2 / 7
1.
夏は苦手だ。
暑いし、雨がいっぱい降るし、暑いし、ちょっと気をつけないとすぐ日焼けし過ぎるし、暑いし、水分を過剰摂取したりクーラーが効き過ぎている場所に居なければならなかったりするから体調を崩しやすいし、暑いし、暑い。とにかく暑い。
松山涼也 は楽屋の真ん中に用意されたテーブルに頬をつけるようにして突っ伏した。
光沢を帯びたつるつるとした木材の会議用テーブルだが、数十分間クーラーに冷やされていたおかげでひんやりとしている。頬から伝わる低めの温度が心地良い。
「そんなに言うならもうちょいクーラー強めればいいじゃん。涼也がエアコン苦手だからってクーラー弱めて扇風機つけたんだろ」
隣のパイプ椅子に逆向きになって跨って座る宇品静也 が、呆れた声で正論を説く。
どうしてまだ二人しか居ない楽屋で向かいでも斜の位置でもなくわざわざ隣のパイプ椅子に腰かけるのかと一瞬うんざりするが、同じ側に座らないと風が届かない位置に扇風機を置いたのは涼也だ。暑さで垂れているので落とす肩もないが、気持ちだけ肩を落とした。
扇風機の位置を動かせば離れて座れるという考えも浮かばなかったわけではないが、一度腰を落ち着けてしまうと再度動くのは面倒くさいというものだ。何せ、暑いのだし。
「どうせ収録すんの屋内のスタジオなんだし言うほどでもなくね? この局のスタッフさんいつも空調にはめちゃくちゃ気ィ遣ってくれてるじゃん」
たしかに今、背後からやさしく風を送ってくれている扇風機を置いておいてくれたのは気遣いのできるこのCSテレビ局のスタッフだ。
静也の言うとおり、月に一度決まって行われる事務所のアイドル研修生がメインの番組収録の際にはいつも涼也のようなクーラーが苦手なタレントのために頼む前から扇風機を用意してくれていた。
冬場になると今度は扇風機に替わって電気ストーブが用意されるのだが、デビューもしていない研修生のためにそこまで気遣ってくれるのは、涼也が知る範囲ではこの局だけだった。
「……それもそうだな」
正論を重ねる静也に返す言葉もなく辟易とする。
ちなみに、静也が遠慮なくずけずけと涼也に物を言うのは単に同じアイドル事務所に所属する同期の研修生同士だから、というだけではない。
事務所に入る前のダンススクールでも同期であり、つい先月研修生で適当に組まれたばかりの複数あるユニットの中でも所属が同じになり、加えてもともと幼馴染でもあり。
学区は違うので同じ学校に通ってはいないが、それでもクラスメイトよりもはるかに長い時間をいっしょに過ごしている。無遠慮にもなるわけだ。
「ってゆーか今日は本番じゃねーし! ゲネだし! 少しは暑さに慣れろよさすがに」
「慣れようと思って慣れるものならもうとっくに慣れてる」
遠回しに諦めていることを伝えると、静也は額にぺちりと手を当てて嘆くという、古い漫画やアニメでよく見るようなリアクションをとった。
「だめだこりゃ」
さらに思いっきり目をつぶったおかげで、静也のチャームポイントであるつぶらな瞳は顔文字に使用されるくの字の線のようになる。口を開く形も逆三角形になっていて、余計にコミカルさが増した。
「お前あざといって言われない?」
「お、よくわかったな! 最近ファンの人のブログに『うじちゃんあざとかわいー!』ってよく書かれんの。ファンレターにも結構書いてあるし、そういうキャラ求められてるのかなーって思って」
ついつい会話に乗せられて見入ってしまったと思ったら、どうも狙ってやっていたことらしい。
リアルタイムでファンの意見を取り入れその後反応を見て修正を加えていくなんて熱心なことで、と口には出さずに感心をする。涼也にはとてもじゃないが真似できない芸当だ。
身体を起こして、テーブルにおもむろに置かれた雑誌に目を移す。
何冊か置かれている中から適当に手に取ったのは本日発売の月刊アイドル誌だった。
いつも誰かが適当に持ち込んだファッション誌しか置かれていないのになぜ、と首を傾げると表紙の小さな見出しの下にさらに小さく自分の名前が載っているのを見つける。
涼也がインタビュー込みで雑誌に掲載されるのは、事務所に入ってすぐのとき以来、二度目のことだった。
久しぶりの撮影とインタビューは緊張したけれど、先月のユニット結成の効果で今まで少しだけ多めに仕事をもらえるようになったことの表れだと思うと緊張感も愛おしく感じた。
モニターチェックは済ませたけれど、誌面でどんな風になっているかはまだ知らない。わくわくしながら自分が所属するユニットの特集ページを開く。
「俺さ、今エゴサにハマってんだけど」
「だろうな」
先ほどのあざといとブログに書かれているという話はきっとそうして得た情報なのだろう。納得の度合いを表すべく涼也は大きく頷いた。
「その雑誌のインタビュー回答、お前ら全然だめ! ファン心理ちっともわかってない!」
静也が言うには、自分の評価を調べているとセットのようにユニットメンバーの評価まで目に入ってくるらしい。それもある意味ユニット所属の特需である。
「初めて載るヤツもいるし、俺らだって載るの二回目なんだから仕方ないだろ」
「でも好きな女の子のタイプとかアイドルには定石の質問なんだからさー。考えて答えないと」
「あー……」
静也の言うことにも一理ある。アイドルはあくまでアイドルだが、ファンに夢を与える存在でなければならない。
たとえば好きな女の子のタイプで彼女がいることをほのめかすような発言は厳禁だし、できるだけ多くのファンが該当する回答を望まれる。そこに自分なりのスパイスを加えられればベターだ。
とはいえ、そんな高度な技を一介の中学生が持ち合わせているはずもない。
涼也の回答も『色白できれいな大和撫子みたいな人』というなかなかのものだった。
大方、ファンの評価は面食いとかじじくさいとか一次元減らすべきとかそんなところだろう。もう少し盛り立てる回答ができたらよかったと省みつつ、正直な本音の回答なのだからいいだろうと開き直ってみる。
「ガキっぽいとか老けてるとかチャラいとかいろいろ言われてるんだろうけど、ユニット全体で見ればある意味バランスとれてるんだからいいだろ」
「それはそうだけど、でも妹尾とかマジ酷いんだって」
「どんなんだよ」
「もうね、俺の口からは言えない」
酷い言い草に興味がわいて問いかけるも、ちょうど開いてるんだから読んでよ、と自分で確認しろと切り捨てられる。そのくせ早くしろとせがまれて、苦笑しながら手元の誌面に視線を落とした。
カラフルな枠で囲まれた『妹尾千歳(せのお・ちとせ)』という文字列の下。インタビューコメントの真ん中辺りにそのQ&Aは載っていた。
――Q.好きなタイプの女の子は?
