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第5話

 仕事や学校に向かう人々にもまれて電車に乗った恭平は、慣れ親しんだ感触がこないことに疑念を持った。 (うん?)  尻に指が触れてこない。  その翌日も、翌々日もチカンは現れず、恭平は首をひねった。 (イカしちまったもんで、俺には興味がなくなったのかもな)  連日触れられ続けて、なんとなく日常めいた感じになりかけたころの喪失に違和感を覚えつつ、ほかの誰かに被害が及んでいる可能性と、するだけやって落ち着いた可能性とを考える。 (ほかのヤツが被害に遭っていなきゃいいけど)  自分だからこそ、平気でいられたのだという自覚はある。普通のヤツなら気持ち悪がって逃げるか、恐怖と羞恥に見舞われるだろう。 (もしかして、俺なら平気そうだって思われたのかもしんねぇな)  それでちょっと魔が差して、チカンをしてしまったというのならいい。イカせたことで我に返って、誰にもしなくなっていればいいと考えた恭平は、電車を降りてアパートに着くころには、すっかり意識を切り替えて……というか、チカンを気にすること自体を忘れて、遭遇する以前の日常にあっさり戻った。  途中で購入したコンビニ弁当を、あたためるのが面倒なのでそのまま食べて、空の容器を台所に運んだ恭平は妙にスッキリしていることに気づく。 (……なんだ?)  なにがどうスッキリしているのか。  弁当の容器をザッと洗って洗い上げ籠に入れた恭平は、あっと気づいた。 (ゴミの分別が、きっちりされてんのか)  後で分けようと、適当にまとめておいた缶やプラスチックなどがきちんと専用のごみ袋に仕分けされている。 (誰が……?)  真っ先に浮かんだのは別れた女房だが、十年以上も顔を合わせていないのに、そんなことをしに来るわけがない。次に思いついたのは誠だが、彼に鍵は渡していないし、部屋を掃除してくれる義理も理由も存在しない。 (酔っぱらっているときに、俺がやったのかもしんねぇな)  へべれけになった意識が、後でしようしようと思っていた行動をとったのだ。それが一番ありそうで、きっとそうだと納得をした恭平は歯磨きをして布団に入った。 (誠の料理、うまかったなぁ)  店で食べる、特別にうまい料理というものではなく、家庭的な手作り感あふれる料理を思い出して恋しくなる。 (やっぱ、弁当とか外食じゃあ、飽きるよな)  ここ十年、そう思いながらも無視をしてきた感情がプカリと浮かんだ。 (また飯を作りに来てくんねぇかなぁ)  寝返りを打った恭平は、記憶の中の包丁の音とみそ汁の匂いに包まれながら眠りに落ちた。 * * *  目を覚ましてシャワーを浴び、食パンをトースターに入れて湯を沸かし、コーヒーを淹れた恭平は冷蔵庫に手をかけて、はたと思い出す。 (そういや、牛乳を買ってくるの忘れたな)  ないとわかっていながらも、いつもの癖で冷蔵庫の扉を開ける。 「あれっ」  視線が真新しい牛乳パックの姿を捉えて、恭平は声を上げた。 「なんで……俺、買ったっけか」  呟きながら牛乳を取り出して、まあいいかとラッパ飲みをしかけてやめる。 (誠が来た時、牛乳がいるっつったらイヤがるかもしんねぇしな)  直接パックに口をつけているなど知る由もないだろうが、なんとなく気になった恭平はグラスに牛乳を注いで一気飲みした。 (そういや、こういうのに気がつかないのがイヤなんだって、別れた女房に言われたな)  そのときは夫婦なのだから気にする必要もないのにと考えた。ほかにもいろいろと、恭平の気にしなさすぎる部分がイヤなのだと細かくアレコレ数え上げられ、それらの積み重ねが限界を超えたのだと離婚届を叩きつけられたのだ。 (俺のおおらかなところがいいって、言っていたのになぁ)  十年一昔という言葉がある。それは過去として受け止められる時間という意味も含んでいるのではないか。でなければ、どうして最近になって頻繁に思い出しているのだろう。 (誠の手料理が原因だろうな)  ひさしぶりに家でのんびり、誰かが作ってくれた食事を食べたから記憶が刺激されたのだ。そこに十年という月日が絡まって、なつかしくなっているのかもしれない。 (ま、いいか)  当時は当惑に見舞われたが、いまでは冷静に思い出せるし元女房の言い分もわかる。だからといってヨリを戻したいとか、また結婚したいという気持ちにはならない。ただなつかしく思い出し、ちょっとした反省の気持ちを持っただけだ。 (あの時こうしておけばなんて考えたって、戻れるわけじゃねぇしな)  牛乳を飲み干したグラスをシンクに置いて、トーストにマーガリンを塗り、コーヒーを手にしてちゃぶ台に着く。 (そういや、グラスも飲んだらすぐに洗ってくれとも言われたなぁ)  割れやすいからほかの食器とおなじようにシンクに置くなだの、たったひとつなんだから使ってすぐに洗ってくれれば楽になるのにだのと、あれこれ文句を言われたなぁと笑いつつトーストをかじる。あの時はうるさい、めんどくさい、ひとつ増えてもおなじだろうと言い返していたが、相手からすれば大きな違いだったのだ。 (どっちも歩み寄らなかったってことで)  縁はあったが継続する縁ではなかったのだと、あっさりと結論づけた恭平は食べ終わった食器もそのままにテレビを点けて、出勤時間までダラダラと過ごした。  * * * 「うん?」  帰宅すると、ちゃぶ台に置きっぱなしにしていたはずの食器が片づけられていた。アルコールは摂取していなかったので、酔っぱらって洗ったなんてことはない。  首をひねりひねり買ってきたコンビニ弁当をちゃぶ台に乗せて、部屋が妙にスッキリしていることにも気づく。 「あ、れ……」  布団がキレイに畳まれて部屋の隅に置かれている。だから広く感じたのかと納得しつつ、自分はしていないのにと疑問を浮かべた。 「なんなんだ」  ほかに異常らしい異常は見受けられない。窓の鍵はきちんと締まっているし、玄関ドアも鍵を差し込んでひねった記憶がある。 (誰が)  考えながらコンビニ弁当を平らげた恭平は、まあいいかと目の前の眠気に負けて思考をやめた。布団を広げて横になる。 「ふぁ……」  あくびをすれば、異変などどうでもよくなった。それよりも体を包む眠気のほうが問題だ。誰にともなく「おやすみ」とつぶやいて、恭平はゆったりと意識を手放した。

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