぐに三行半をつきつけられたらしい。「束縛が強くてプライドの高いネコちゃんから、真っ向ストレート食らって鼻血出してたわよ」と行きつけのバーの店主で、ショーンの親友であるケニーがニヤニヤと笑いながら、こっそりと教えてくれたことがある。そんな痛い目にあったのに、なぜ直さないのか。いや、直らないのか。……いずれにせよ、困った人だ。  返事がなく、いつ帰ってくるかも分からない彼を待っていられるほどの気力は、もはや残っていない。シャワーを浴びて先に寝よう。ポールは寝室へ行き、タンスから下着と寝間着をひったくるように取って、浴室に向かった。

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