無機質な電子音が鳴るよりも先に、随分早く目が覚めた。 　起き上がった巡の腰には自身のそれより男らしい腕が回され、躰の中にはまだ、異物が侵入したままになっている。だがその事実に羞恥を感じることはあっても、驚くことはない。巡にとってはもう、慣れすぎたいつもの朝だからだ。 「ンっ、」 　溢れそうになる甘い声を何とか抑え、全ての繋がりを解いた。僅かな喪失感を持った自分に苦笑しつつこっそりベッドから抜け出そうとすると、巡の腕は咎めるように後ろから強い力で引き止められた。 「めぐ、もう起きたの…？」 　渚の掠れた声が、曝け出された巡の肌を撫でる。 「…今日、病院の日だから」 「ああ、そうか」 　そう納得した返事をしながらも、渚は掴んだ巡の腕を放さない。それどころか掴んだ腕を更に引っ張り、巡を布団の中へと引きずり込んだ。 「おい、なぎ…」 「病院へ行くにしても、まだ早すぎる。もう少し俺と一緒に居て？」 　ゴリ、と臀部に硬いものを擦りつけられ、それを中へと戻されるのはあっという間のことだった。 「なっ、ちょっと渚…、あっ、あぁあっ！」 　つい先程まで繋がったままだった巡のそこは、いとも容易く渚を受け入れた。快楽を貪ろうとする躰は瞬く間に熱を持ち、歓喜の蜜を溢れさせる。 「めぐ…めぐ…」 　巡の躰を揺すりながら、何度も何度も、何度もうわごとの様に巡の名前を呟く。そんな渚の様子に、巡は思わず舌打ちしそうになった。 　きっと渚は今も、巡の心は明に向いていると思っている。決して巡の心が自分に向くことは無いのだと、そう確信しているのだ。 　そう思わせてしまった元凶が巡自身であることは重々承知している。だが、諦めを覚えさせてしまったのは自分であるとそう分かっていても、巡は不満を持たずにはいられなかった。 　あれ程強引に自分を手に入れたくせに、狂う程にこの身を抱いているくせに、少しも手放す気など無いくせに。どうして一番大切な心を諦めてしまうのだろうか。 （こんなにも…俺を変えたくせに…） 「んぁッ！　アッ！　やっ！　やぁッ！」 　渚の穿ちに翻弄され絶え間なく喘ぎながらも、巡の胸中には言いようのない苛立ちが充満していた。 　◇ 「この結果が出た一番の要因は、心境の変化だと思うなぁ」 　巡の担当医は、得意の胡散臭い笑みを浮かべてそう告げた。 「悔しいけどね、どれだけ医師が治療を頑張っても、患者の心が拒絶していれば症状は悪くなる一方だ。けれどね、それを受け入れ始めると、その効果はグンと良くなる。特にオメガの不妊は、妊娠すること自体を拒絶している事例が多いからね。こうした効果が出たことは大いに喜ばしい」 「…それって俺が、妊娠することを受け入れてるって意味ですか？」 「違うって言えるのかい？」 　医師の言葉を直ぐに否定できない自分に、巡は小さく息を吐いた。 　一年前。避妊をせず抱かれているにも拘わらず、沈黙を保つ自身の躰に恐怖を覚えた巡は、独りこの病院を訪れた。そこで言い渡された〝不妊〟の一言に、巡は未だ嘗て感じたことのない絶望を味わった。 　渚との子供を欲したことは一度もない。そう、一度もなかったはずなのに、『作らない』のではなく『作れない』のだと知ったとき、巡の未来は神の手によって真っ黒に塗りつぶされた。 　渚は巡さえ居てくれればそれで良いと言った。きっとそれは本心に違いない。けれどそこに巡は、微かな寂しさを感じた。 「自分では分からないかもしれないけど、ここへ来た当初の君は、帰すのが心配になるくらい酷い顔をしていたよ。でも今はまったく違う。始めの頃は、狂った発情の周期を戻す為だけに通っていたんだろうけど、今はもう、目的が変わっているんじゃないのかな」 　巡が僅かに息を呑み込むと、それを見た医師が優しく微笑んだ。 「準備は整ってる、君はもういつでも前に進めるよ。次はぜひ、旦那さんを連れておいで」 　巡は渡された検査結果を丁寧にカバンに入れると、無駄に笑顔を振りまく担当医に軽く会釈し、診察室を出た。その足取りは、来た時よりも随分軽く見えた。 　