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すてられた恋

 どうして男なんかを好きになったのか、何度考えてもわからなかった――。だけど、あんなにも心から求めた相手は後にも先にも彼だけだった。  それくらい彼は自分に取って強烈で特別な存在だった――。    美しい花火のようなその恋は、夜空の中で呆気なく方々へと散り果てると、やがて煙と一緒に黒い空へと吸い込まれていった。  その消えゆく姿をただ、見上げることしか自分には出来なかったのだ――。 「茅葺(かやぶき)!」  昼休み、学食に向かう道すがら友人たちに呼び止められ、茅葺は愛想笑いを見せるわけでもなく、ただ名前に反応してそちらを向いた。 「今日行くだろ?」 「新歓、新歓」  友人の男二人は機嫌がいいようで終始にこにこしていた。今日はきっと女子生徒の参加者が多いのだろう。それでも茅葺の反応は鈍かった。 「いや、いいや」 「ええー?! なんでよお!」 ――どうでもいい。  茅葺はそう思った。  何もかもが面倒だ、自己紹介も新入生の名前と顔を覚えるのも、弾んだ仲間たちの笑い声も何もかも――。  早々に友人たちから離れ、一人歩くと視界にあのベンチが入った。    そのベンチは茅葺にとって特別な場所だった。愛しい相手と短いながらも幸福な逢瀬をここで幾度か重ねた。だけど、愛しい相手はもう二度と現れない……もう、二度と――。  今でも瞼を閉じれば鮮明に思いだせる。  儚い笑顔で笑う人――その笑顔とは裏腹に芯の強い、愛の深い人――。  茅葺には思いを遂げることが出来なかった相手がいた。  それは自分と同じ男で暴力を奮う幼馴染みの男と十年以上も寄り添い生きる人だった。その男から救いたくて奪いたくて必死にもがいたけれど、彼の愛の矛先が曲がることは決してなかった。    彼のことを忘れようと、性格も年も容姿もバラバラな何人もの女性と付き合ってみたけれど、どこか何かがいつも違って、長続きすることはなかった――――いつになったら、俺はあの人を忘れられるのだろう……。  茅葺はずっとそればかりを自問自答しては答えをだせずにいた――。  ある書店の前で茅葺は足を止めた――。  そこは自分の運命を変えた場所、忘れられない人と出会った場所。  自分は当時新人アルバイトで彼はベテランの先輩だった。 「絶対にもう来ないって……決めてたのになあ……」  茅葺は弱々しい声でそう呟いた。  こそこそと逆に怪しまれそうな動きで茅葺はハードカバー小説が並ぶコーナーを歩いた。  ここは先輩だった彼と自分が当時担当していたことがあった場所だ。  棚の向こうで「いらっしゃませ」と聞きなれた柔らかな声がして、心臓がドキリと跳ねた。こっそり隣の通路を覗くと、客に声を掛けられ対応する店員の姿が眼に入った。 ――間違いなく彼だった。  知らない人間が見たら印象を悪くするような肩まで伸びた長い髪も、表情のわかり辛い太い黒縁眼鏡も今の彼からはすっかり影も形も消えていた。  他の書店員の誰も知らなかった、大きくて澄んだ瞳も長い睫毛も綺麗な顔の作りも今では全てがさらけ出され、茅葺だけが知る秘密の彼ではなくなってしまっていた――。  茅葺は酷く絶望した――。  彼が見せる綺麗なその笑顔が、鋭利な刃物のように自分の心を切りつけるような気分だった。  彼はもう変わった――。自分のいない世界で鮮明に生き生きとしていた――。    彼はもう進んだ……。きっとあの男と、一緒に進んだのだと、茅葺は壊れそうになる心臓を抑えながらその場から逃げるように走り去った。 「あれッ? 茅葺!?」 アルコールの入った学生たちが大所帯で騒がしくしている酒の席に茅葺は静かに現れた。 「……遅れた、ごめん」   申し訳なさげに幹事の生徒らに声を掛けると「いいよ、いいよ」と笑ってくれた。  一人で飲みに行く大人にもなれない、勇気のない自分が酷くカッコ悪いと茅葺は自嘲した。周りの上がったテンションに気後れしている茅葺を女子生徒が「こっちおいでよ」と誘うので、遠慮なく甘え、そちらに向かう。  だけど今は他愛のない世間話も、新入生のお世話もしたい気分じゃない。渡されたタブレットで生ビールを注文し、横に座っている女子生徒が適当によそってくれたつまみを受け取る。そのまま一番端に移動して壁になりそうな男子生徒を見繕う。話したこともない男がぼんやり幸せそうに出し巻き卵を食べていたので強めに肩を引き寄せる。  急な力に男は当然ながら「わあ!」と、驚きの声を上げた。 「ごめん、隣りに座ってて」と本人にだけ聞こえる音量で話すと露骨に嫌そうな顔を返されたが、しぶしぶ男は座布団をずらして茅葺の隣りに寄って座った。ちょうど頼んだ生ビールも届いて茅葺の安全は確保された。 「俺、茅葺」と最低限の自己紹介をしてみせた。相手の男は佐原(さはら)と名乗った。  佐原はもぐもぐとリスみたいに枝豆を食べながら茅葺の顔をじっとりと眺めた。 「俺、お前のこと知ってるよ。“肉食茅葺”だろ。お前が通った後は女の骨しか残ってねえって」 「それはないよ。俺には中身がないから……そんな男もいたかなって、そんな程度だよ」  茅葺はあっという間にジョッキを空にした。「タブレット取って」と眼で言われ、素直に佐原はタブレットを友人から貰い茅葺に渡す。 「――意外」 「なにが?」 「お前はもっと、お前を好きなんだと思ってた」  茅葺は一度佐原の顔を見ただけですぐにテーブルに視線を落とす。 「嫌いになるほど悟りもないけど……バカな男だって自負はあるよ……」  冷たい空気を割るように店員が大きな通る声で生ビールを置いた。 「とにかくフェラがうまくてさあ~あの人以上の女に会ったことがない!!」 「茅葺!! 声!! デカイからッ!!」  完全に酔い潰れ、下品なシモネタばかりを延々と展開する茅葺に、女子生徒だけでなく男子生徒までもが白い眼で遠巻きに眺める。居酒屋に着いた時とは完全なる別人と化した茅葺は、酔っ払いのテンプレートのように赤い顔で陽気に笑っている。佐原はお陰ですっかり酒が抜けてしまった。 「エロくてえ~かわいくて~エロくて~」 「エロばっかかよ!」 「うん~。DV男に本気で惚れててさあ……すっげーバカ男で……頭もイカれてんのに、心の底から愛してんの。あんな酷いことされても……許してさあ……。なんで……あんな男……」  でもきっとあの男も変わったのだろうと茅葺は感じた。書店で見た今の彼からは、当時ずっと漂っていたあの暗い影がすっかりと消えていた。 「二人の……幸せなんて――俺には祈れなかったよ――」  茅葺は急に力を失ったかのように壁にずるずると体重を預け、重そうに頭をうな垂れる。瞳にはうっすらと涙が滲んでいて、佐原は静かに茅葺の頭をこどものように撫でた。 「そっか……」 「…………ぅん」 ――俺はただ、あの人が欲しかった――――。  欲しくて、欲しくて、欲しくて…… 「欲しかったんだ――――

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