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NAGISA
愛しても、
愛しても、
愛しても。
自分の一部を壊してまで、気が狂う程に愛してみても。
明が自分を見てくれることは決して無いのだと、いつも君は嘆いていたね。
だけどね、メグ。
そうして君が運命に逆らい足掻くことで、同じ様に、いや…それ以上に苦しむ人間がいた事に君は気付いていたのかな。
心を狂気に染めていく人間がいた事に、君は気付いていたのかな。
君のせいで俺は、
自分を“全て”壊してしまったんだよ、メグ。
余計な物が排除された家の中は、まるで二人の為だけにある楽園だ。
「メグ? 居るんでしょ?」
シンと静まり返る部屋の中に、僅かに息づく気配がする。
ふたりの寝室となった巡の部屋からは、扉を開ける前から甘く香ばしい匂いが漏れ出ていた。下腹の奥が思わず疼く。
「メグ?」
扉を開けば、その香りはまるで誘うようにどろりと溢れ、渚を取り囲んだ。
「どうしたの、また泣いてるの?」
「ひっ…う…うぅっ、」
ベッドにしがみつき泣いている巡に、渚はそっと近づき手を添える。
「カラダ、辛いの?」
優しくかけられた声に欲望が滲むのを聞いて、巡は更に嗚咽を漏らした。
いつ頃からだったか。
渚が巡をここへ閉じ込め、大学も辞めさせ、ただ只管にそのカラダを愛し続けていたある日から。
壊れてしまったのは心か、カラダか。巡は周期を無視して発情を起こす様になった。
番が居ると言っても発情は発情だ。通常であっても、発情期の間は互いに獣と化して只管セックスに没頭せざるを得なくなる。それ程に性欲が高まるのだ。
幾ら番を持ったアルファに発情休暇が与えられているとは言え、不定期に、それもひと月に何度も発情を起こす様になった巡に付き合っていては流石に仕事にならない。
抱かれても、抱かれても、抱かれても治まらない発情。
渚は『行かないで』と泣いて縋る巡をひとり部屋に残し、苦渋を飲みながら毎日仕事に出かけている…と言うのは建前で、実際は心の中でほくそ笑んでいた。
いつだって巡は渚ではなく、運命でも無ければアルファですらない、見た目以外には何の取柄もない小さくか弱い存在に目を向けていた。せめてカラダだけでも繋がりたいと、明を盾に脅し、無理矢理その身を繋げれば、巡の瞳は渚への憎しみを強め益々明への執着を強くした。
それでも、いつかきっと運命に気付いてくれると信じて待っていたのに、その瞬間が来る気配は少しも見えない。
遂に痺れを切らせた渚が画策し始めたその頃、同じくして巡の様子も可笑しくなった。
昔から嘘をつく事が苦手な巡の事だ。彼を良く見て知っている渚にとって、その異変に気付く事は息をする様に容易かった。
そうして実際蓋を開けて見れば、相変わらず巡は明しか見ていなかった。それも、自身の体に明の子供を宿そうとしてまで彼を求めていたのだ。
渚の頭の中で、ぷつりと糸が切れる。
有無を言わさず運命と言う名の鎖に巡を繋げば、彼は今まで以上に気を狂わせていった。
狂っては希に正気を取り戻すことを繰り返すたびに、巡は明に恨みを向ける様になった。
こうして自分が狂ってしまったのは、渚を繋ぎとめなかった明のせいだと。明が渚の心を射止めてさえいれば、自分が狂う事は無かったのだと被害者になることで、壊れ行く自分の何かを守ろうとしたのだろう。