時計を見ると約束の時間が迫っており、巡は既に停車していたバスに慌てて飛び乗った。間もなくバスが発進する。 　窓から眺める景色は、ほんの一年離れていただけなのになんだか懐かしい。以前は四十分ほどかけて通ったこの道も、今では通ることすらなくなった。 『病院まで遠いでしょう？　新しい部屋を決めてきたから、そこに引っ越そう』 　そう言って渚が見つけてきた新しい部屋は、バスで病院まで十分もかからない場所。近くに交番が在るからか治安も良いと評判だし、新築のマンションだからどこもかしこもピカピカだ。その上、防犯防音も完璧だと言うのだから、本来なら文句の付けようも無いのだが…。その部屋は以前暮らしていた部屋よりかなり狭い、一人暮らしに最適な１ＤＫだった。 　そこを選んだ理由なんて分かりきっている。いつだって渚は、巡を側に置いておきたいのだ。その為には広い部屋など必要ない。そして何より、明の記憶を残すあの部屋から逃げたかったのだろう。 　巡は暫くバスに揺られると、何度目かに告げられたバス停で停車ボタンを押した。 　以前住んでいたマンションから、歩いて数分の距離にある寂れた公園。そこには既に、巡が待ち合わせていた相手の姿があった。 「あかりっ！」 　巡の声に振り向いた、懐かしい顔。一年前までは同じ部屋で生活していたと言うのに、今はそれが酷く昔のことのように感じる。 「ごめん、だいぶ待たせた？」 「別に」 　明は巡と目を合わせることなく、ツンとそっぽを向いた。 「巡こそ、僕と会ったりして良いわけ？　彼が怒るんじゃないの」 　巡は明の言葉に苦笑を漏らした。〝彼〟とは当然渚のことであり、その渚は、巡が明と会うことを絶対許さないはずだから。 「怒るだろうな」 「やっぱり。僕、巻き添えとか食いたくないんだけど」 「ごめん…、でも絶対明には迷惑かけないから。どうしても、明に聞いて欲しい話があるから」 　だから、逃げずにそこに座って。巡が明をベンチに促せば、明は渋々ながらもそこへ腰を下ろした。そうして漸く聞く体制に入った明の姿に、巡はゴクリと唾を呑み込んだ。 「俺…」 　巡は少しだけ逡巡しながらも、ベンチに座る明の前に立つ。 「俺、ずっと明に謝りたかった！　明に睡眠薬飲ませたことも、そのあと明に、酷いこと言ったことも。ごめんっ！　謝って済むことじゃないって分かってるけど、それでも！」 　そう言って、巡は頭を深く下げた。 「あんなことしておいて、訴えられたっておかしくないのに…。謝るどころか、あの部屋に戻ってきた明に、俺、酷いこと言った。渚に捕まったのも、俺がおかしくなったのも、ぜんぶぜんぶ明のせいだって、お前を恨むなんて…酷いこと」 　あの時の巡の情緒は、不安定どころかほぼ崩壊していたに等しかった。そんな中で、どうしても全てを誰かのせいにしてしまいたかった。自分がおかしくなったのは、自分ではない誰かのせいなのだと、そう思い込まないと、もう生きていけない気がしたのだ。だからと言って、全てが明のせいだなんてそんなわけ、絶対にありはしないのに。 　頭を下げたまま巡が唇を噛んだところで、明がフンと鼻を鳴らした。 「とりあえず頭あげたら？　そんなことされちゃ、僕まで悪目立ちするじゃない」 「ご、ごめん…」 　恐々としながら頭を上げた巡の目に映ったのは、怒った顔ではなく、困惑したような表情を浮かべた明だった。 「そんな事を言う為に、わざわざ僕を呼んだの？」 「え…そんなことって」 「バッカみたい」 　明が小さく笑った。 「一年も前に終わったそんなこと、まだ気にしてたの？　本当、巡ってバカだよね」 「あかり…」 「それより、もう躰は平気なの？　外に出ても、大丈夫なの？」 　巡は思わず耳を疑った。まさかあの明から、巡の躰を心配する言葉が出るなんて。そう思った事が素直に顔に出たのだろう、明はあからさまに表情を不機嫌へと変えた。 「なんなの？　僕が心配したらダメなの？」 「いや、そんなことはないけど…え、だってさ…、」 　戸惑う巡を見た明は、今度こそ大きな溜め息を吐いた。 