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八月も最終週だが暑さはまだまだ引かない。三畳ほどしかない狭い部屋に空調などが備え付けられているはずもなく、定員数の二名が動き回ればとにかく蒸した。
――狭くてもレッスン室なんだし天窓くらいつけてもいい気がするけど。
外からの採光もなく鏡張りともなると、見た目からして暑苦しい。どちらにせよクーラーは苦手であまりつけたくはないので、とにかく今は我慢するしかなかった。
来週に迫った、先輩ソロアイドルで事務所の社長でもある『King』のコンサート。
バックにつく研修生メンバーが確定した数か月前から始まったレッスンも佳境に入っているさ中、急遽自分ともう一人のふたりだけでバックにつく曲が追加された。
自分も彼もまだ事務所に入って日が浅い同期の研修生同士、どうして選抜されたのかは謎だが、自分をアピールするチャンスであり自分が憧れる先輩のすぐ傍で踊れるプレゼントでもある。
彼も同じ考えなのか、示し合わせたように居残りを申し出てふたりでその曲の猛特訓を始めた。
――結構踊れるよな、コイツ。
鏡に映る自分を見るふりをして彼の様子を窺う。
事務所に入りたての頃は幼馴染の同期とペアを組まされていたものだが、ここ最近は彼とペアを組まされることが多くなっている。
自分の知っている彼に関する情報は少ない。
自分には彼がどういう経緯で舞台に立っているのかも、普段学校でどんな風に生活しているのか――自分が見ていない時間の彼がどんなヤツなのかも知らない。何を考えているかも趣味嗜好もわからない。
ただひとつわかるのは、呼吸するタイミング。
吐息をはく前に吸い込んだ息を止めるほんのわずかな一瞬。その一瞬だけはどれだけ離れていても、目に入っていなくても、手に取るようにわかる。
わかると呼吸が自然とシンクロしていって、そこには自分がちゃんと居るのに彼もいっしょに居るような、不思議な繋がった感覚がして――……
ぼんやりと煮え切らない頭で考え事をしながらターンをしたら、軸足にしている方の足がくん、と何かを引っ張った。動きを止めて足元を見やれば、軸足じゃない方のほどけたバレエシューズの靴ひもを軸足が踏んでいる。
「ごめん、俺だけ下がる」
そっちは続けて、と並んで踊っていた彼に暗に告げ、一歩下がった場所で屈みこむ。彼は何も言わずに返事のかわりのように音楽に合わせて踊り続けた。
靴ひもを結びながら、彼が鏡に映る自分にひとりで向き合う姿を盗み見る。
折れてしまいそうな華奢なからだ、透き通って見えるほどの白い肌、激しい動きのせいで上気して紅く染まった頬と上擦る吐息。
極めつけは、やや垂れた左の眦に飾りのように並んだふたつの泣き黒子。
「なんかおかしい?」
「!」
鏡越しにばちりと目の合う音がしてすぐさま目をそらす。
目元ばかりを長いこと睨むようにして眺めていたから目が合って当然なのだけれど、自分と同じ普通の中学二年生が醸しているとは到底思えない妖艶さにうっかり吞まれてしまうところだった。もしも彼がメデューサだったら、自分はとっくに石になっている。
そもそも中学生の時分から『妖艶』なんて言い回しを知っている理由なんて、彼をずっと見ていたからに他ならない。
初めは同じ集団のほど近くから。いつからかは対の位置で。
本当ならうんと年上の女性から感ずるべきそれを、彼から。
「べつに、変、じゃない」
顔を逸らしたままぼそぼそとつぶやく。お前は、と心の中だけで付け加えて。
――変なのは、俺の方だ。
奥底から滾る熱のせいでずきずきと痛むからだ。
痛みを隠してやり過ごすのに靴ひもを結ぶための屈んだ姿勢は好都合だけれど、そのままうずくまると指先がもつれて上手く靴ひもを結べない。
「……ならよかった」
変ではないと告げただけの自分の言葉に、くすぐったそうな声が返ってくる。どんな表情を浮かべていたのか、なんて見なくてもわかるけれど、わかるからこそ見てみたい。
悩んだ末に半分だけ顔を上げたら、視界の端に弾むようにリノリウムのフロアを蹴ってひらひらと舞う綺麗な蝶が引っ掛かった。
それとは対照的ないびつな姿の飛べないちょうちょ――むしろ綺麗な蝶を罠にかける蜘蛛の巣にも見えるものに自分の動揺が表れているようで、苦いものが口いっぱいに広がる。
――きれいがこわい。
――きれい、な、彼、がこわい。
うずくまるだけでは抑えきれない不埒なものを苦味といっしょに奥歯で噛み締めれば、どす黒い得体の知れない何かが自分のからだを侵食し拡散してゆく。ぞわりと鳥肌が立ち、からだが震えた。
「おなか、痛い?」
声がして顔を上げると、眉尻を下げた彼の白い顔が目前にあった。心配そうな表情の真ん中には潤む双眸。透明な汗の滴が色づいた頬を伝い、首筋を流れた。
痛むのは腹、ではない。腹よりもう少し下の部分だ。
火傷しそうなほどの熱を持ち、わずかに膨らみかけたもの。
「…………便所行く」
どうにか絞り出した言葉は、彼の問いかけの答えになるだろうか。不安げに揺れる視線を振り切ってレッスン室を飛び出す。
