誰も使わない空き教室を、自ら進んで掃除するような奴はどこにもいない。床にはそれ相応分の埃が溜まり、漂う空気すら何処か濁っている気がした。 　そんな床の上に俺は腰を下ろし壁に背を預けた。好きでそんな場所に居る訳ではない。全身が痛くて動けないのだ。 　幾らダンゴムシの様になって庇ったって、絶え間なく振るわれる暴力の中では守れる範囲に限界がある。 　何度止めてくれと叫んでも止まらない暴行は、俺の身体を残酷な色に染め上げた。 　今日で何度目か分からない呼び出しと、日に日に悪化していく暴力の数。 　最近ではいい加減まともな色をした肌も無くなりつつあり、次から次へと新しく出来る傷のせいで過去の傷も治りが悪い。 　精神的にもそろそろ限界に近かった。 （佐竹…） 　ずっと密かに想いを寄せいていたクラスメートの佐竹。 　告白されて、柄にもなく舞い上がって、でも佐竹に好いて貰えるような自信は何処にもなくて…。結局あの告白は罰ゲームだったと知って、落胆するよりも先に納得した。 　絶望を感じる間もなく拗れていく関係の中で、今となっては佐竹の何が好きだったのかすら思い出せなくなっている。 『キメェんだよ！　死ねよ！！　お前がっ、お前なんかがっ！！！』 　佐竹が俺を殴るのは、その場に黒沢がいない時に限られていた。そうしていつも佐竹は　“お前なんかが”と叫ぶ。その姿はどこかヒステリーを起こした女の様に見えて、俺の目には酷く醜く映った。 　佐竹が一体何を言いたいのか、周りにいる奴らは何も分かっていないだろう。 　けど、俺には分かる。 　痛いくらい、良く分かるんだ。 　傷からくる痛みとは別の痛みが、俺の胸の奥で疼いた。 「見つけた」 　埃っぽく蒸し暑い部屋の中、ひんやりと冷めた声が落ちてくる。 「…………」 「話す元気もないか？」 　声の主が誰かなんて見なくても分かった。 　こんな冷たい声を持った奴なんて、そうそう身近に存在しないからだ。 「何しに、来たんだよ」 　好きだった奴にボコられた無様な俺を笑いに来たのか？ 　あの日、アイツの前で俺から奪った時の様に…喉の奥でまた俺を嘲笑うのか？ 　ハッ、と身体の中に溜まった熱を吐き出す。 　今夜は痛みで眠れそうにないな… 　全身でそれぞれが激しく自己主張する傷の痛みを耐えていると、壁にもたれかかって座り込む俺の顔を男が……黒沢が、覗き込んだ。 「案外無いな」 　何が、と聞く前に黒沢は俺のシャツを捲りあげ、上半身を暴いた。 「なっ、なにっ！？」 「へぇ、こっちは結構酷い」 　掴んだシャツを元に戻すと、黒沢はもう一度俺の顔を覗く。 「何で黙って殴られてる」 「……え？」 「お前、まだ佐竹が好きなのか」 　黒沢の瞳の中に、驚いた顔をする俺が居た。 　“まだ”って…何なんだよ。 「アイツはお前を憎んでる」 　黒沢がそこまで口にして漸く俺の頭に血が上った。 「それをお前が言うのかよ！？」 　俺はただ、佐竹が好きだっただけだ。 　付き合いたいだなんて大それた考えは無かったし、それこそ告白すらするつもりは無かった。 　ただ見ているだけで、そして偶に挨拶を交わしたりする。ただ、それだけのことで良かったのに。 「お前が全部壊したんじゃないか！」 　たったそれだけの小さな幸せを、この黒沢という男はいとも簡単に壊して見せた。それも、最悪な形で。 「お前が悪いんだろ！？　何で俺が佐竹に恨まれなきゃならないんだよ！　俺は何もっ、何もしてないのに！！」 