あれ程彼を愛していたにも関わらず、その心は明への憎しみに染まり、急速に蝕まれていった。
喚いて渚を罵っては、抱いてくれ、と泣いて縋って渚を乞う。
そうして求められるがままに酷く淫らにカラダを繋ぎ合っても、それが決して純愛ではない事を渚は理解していた。心が伴っていない事も、十分理解していた。
それでも、渚は自分を求めるようになった巡に愛おしさしか湧いてこない。
誰よりも先に心を壊した渚にとって、現状は、求めてやまないものに相違なかった。
「あっち、行けよっ」
苦しげに嗚咽を漏らす巡の背を優しく撫でる。
「側に居ちゃダメなの?」
「頼むからっ、今はほっといて!」
乾いた音を立てて振り払われる渚の手。
どうやら今日は、不意に起きた発情に魘され泣いているわけでは無さそうだ。その代わり巡の顔は薄暗くても分かる程蒼白で、何か大きな問題を抱えていることは明らかだった。
振り払われた手に冷たい視線を落とすものの、渚がそれを言葉に出すことは無い。
必死にその問題を隠そうとしている巡が、愛おしくて仕方ないからだ。
「ねぇ、メグ。悩みがあるならちゃんと話して欲しい。俺たちはもう、唯の幼馴染なんかじゃない、夫婦なんだよ? パートナーが目の前でこんなにも疲弊してるのに、放って置くことなんて出来ないよ」
諭す渚を見上げた巡の瞳には、拒絶と懇願が入り混じっていた。
事実には触れられたくないのに、独りで抱える事が不安で不安で仕方ない。離れて欲しい心と、側にいて欲しい心がせめぎ合っている。
そんな巡の心情が、渚には手に取るように分かった。
「メグに起きた事は、俺に起きたこと同然なんだよ。だから、お願いだからあっちに行けだなんて言って、俺を拒絶しないで」
そっと撫でた頬にまた、涙が流れ落ちる。
涙を零しながら数回瞬きを繰り返した巡は、迷いながらもベッドのヘッドボードから何かを探り出し、俯いたまま四つ折りにされた紙を渚に差し出した。
「これ…診断書? メグ、病院に行ったの? いつ?」
「一週間、まえ」
渚は受け取った紙を神妙な面持ちで見つめ、覚悟を決めて診断結果に目を通す……フリをする。
妊娠促進剤を使っても妊娠しなかった巡の体に、何か異変が起きているであろう事は予測していた。その原因の一つとして、渚が巡を抱くが故に摂取していた避妊薬が関係していることも、大凡検討がついていた。
大事なのは、その事実を巡がいつ知るのかと言うこと。そして、どんな反応を見せるかという事だった。
最近、巡が渚とカラダを重ねる度に何かを考え込んでいる事には気付いていた。その内、何か行動を起こすであろうことも予測していた。
だからこそ渚は、巡のどんな行動にも対応出来るよう事前に準備していた。そうして一週間前、巡がこのマンションから外に出たことを渚に知らせたのは、以前から巡のスニーカーに忍ばせてあったGPSによる通知だった。
渚を仕事に見送った数十分後の午前八時、遂に巡が動いた。
初めは渚の元から逃げ出したのだと思った。
一瞬で頭に血が上り、手に持っていたボールペンをへし折ってしまったのは致し方ないこと。
仕事を投げ出し暴走しそうになる体を何とか踏みとどまらせ、画面上で動く赤色の星マークを大凡四十分程見守った時だった。巡が辿りついたであろう場所に、星が止まり点滅している。
(病院…?)