自分には彼がどういう経緯で舞台に立っているのかも、普段学校でどんな風に生活しているのか――自分が見ていない時間の彼がどんなヤツなのかも知らない。何を考えているかも趣味嗜好もわからない。
自分にわかるのは呼吸するタイミングだけ。
吐息をはく前に吸い込んだ息を止めるほんのわずかな一瞬。その一瞬だけはどれだけ離れていても、目に入っていなくても、手に取るようにわかる。
わかると呼吸が自然とシンクロしていって、そこには自分がちゃんと居るのに彼もいっしょに居るような、不思議な繋がった感覚がして――……
駆け込んだ人気のない男子トイレの個室。ジャージの裾を勢いよくずり下げて、熱くいきり立ったものを取り出した。
――もしかしたら、バレたかもしれない。
呼吸するタイミングを察知した瞬間、無意識的にシンクロするのは何も呼吸だけではない。一挙手一投足、すべての動きがシンクロしてしまうのだ。
からだはいつも理性を裏切る。
だから今、こうしていきり立ったものを乱暴に扱いて得ている快感さえも、もしかしたら。
「……っく、……せ、の……ンンッ……!」
ついさっきまでは濃厚な色気に痺れていた手のひらを白濁したものが伝う。同じ伝うでも、彼の汗とは大違いだ。透き通る彼の汗はきれいで、自分の白濁は醜くて汚い。
「っはあ、はぁっ……」
適当に引き出したトイレットペーパーで汚れた手を拭い、深呼吸を繰り返して荒くなった呼吸を整えていると、幾分か思考がクリアになった。
後ろ暗い気持ちを明るい蛍光灯から遮るように、両腕で顔を覆う。
ふたりで練習するように言われて用意されたレッスン室にひとり置き去りにされた彼は一体どんな気持ちなんだろう。
――いっそのこと軽蔑してくれた方がマシだ。
同い年の同性に突然劣情を催すなんてどうかしている。この先ずっと彼の前で平気な顔をし続けなければならないのなら、自分のからだの変化に気づいて切り捨てられた方が気は楽だった。
――さすがにこんだけ離れてれば大丈夫。だよな……?
身体の動きが繋がったとき、心までもが繋がった気になる。もしレッスン室での自分の邪な欲やトイレでしたことが彼に筒抜けていたら。想像するだけで絶望の淵に立たされる思いだ。
そんな嫌な予想を払拭すべく、彼との繋がりをたしかめるように思考をめぐらせる。
――考えてもわからないから、きっと大丈夫。
何度試みたところで浮かぶのは自分の汚い欲だけ。繋がっていないからこそ心を少しも読めないのではないかという考えに至り、結論シンクロしていないという確信が持てそうだった。
でも、安心していいはずなのに素直に喜べない自分がいる。
――だって、アイツと離れたくない……。
呼吸から彼のすべてとシンクロしていって、自分はたしかに存在するのに彼もいっしょに存在する、あの不思議な感覚。
彼の存在はアイドルとしての自分にとって唯一無二の存在だ。あんなに息の合うシンメトリーにはもう二度と出逢えない。
それだけでなく、自分にとっては“ひとり”としてもどうしようもなく彼に惹かれている。欲情するのも抑えられないほどに。
おそらく彼とはシンクロしていない。仮に繋がっていたとしても、彼は侮蔑の感情を自分に差し向けて気持ちまではシンクロしていないかもしれない。
繋がっていないでほしいと思う傍らで、シンクロしていてほしいと心の奥底で願った。
もし彼が同じだけの気持ちを自分に抱いていてくれるのなら、汚い欲は昇華されて素敵な――になれると思うのだ。
「……ふぅ……」
大きな深呼吸を三度、くり返す。
そういえば、せっかく彼が心配してくれていたのに、さっきはまともなことが言えなかった。今なら自信を持って大丈夫だと返せる。それくらいには落ち着いた。
――レッスン室に戻ったらまず大丈夫だって言ってから、でも大事をとって今日は帰るって言おう。
彼はほっとしたように微笑むのだろうか。それともまた不安げに瞳を揺らすのだろうか。
――そんで……少し、距離を置くべきだよな。
彼とふたりきりになるたびにこんな気持ちになっていたら疲弊して何をしでかすかわからない。心配の芽を早々に摘み取るにはそれくらいしか思いつかなかった。元々プライベートで仲が良かったわけでもないけれど。
――踊るときくらいは……そのときだけは、隣にいることを許してほしい。
邪な情を取り去っても、強い純心は残る。せめてその希望だけは叶えさせてほしいと強く祈った。神頼みなんていかにも子どもらしいが、所詮自分は子どもだ。
迎えたコンサート本番。急遽追加された曲のダンスは我ながら完璧だったと思う。
大きなステージの上、先輩の一列後ろでふたりきり。浴びたスポットライトはおこぼれだったけれど、呼吸をシンクロさせて踊ったあの瞬間は過去最高にきらきらと輝く時間だった。
きっと三畳のぽっちのレッスン室は息づかいがうるさいほどに反響して、彼とふたりきりで過ごすにはいささか狭すぎたのだ。
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