「何もしないから悪いんだろう」 　一際冷たい黒沢の声が落ち、俺は思わず身体を竦めた。 「佐竹に言えば良い。“俺は何もしてない。俺はお前が好きなんだ”、って」 「そ、んなこと…言えるわけがないだろッ」 　こんなに毎日暴力を振るわれて、一体どうしたら今更好きだなんて言える？　思わず込み上げた涙を見つけたのか、黒沢がまた喉の奥をククッと震わせた。 「世の中ってのは、何でも先にやったもん勝ちなんだよ、藤峰」 「…………」 「欲しい物があるのなら、手に入れる為に動くべきなんだ。誰かに奪われたりする前に」 「い"っ！？」 　俺の切れた口端に黒沢が触れた。その瞬間、ピリッとした痛みが頭に突き抜ける。 「お前も佐竹も動かなかった。ただ見てるだけだったから、欲しい物を失くしたんだ」 「それはお前が壊したからだろ！？」 　あのまま放って置いてくれれば、俺と佐竹は今でも挨拶くらい交わす仲で居られたはずだ。 　佐竹の特別が欲しかった俺と、黒沢の特別が欲しかった佐竹。だけどそのどちらも失ったと言うなら、その原因は黒沢でしかなかった。 　何故俺だったのかは不明だが、罰ゲームの対象に俺を選んだのは多分、黒沢だ。 　それは佐竹達との関係性を見ていればわかるし、そして何より、俺の勘がそう訴えていた。 　佐竹とはクラスメートの仲で有りながら挨拶程しか話す事は無く、また黒沢に至っては挨拶を交わす事すらなければ、クラスメートですら無かった。 　そんな中で罰ゲームの対象に選ばれた俺。 　罰ゲームに失敗する佐竹。 　壊された俺と佐竹との、距離感。 　俺たちの関係性を壊して、黒沢に一体なんの利益があると言うのだろう。 　ただ見たかっただけだろうか？ 　俺が、佐竹が、黒沢を挟んで苦しむ姿を…。 　密かに想うことすら悪戯に壊された俺は、黒沢を睨み付け唇を噛み、そんな俺を見た黒沢はスッと目を細めた。 「言っただろう。欲しい物が有るなら動くべきだって。それが例え“現状維持”だったとしても、維持する為にすべき事は山ほどあったはずだ」 「だから壊したって言うのかよ！　俺たちが動かなかったから、纏めて壊してやろうって！？」 　俺が叫ぶ様に言うと、黒沢は酷く愉しげに顔を歪めた。 「俺がただ気紛れに遊んだとでも？」 「それ以外に何があんだよっ！！」 　―――ダンッ！！！ 　顔の横の壁を黒沢が殴り付けた。 　そうして近付いた顔は、互いの鼻が触れ合う程に近い。 「欲しい物が有った。だから動いた」 　目の前で形の良い薄めの唇が動き、俺は思わずあの日の熱を思い出して全身をカッと熱くした。 「そんなの、俺には関係な…」 「有るからここに居る」 　間近にある黒沢の切れ長の瞳が、俺だけを、ただ俺だけを映していた。その光景に無意識に見惚れ、言葉を失う。 「ンっ」 　気付いた時にはもう瞳の中を覗く事が出来ないほど黒沢が近くにいて、切れた口端にぬるりとした感触がすべった。 　指で触れられた時のような乾いた痛みよりもじんわりとしたそれは、俺の中へゆっくりと広がり、やがて全てを奪い尽くす。 「今更足掻いても、もう遅い」 　凍えるように冷たくて、焼けるように熱いその感覚に目が眩み、俺はひっそりと瞳を閉じた。 「先に動いたもん勝ちなんだよ、藤峰」 　俺の一人勝ちだな、と黒沢が笑う。 　それに抗う事も出来ず、意識は簡単に黒沢に呑まれていった。 「お前を逃す気はない」 　遠くで聞こえた囁きは… 　絶対零度の愛だった。 END