「僕だって、幼馴染の心配くらいするよ…、って言っても、そう思える様になったのはまだ最近だけどね」 　渚と巡が引っ越した丁度その頃、明はあのマンションに再び足を運んでいた。あの日見た巡の姿が、頭に焼きついて離れなかったからだ。 　明が巡を〝幼馴染の巡〟として認識したのは、あの時が初めてだったかもしれない。 「僕はずっとお前が嫌いだったよ。いつだって渚くんの心を独占して、僕はそれが欲しくて堪らないのに、だけど巡はいつだって彼の気持ちを邪険にしてた。許せなかったよ、どうしても」 　憎くて憎くて堪らない巡の存在は、明にとって唯の異物でしかなかった。けれどあの日、壊れかけた巡の姿を見たあの時。明は初めて渚の抱える闇を知った。そして巡を失う怖さを知ったのだ。 「ふたりのこと、初めて怖いと思った。渚くんのことも、渚くんに取り込まれていく巡のことも。昔から知ってたはずのふたりが、全くの別物になってたんだもの」 「それでも俺は、明が好きだったよ。嫌われてるって分かってても、誰からも好かれる可愛い明が、俺は好きだったよ」 「知ってる。ずっと知ってた、巡が僕を見てたこと。だけど気付かない振りをしてた。だって、僕から目が逸れて、渚くんを見たら嫌だったから」 　巡が自分を見ていたことは当初から気づいていた。そして渚が巡を見ていることも。けれど明が一番恐れたことは、巡が渚に目を向けることだった。 「僕がお前を振らない限り、お前は僕を諦めないだろうと思ってた。だから僕はずっと、巡の気持ちに気付かない振りをしてた。だからって、渚くんが僕を見ることは絶対に無かったのにね」 「明は…もう渚を諦めたのか？」 　巡の問いに、明が自嘲するように笑った。 「僕は今、渚くんが怖くてしかたないよ」 　明が足元に転がる小石を蹴った。 「僕はほかの誰よりも彼に愛されたかった。彼の特別になりたかった。渚くんのことが本当に大好きだったけど…、今はもう、恐怖しかない。巡に向ける気持ちの重さを知った時から、彼を思い出すたび躰が震えて止まらないんだ」 　巡に向ける渚の本気を知ったとき、明は渚を純粋に恐ろしいと思った。想い人を狂わせてまで手に入れようとするその姿は、明にはまるで悪魔のように思えた。 「あの日、本当は僕、巡をあの部屋から追い出しに行ったんだ。彼は僕のモノなんだって詰って、無理矢理あの部屋から追い出してやろうって計画してた。でも巡を見つけた瞬間、それまでのこと全部が吹っ飛んで、助けなきゃって思った。幼馴染が渚くんに殺されちゃうって、怖くなった」 「明…」 「正直僕は、渚くんを異常だと思ってる。ふたりがこのマンションから引っ越したって聞いた時、もしかしたら巡はもう生きてないかもって思った。そのくらい、やりかねない目を彼はしてた」 　そう思う明の気持ちが、巡にも痛いほど理解できた。なのにそんな渚を怖いと思わないのは、巡の心が広いのか、はたまた巡もまた、渚と同類なのか。 「ねぇ、巡はこのままで良いの？　渚くんと一緒に居て大丈夫なの？　本当は、逃げたいと思ってるんじゃないの？」 　明は巡に縋るような目を向けた。これ以上何かを失うのは、もう嫌だったから。巡も初めて明にそんな目を向けられ、感動に近いものを胸に抱いた。一年前の巡だったら、すぐにでも明の手を取り逃げ出していたかもしれない。でも、この一年で明の中に変化が起きたように、巡の中でもまた変化が起きていた。 「明、これ見て」 　巡がベンチに座っている明に足を突き出した。 「このスニーカー、ＧＰＳが付けられてんの」 　明は瞠目し、巡の顔を見上げた。 「これだけじゃない。家にある俺の靴、全部に付けられてる。病院に行く以外の理由で外に出ることは基本禁止だから、多分いま、渚は怒ってる。アルファで鼻も利くから、明と会ったこともきっと直ぐバレる。酷いお仕置き、されると思う」 「巡っ！」 　巡を想って上げた明の悲痛な声を、巡は心から嬉しいと思った。だけど巡の中に広がった明への気持ちは、ただそれだけだった。 「俺、渚がそうしたくなる気持ち、分かるんだ。俺も明に、薬盛ったりしたしね…。