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MEGURU 後編

 渚の帰宅は、予想通り早かった。  荒々しい足取りでダイニングへと入って、鞄を投げ捨てるように床に放ると、渚はソファに座っていた巡の顎を力任せに掴んだ。 「…おかえり」 「ただいま、めぐ」  言うが早いか、掴んでいた顎をグイと押し退けるように捻り、晒された巡の首筋に鼻を埋めた。渚は一度だけスン、と鼻を鳴らすと、そのまま耳に重すぎる声を落とす。 「言い訳があるなら、先に聞くけど?」  怒気を孕んだ声が耳朶をくすぐり、巡はぶるりと背を震わせた。 「言い訳は何もない。けど、大事な話がある」  渚は一瞬だけ怯えた表情を見せた。それに気付いた巡の胸がズキンと痛む。巡の話に悪い予感しか浮かばない渚に、強い罪悪感が湧いた。  渚が壊れてしまう前に、全てを曝け出さなくてはならない。 「今日、病院へ行った帰りに明に会ってきた」 「…どうして? どうして明に会う必要があるの? めぐはまだ、明が忘れられないの!?」  激昂した渚が巡の躰を押し倒した。 「そんなに俺が嫌い!? そんなに俺を好きになれない!? どうしてっ、どうして明なの! どうして俺を見てくれないの!?」  巡を押し倒した渚の瞳は、深い悲しみを帯びていた。涙が溢れていないのが不思議な程だった。巡は青年らしい節ばった指を渚の目元へと伸ばすと、まるで涙を拾い上げるようにその指を動かした。 「確かにあの頃の俺は、少しも渚を見ようとしてなかった。でも、今見ようとしてないのはお前の方だろ?」 「なに、言って…」  戸惑いを露わにした渚の瞳が、パチパチと瞬く。 「俺が明に会いに行ったのは、むかし明にした事を謝って、ちゃんと自分でサヨナラする為だ。だから俺が明に会うのは、今日で最後」  巡は上に乗っかったまま放心している渚を押して、再びソファに座り直す。そのままふたりは、暫く無言で向き合った。 「……俺は明が好きだった。死ぬほど好きだった。薬を盛って、卑怯な真似をしてでも手に入れたいと思ってた」  巡の言葉に渚の喉が大げさに動く。 「誰からも好かれる明が、俺の憧れだった。何でそこで渚に憧れなかったのかは謎だけど…、オメガとしての本能だったのかもって、最近になって考える」  今思えば、明に対する巡の気持ちは行き過ぎた憧れのようなものだった。  小さくてキラキラ眩しくて、性別なんて関係なく人を魅了する可愛らしいその容姿に、巡は盲目的に溺れた。その強い想いが拗れに拗れて、元がどんな形だったのか分からなくなってしまったのだ。 「自分の容姿が嫌いだった。俺はオメガなのに、男にだって愛されなきゃいけないのに、こんな容姿じゃ同性を惹きつけるなんて到底無理だから。だから俺はきっと、ずっと、明になりたかったんだと思う」 「めぐは〝めぐ〟だから良いんだ! 今のままで良いんだよ!」  声を荒げた渚に巡は思わず吹き出した。 「そんなこと言うの、渚だけだよ」 「めぐッ!」  悲痛に眉を歪めて叫ぶ渚の頬に、巡は片手をそっと添えた。 「なぁ、渚。昔みたいにちゃんと俺を見ろよ」 「……見て…るよ」 「嘘だ。ちゃんと見てたら、お前が俺の変化に気付かないわけがない」  そう言って巡は、そっと渚に口付けた。ほんの少し重なっただけの触れ合いに、渚は瞳がこぼれ落ちんばかりに目を見開いた。 「俺がこんなことするの、何でだと思う」 「わか…んない」 「嘘だ! 分からないんじゃない、考えたくないんだろ!? 何で今更逃げるんだよ!」  添えていただけだった手で、渚の顔を掴む。 「俺を疑ったっていい、信用できなくたって仕方ない。全部俺が撒いた種だって分かってるからな! けど、俺を見る目だけは逸らすんじゃねぇよッ!」  例え今は頑なな渚の心も、いつかは柔らかく解きほぐれる時が来るだろう。けれどそれは、渚がちゃんと巡を見ていればの話だ。  どれだけ巡が今以上に変わろうとしても、渚に歩み寄ろうと努力しても、それを渚が見ていなければなんの意味もないのだ。 「どんなことがあっても、お前だけは俺を見捨てないって、身を以て知った。こんなに俺を求めてくれる奴、他にいないって思い知った」  二人を繋ぐそれが〝運命〟だからであったとしても、なかったとしても。きっと渚の想いは今と何も変わらない。誰がなんと言おうと、巡に対する渚のその想いだけは、決して変わることはないのだ。 「今まで貰ったもん、今度は俺が渚に与えてやる。だからしっかり俺を見てろよ。これからもずっと、俺だけを見てろ…」  巡がもう一度唇を渚に寄せると、そんな巡を渚が追い抜いた。 