そこは、オメガの不妊治療で有名な病院だった。まさかあの巡が、妊娠しない体を気にするだなんて。
思わず笑いそうになるのを堪えるのは、怒りを抑えるよりも大変なことだった。
「その検査の結果を、今日聞きにいったの?」
俯いたまま、小さく頷く巡。
「先生に何て言われたのか、ゆっくりで良いから教えてくれる?」
ひくっ、と引き攣った巡の喉が痛々しい。巡は必死に涙を堪え、何度も唇を噛み締めながら訥々と説明を始めた。
オメガの発情期が怖くて、発情が来る前から抑制剤を服用していたこと。実際に発情期が来た時も、近くにアルファである渚が居ることを意識して、通常よりも多目に薬を服用していたこと。
避妊具を使用せず、薬を服用して繰り返した渚とのセックスが、ホルモンのバランスを大きく狂わせたこと。そして、その多くの機会で副作用の強い緊急避妊薬飲んでいたこと全てが災いして、巡の体は新しい命を宿しにくい体になってしまったのだと。
巡は、必死に泣くのを堪えて渚に打ち明けた。
「おかしいって…思ってたんだ。アレだけ中に出されて、促進剤だって飲まされたのに、何で、何で俺は妊娠しないのかなって、絶対おかしいだろって…俺っ、」
そして急に怖くなって、ひとりで病院に行ったのだと。巡は話しながら、震える手で自身の手を握りしめた。
「それを全部、ひとりで聞いてきたの…?」
巡が何かを堪えるように、ギュッと唇を噛んだ。
「そんな…どうして言ってくれなかったの。言ってくれれば、俺も一緒について行ったのに。そんな辛いことを、ひとりで聞かせたりしなかったのに」
俯いたままの巡の頭を抱き寄せれば、それは抵抗なく渚の胸元に収まった。それから少しして、胸元が濡れた感触とともにジワリと温まる。
「ごめんね、メグ。ひとりで行かせてごめん。メグの体がおかしくなったのは、全部俺のせいなのにね」
巡は否定も肯定もせず、渚の胸元にしがみつき嗚咽を漏らした。
次から次へと溢れる涙はどうして出てしまうのだろうか。悲しいのか、悔しいのか、それとも孤独から来る恐怖なのか。
渚の子供など欲しくなんて無かったのに、“できない”と言われた瞬間、巡の頭の中は真っ白になった。
作らないのではない、作れないのだと思い知らされた。
愛したはずの人には愛されず、運命の名の元に繋がった相手には、望まれた子供を残してやることすら出来ない。
誰からも愛されない、誰も愛せない、何も与えることの出来ない無意味な存在。自分は、矢張り欠陥品でしかないのだと、そう言われた気がした。
「ごめん、なさ…渚、ごめっ」
「メグ、泣かないで」
「でもっ、お前…こどもっ」
「良いから。俺はメグさえ居てくれれば、それで良いから」
だから俺の為に悲しまないで、泣かないで、メグ。
なんて、そんな心にも無いことを。
悲しむ巡を胸に抱きながらも、上がる口角を止められない。
手に入らないのならば、いっそこの手で殺してしまう事だって考えた。
自らの手で失う事を本気で覚悟した。それ程に巡の心は、ほんの一ミリだって渚に傾きなどしていなかった。それなのに、今。
あれ程渚を憎み嫌っていたはずの巡が、渚との子供ができない事実に苦しみ悲しんでいる。渚の望むものを与えてやれないと、涙を零して嘆いているのだ。
愛してやまない巡が、渚のせいで失ったものに悲観して泣いている。それがどれだけ幸せなことなのかを、きっとこの世の誰もが理解出来ないに違いない。
それでも、渚は幸せだった。
巡が突き付けられた現実に苦しみ、悲しみ、涙を流すたびに渚は幸福感に襲われる。この先もずっと自分の為だけに泣いて、苦しんで、いっそ完全に壊れてしまえば良い。
そうしていつか、笑ってくれたなら。壊れた笑顔を、自分にだけ見せてくれたなら、それだけで…。
「俺は、幸せなんだよ」
胸に巡を強く抱き締め、うっそりと笑う。
今ふたりが進んでいる道は、自身が敷いたレールの上であると確信を持っていた。そしてそれが、渚の望む未来へ確実に向かっているという事も。
全てが計画通りに進んでいた。その事実を目の当たりにして、笑うなという方が無理なことだった。
ふたりの未来の片隅で、白い花が揺れる。
風に吹かれる白い花。
みな、一心に下を向き咲いていた。
まるで仰いだ先には
希望など一つも無いと言うかの様に、酷く、儚げに――――
END
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