俺たち多分、同類なんだよ」 　そう言って巡は徐にカバンの中を漁ると、病院で貰った検査結果を取り出し明に渡した。 「これ…なに？」 　専門用語が並ぶそれは、素人が見たって何なのか分からない。巡はにこりと笑って明に言った。 「俺、渚との子供が欲しいんだ」 「え…」 　ポカンと気の抜けた顔を見せた明に、巡は堪えきれず歯を見せて笑った。 「ビビるよな！　まさかこの俺が渚の子供を欲しがるなんて、自分でもちょっと信じらんない気分！」 「巡…」 「散々薬漬けにしてきた躰だから当然なんだけど、不妊にもなっちゃってさ。子供を産めないって言われた時、俺は欠陥品なんだって言われた気がして、死ぬほど辛かった」 　けれどそうして泣き喚く巡を、渚は以前と変わらず愛し続けた。 　巡が居てくれれば幸せだと、他は何も要らないのだと、巡は欠陥品なんかじゃないのだと。巡が泣き止むまでずっと、渚は永遠に諭し続けた。 「初めはさ、現状が辛すぎて、慰めて貰えるなら何でもいいやって渚にしがみついてたんだ。けどその内、渚が側に居てくれるだけで安心するようになって、暴走してた発情もなんだか落ち着いてきて、そしたらいつの間にか俺、ちゃんと〝渚〟自身を見るようになってた」 『渚、その顔…』 　巡を慰めることに必死で、碌に睡眠を取っていなかったのだろう。仕事に向かおうとする渚の目の下に隈を見つけ、巡は初めてその身を案じた。 　慌てて任せきりだった家事に手を出した。キッチンと部屋を片付け、風呂を洗い、夕食を用意したとメールを送れば、渚はいつもより二時間も早く帰宅してみせた。 『巡のご飯、久しぶりに食べるなぁ』 　そう言ってご飯を四回もおかわりして巡を呆れさせ、風呂にふたりでゆっくり入り、その夜は久しぶりに何もせず、ただ抱き合って眠った。 『これ、弁当。作ったから持っていけよ』 　次の朝、いつもより早く起きて作った弁当を渡せば、寝癖を跳ねさせた渚は驚きと喜びが入り混じったような顔で笑った。その日の夜は遅くまで求められ、ふたりで落ちるようにして意識を手放した。 　巡の心は、そこから日に日に変化していく。 　髪を撫でられると何だか嬉しくて、抱きしめられるとホッとして、求められると躰の内側が激しい熱を持った。 　朝になってもまだ躰の中に残されている渚に、照れと喜びを覚えた。抱かれて上げる声には、目に見えて甘さが増していった。 「それ、」 　巡は明が持っている検査結果の紙を指差す。 「簡単に言うと〝不妊治療が順調に済みましたよ〟って書いてあんの」 「へ…？」 「この一年、ずっと不妊治療に通ってたんだ。最初は狂った発情期を戻したくて通院してたけど、今日病院で、今度は旦那さんと一緒に来て下さいねって言われた。お互いの発情の周期で、妊娠しやすい時期を見てくれるって。俺のここ、命を宿せる躰に戻ったんだって」 　そう言って腹を擦り笑った巡を見て、明は全てを悟った気がした。 　明がどれだけ願っても、渚を手に入れられなかった理由。渚がどんなことをしても、巡を手に入れたかった理由。そうして見事渚の手に落ちることとなった巡の運命の筋書きを、明は見た気がした。 「じゃあ巡は、いつか親になるんだね」 「普通の人より、時間はかかると思うけどな」 　巡は明が差し出した検査結果を、また丁寧にカバンへ入れた。そうして明から一歩、遠ざかる。 「明、俺たちが会うのは、これで最後だ」 　明はその言葉に驚くことなく、静かに頷いた。 　一年という時を経て、明と巡の気持ちは変化を遂げたけれど、絶対に変わらない心を持つ一人の男を救う為、彼らは別々の道を歩むと決めたのだ。 「渚くんを幸せにできるのは、巡しかいないよ」 　そう言ってくれた明に、巡は心から感謝した。 「明、本当に今までごめん。ありがとう…、大好きだった」 　巡が全てを言い終わるその瞬間、突然立ち上がり抱きついた明の唇が、巡の唇にほんの一瞬だけ重なった。 「僕はお前なんか、大嫌いだよ。……バイバイ、めぐる」 　そのまま背を向けて歩き出した明の後ろで、巡は一度だけ滲んだ視界を腕で擦る。そのあと巡の世界が滲むことは、もうなかった。 【後編へ】