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ゆずられた席

 ぼんやり霞んだ視界には見慣れない天井が見えた。大きなエアコンの吹き出し口からここがどこかの店の中だということだけはわかった。  頭を起こすとすぐ隣で携帯画面を覗いている佐原が見えた。こちらに気付いたのかそれを触る指が止まった。 「起きたか? 茅葺」 「……アレ?」  茅葺はまだこの状況を把握できていないようだった。目尻を赤くしたまま、ぼーっとしている。 「ここ、居酒屋ね。お前は酒で潰れに潰れたの」  ようやく思い出せたらしく茅葺は何度か頷きながら重そうな身体をフラフラと起こした。 「皆とっくに帰ったぞ。お前があまりにも不憫だって割り勘の頭数から抜いてくれたぞ、良かったな」  佐原はその時のことを思い出したのか一人で笑っていた。 「男共は安心したんだろうな、お前がどっかで失恋してる現実に。茅葺も生身の男なんだって。あと、今日の女の子をお前に取られずに済んだ~ってな」  茅葺は佐原の言葉には特に反応を見せず、渡された常温と化したお冷を素直に受け取り、グビグビとうまそうに飲み干した。 「お前はさあ、そのエロくてかわいい人? を求めて女探ししてっかもしんねーけど、そんな女がまずお前を選ぶと思うか?」 「なっ!」 「ムリ!! 皆言ってくれないだろうから俺が言ってやる! 代わりなんていない、ちゃんと別人と恋愛しろよ。それともその人はそこらへんで代わりの利くような人だったのか?」  茅葺はさっきまで重そうにしていた(まなこ)を一瞬にして大きく見開いた。背後から太い杭で打たれたかのような衝撃を受けた気分だった。 「――違う……」  震えながら弱々しい声が紡がれる。 「ホラ! ちゃんとわかってんじゃん! だからその人をずっと思い出し続けるのはやめろ。心の奥に大切にとっておいて次に進めよ」  茅葺はグラスを両手で握りしめたまま視線を落とし、黙る。 「実らなかった恋ってさ――他人から見たら小せぇけど、すげー自分の中じゃデカくて、それを超えるのは大変だから……背比べなんかはやめてさ、完全別物の、ちゃんと新しい恋愛に進めよ」  力の入った両手をそっと広げて中のグラスを自由にしてやり茅葺はゆっくりと微笑みながら佐原を見た。 「――いい奴だな、お前」 「真顔で言うな!! 恥ずかしいわ!!!」  佐原は一気に頰を上気させ、笑っていた顔を困ったようにしかめた。代わりにヘラヘラと茅葺は笑ってみせた。 「今日はお前と出会えた良い日だ――」 「恥ずかしいの二つ目ぇ!!」  もうやめて! と佐原は降参した。 「俺、茅葺龍(かやぶきとおる)、龍でいいよ」  満面の笑みで自己紹介してみせた茅葺の顔色が次の瞬間一気に白くなる――。 「龍ね。俺は佐原(さはら)泉巳(いずみ)」  大きな瞳を丸くして、すっかり固まってしまった茅葺を佐原は訝しみながら伺い、すぐにピンとくる。 「まさかっ、名前? 一緒?!」 「――い、ずみ……」   ――あの人と――同じ、音の名前……。  綺麗なその名前の響きを口に、音にしたのは何ヶ月ぶりだろうか、最後にそう呼んだのは……もう、ひどく昔のことのようだった。 「佐原!! 佐原って呼べ!! 面倒だからっ」 「――いずみって、口にしたの……久しぶりだ……」  幸せなのか辛いのか、憂いを含んだ読み取りづらい笑みを浮かべ、茅葺はぽそりと呟いてみせたが「あっそ」と佐原の返事はひどく素っ気ないものだった。 「ごめん――」と思わず茅葺は謝った。  余計に失礼だったとすぐに思ったが、もうその謝罪は音にしてしまっていたので取り返せなかった。 「謝んな。名前なんて俺のせいでもお前のせいでも、ましてその人のせいでもないんだから」  そうキッパリと言いのけた佐原の顔に怒りはなかった。  佐原にとってその名前は生まれた時から当然のようにそこにあるもので、今日知り合ったばかりの他人に謝られるような所以はないのだ――。  自分だけがいつまでも余計に過敏なのだと、茅葺は改めて思い知らされ苦そうに小さく笑った。 ――――  その夜の出来事から自然と二人は、親友のように距離を縮めた――。  男たちの妬みから来る悪い噂でしか知らなかった女たらしは、実の所いつまでも実らなかった恋を忘れられずにいる一途な男で、失恋して酒に溺れる同じ年の普通の男たちと何ひとつ変わらなかった。  佐原は生身の茅葺に触れて妙な安堵感と勝手なシンパシーを感じたのだ。  そして茅葺は自分が許した相手を簡単に懐に入れる無防備な習性があるようで、佐原の介入をどこまでも許し、同じように佐原も茅葺の介入を許した。  大切な二人のあの場所を――大学にあるベンチのあの席を佐原に明け渡し、そこに並んでは大声で茅葺は笑った。  ずっとそうやって笑うことすら茅葺はしなくなっていた自分に気付き、痩せ我慢していた自分をようやく認め、そっと慰めた。 ―――― 「こら、龍!! おめーの家はここじゃねぇぞ!!」  人の布団に気持ち良さげにくるまった大きな図体の茅葺を佐原は揺すって起こす。 「……おかえりぃ、佐原」 「おかえりぃー、じゃねぇよ」  眠気まなこの茅葺の身体を布団ごと蹴ると小さく唸り声が出た。 「あんまり居座ると光熱費やなんやらも請求するぞ! 飯もナチュラルに作りやがって!」 「ん~……、じゃあ、ご飯の材料費は全部俺が出そうかぁ?」 「そーいう話をしてるんじゃねーよ!」 「ごめん――佐原ぁ……。ここにいると俺寂しくないんだぁ――、ごめんね」 「――ウサギか、お前は」 ――こいつはずっと謝ってばかりの本当にダメな男だ。  だから女たちが余計に放って置けないのだろうと佐原は茅葺の無自覚のモテぶりに腹の中で舌打ちした。  気を取り直して佐原はベッドの前に座り、未だ横になったままの茅葺の顔を覗き込む。 「合コンでもするか?」 「――なんで?」 「なんでって……」  お前が寂しそうにしているからだろうと佐原は呆れる。 「俺は佐原といるのが楽しいんだよ――」  綺麗な顔をした男が照れることなく素直な瞳でさらりと告げた。  思わず大きなため息が佐原から盛大に漏れる。 「そういう殺し文句は女に使えよ」 「――うーん。そうだなぁ……」  茅葺が意味深に浮かべた薄い笑顔の理由をその時の佐原はまだ推し量ることが出来なかった――

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