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第70話 真夜中の片思い7

(大野語り) 昨日のことなのに、すっかり忘れていた。 キャバクラは煩くて、ただ煩わしいだけだった。 寺田さんなんか俺をダシに女の子を触ってたし、低俗な笑いにつまらなくなり店を出た。駅のベンチに座って仕事について考えていたら、無性になごみさんの声が聞きたくなっていた。彼の声で爛れた俺の心を浄化したかった。 電話をかける勇気なんかないくせに、何度もやろうとしては手を止めて…を繰り返した。 そしたら間違えて本当にボタンを押してしまい、焦って立ち上がった時にカバンの中身がすべてひっくり返ったのだ。携帯は寸止めで接続を中止させたけど、書類やら資料やらが派手に地面へ散乱してしまった。 その時にクリアファイルが滑ってベンチの下に入ったらしい。 見つかっちゃったな…… なんとかクビは繋がったけど、2人で共有していた目的が終わりを告げ、名残惜しい想いだけが残った。 「ほら見て、あれじゃない?」 なごみさんに促され、並んでベンチに跪いて中を覗く。携帯のライトで辺りを照らすと水色の髪と、ミニスカから覗くパンツが見えた。 なごみさんと一緒に見ると、全く色気のない無機質な女の子に見えてくる。 俺は手を伸ばして、上半身まで中へ入ってファイルを取り出す。彼女は薄汚れていたけど、中身は無事だった。契約書も2部ある。 「見つかってよかったね。うん…と誰だっけ……そうそう、沙月ちゃん。〝おかえりなさい、ご主人様〟だね。その通りで笑える」 なごみさんが沙月と呼び、彼女の名台詞を呟いた。さらりと名前を呼んだところに軽く嫉妬を覚える。 俺の下の名前なんか覚えてないだろうに、こんなキャラクター名は知ってるのか。 そんなことは俺の心内だけで、空想の人間に嫉妬とは、おくびにも出せない。 「本当に、本当に、ありがとうございました」 丁寧に頭を下げた。 お礼はきちんと言うのが俺のポリシーだ。それは何時でも何処でも、誰に対してもちゃんと言う。 〝ごめんなさい〟と〝ありがとう〟は人生で1番と2番に大切な言葉だと母から教えられて育った。 「いえいえ。大野君は、ごめんなさい、とありがとうが言えるよね。僕、そこは偉いと思うよ。今はそれすら言えない人達ばかりだから。次は絶対に無くさないように」 なごみさんが俺の肩を軽く叩いた。 だから……自分が日頃気にかけてやっていることに気付いて褒めるとか、無意識にやってるんだからタチが悪い。嬉しくて泣きそうになるじゃないか。 貴方にもう一度、俺の気持ちを真剣に伝えたら、以前のように冗談や気の迷いで済ますのかな。 気になったが聞く勇気は無く、ヘタレな俺に肩が落ちた。

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