「ン"うッ!」  さっき重ねた触れ合いの、なんと拙く幼いことか。  巡はあっと言う間に渚に口内を犯され溶かされて、いつの間にか躰は再びソファへと沈んでいた。 「あんなこと言って…こんなことして…俺、勘違いするよ」 「…すれば? 勘違いじゃ、ねぇも…んっ、んぅ、ンはぁッ」  熱を持った渚の手が巡の上を滑った。巡の肌は触れられる度にしっとりと潤いを持ち、まるで吸い付くように渚を誘う。  薬を飲ませ、無理矢理抱いていたあの頃とは全く違う巡の反応に、渚の胸は甘い痛みに襲われた。じわり、と目頭に熱い想いが滲む。 「好き、好き、めぐ…大好き。例えめぐが別の誰かを見ていても構わない……なんて、嘘。俺を、俺だけを好きになってよ…巡…」 「ほんっと、馬鹿なヤツ!」  泣きそうな顔をして想いを漏らす渚を、巡は胸元に頭ごと抱き込み笑った。 「俺、スニーカーにGPS付けられてんの、気づいてるからな?」  渚が巡の腕の中でビクリと震えた。 「それでも受け入れてんのは、何でだと思う? お前から逃げ出さないのは、何でだと思う?」 「めぐ…」 「これからずっと、渚の側にいるって決めたからだ」  渚の瞳から、遂に涙が溢れ落ちた。再び溢れたりしないようにと巡が唇を瞳に近づければ、そうして曝け出された巡の首に渚が噛みついた。互いのフェロモンが一気に溢れ出す。 「ぅ゛あっ!? あッ、はぅ…んぁッ、あ、なぎ…なぎさ…」 「めぐ…めぐ…好き…」  急くように渚は巡の衣服を全て剥ぎ取ると、まだ触れてもいないのにとろとろと蜜を流す入口に指を二本差し込んだ。 「ひやぁあっ!」  くちゅ、と音を立ててあっけなく指を呑み込んだそこは、物足りないとばかりに壁が激しく蠢く。 「なぎさ…ぁ、…も、いれて…」 「めぐ、でも…」 「平気、だから…、ぉねが…も、いれ……あッ、ああぁあッ!」  渚は巡が言い終わるよりも早く、自身の昂ぶりを取り出しそこへと突き立てた。 「あッ! ぁあッ! あ、やぁあっ、んうッ」  まるで獣のように腰を振る渚のその姿は、化かして騙しあったいつかのあの日と少し似ていた。けれどそれでも巡の躰が熱くなり、もっともっとと強請ってしまうのは、薬のせいでもなければ、発情のせいでもなかった。  項にある番の証が熱を持つ。  心が触れ合ったと感じた。  あれほど相容れることの無かった互いの心が、この時漸く、寄り添った気がした。 「めぐる」 「……なぎさ」  巡がその名前を呼ぶたびに、渚の熱が増していくのが分かった。  呼ぶことが、呼ばれることが、こんなにも嬉しいだなんて。暖かいだなんて。心が痺れるなんて知らなかった。  一生知らずにいたかもしれないソレを教えてくれた渚に、巡は深く感謝した。  壊してでも巡を手に入れようとしたくせに、結局壊しきれなかった渚の情の深さに、優しさに、臆病さに感謝した。今こうして全てを感じることの出来る心があることに、巡は心から感謝した。  巡が零した涙を、慰めるように舐めとる渚を、誰よりも大切にしたいと、幸せにしてやりたいと思った。  渚を安心させるには、たった一言〝好きだ〟と言えば足りるのに。照れくささを捨てきれない巡は、その一言が上手く言えない。  だから巡は自身の心の内全てを込めて、別の言葉を紡いだ。 「おれ…、渚の子供が、欲しい…」  こっちの方が余程恥ずかしいじゃないかと、言ってから気づいたってもう遅い。オマケに、渚は子供など望んでいないかもしれないと考えると、胸の奥がギシっと軋んだ。  何をひとりで突っ走っているんだろう。巡は自身の顔が蒼褪めるのを自覚しながら、恐る恐る渚を見上げたのだが…。  何度も何度も、互いの死を願った恋だった。  嘘や裏切り、憎悪に満ちた恋だった。  決して明るい未来など訪れないと、全てを諦め、下を向いた恋だったのに。  長く凍てついていた雪がほろほろと溶け出し、その隙間から白く瑞々しい花が顔を出した。それは何一つ穢れを知らない、純粋で無垢な、美しい花だった。  一心に下を向く姿に憂いは微塵もなく、まるで溶けゆく雪を眺めているようだ。  花弁から雪のしずくが一粒落ちる。  それを見つめる白き花は、きっと知っている。恐れることなどひとつもない、希望に満ちたふたりの春がもう、すぐそこまで来ているということを。  彼らの未来の片隅で、白く繊細な花が揺れていた。  風に吹かれ、優しく、楽しげに揺れていた。  ふたりが光溢れる未来へとやって来ることを、今か今かと待ち侘びるかのように――― END

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