――A.不器用なひと。たとえばちょうちょ結びができないとか(笑)。
何気なく付け足されたであろう例えを見た瞬間、全身を流れる血が一気に沸き立つ。
――ちょうちょ結び。
その文字を見ただけであのいびつな蝶が――あの後ろ暗い汚れた出来事がフラッシュバックする。
あの日も、今日みたいな暑い日だった。
違うのは今居る場所が三畳で窓のない手狭なレッスン室でなく楽屋であること。楽屋は空調が効いていて、何なら扇風機まで用意されている。
それなのに、じとりとした嫌な汗が噴き出してはまとわりつくように涼也の背中を伝う。喉が渇いてひりつくように熱い。
脳内はあの日の光景で埋め尽くされ、静也に何か言葉を返せそうなんて考えすら浮かばない。涼也が口を閉ざしてしまうと、楽屋には扇風機の羽が回転する鈍い音だけが静かに響いた。
「いやお前、驚きすぎじゃね?」
「――ああ」
なんとか我に返ることができたのは、静也が固まった涼也を面白がって肩を叩いてくれたからだ。
黙ってしまったのを変に思うでもなく、咄嗟にした気のなさそうな返事に憤慨するでもなく、静也は「だよな!」と言葉でも動きでも力強く肯く。形はどうであれ『驚いた』ということに対しての同意が欲しかったらしい。
「百歩譲って不器用な子ってのはわかる。頑張ってる姿かわいいもんな。でも自分の服についてるリボンがぐちゃぐちゃとかマジ無理じゃね? ファンの人には面白いってウケてるけどさー」
「はは……」
静也の熱弁ぶりとその内容に自然と苦笑いが浮かんだ。
「……でもさ、」
でも、妹尾の好みにケチをつけながらお前だって半分は納得してるじゃねえか。
でも、ファンに面白いって言ってもらえてるんならいいんじゃねえの。
どれも苦笑いを浮かべたもっともらしい理由なのに、一番強く思うのは別のこと。
――でも、ちょうちょ結びが苦手でどうしたってリボンが不恰好になるヤツ、お前のすぐ目の前にいるんだよ。
もっとも強い『でも』を言いかけて、口を噤む。
わざわざ不器用を名乗り出て一体何になるというのだろう。
不器用で、ちょうちょ結びが苦手で、どれだけ条件と合致していたところで自分は妹尾の好きな“女の子の”タイプに当てはまりようがない。
第一、妹尾の好きなタイプの不器用な女の子について意見しているつもりの静也に『目の前にも不器用な人間がいるのだからむやみに馬鹿にしたような発言はやめた方がいい』と反論しても仕方がない。
静也は涼也が妹尾の“好きなタイプ”にも“女の子”にも属さないと思っていて、涼也のことを言っているつもりなんて微塵もないのだから。
――これじゃあまるで、俺のことであってほしいと思ってるみたいだ……。
あの日立てた誓いを守って妹尾とは距離を置くようにしているのに、こころがからだを裏切ることもあるのか。
「でも、何だよ」
「何でもない」
先に挙げた『でも』を答えてもよかったけれど、そこから妹尾の話題が続いたらと思うと何だか面倒になって涼也は苦笑いを浮かべ続けた。
「何でもないなら言いかけるなよ気になるだろ!」
「ごめんって……」
しかし静也がそれで納得するはずもなく、言及が続く。苦笑いのまま困り果てた涼也を助けたのは、渦中の人物だった。
「あ、おはよう。宇品くんも松山くんも早いね」
静かに楽屋のドアを開けた妹尾は「暑いー」と誰に聞かせるでもなく言いながら首元の汗を拭う。歩きながら肩掛けの小ぶりなエナメルバッグを器用に頭から抜き、荷物置き用のラックにバッグを置いた。
「おー妹尾! お前いいとこに来た!」
「?」
首を傾げて静也に手招かれるままテーブルに寄り、静也と涼也の間に立つ妹尾。何の疑問も持たず静也の言うことに従うその無垢さに、涼也はどうしてか少しだけ苛立った。
「妹尾の好きなタイプおかしくね? 何だよ、リボン結びできない不器用な子って」
「好きなタイプ?」
「これ!」
言われたことにピンと来てないらしい妹尾は静也の指さす先を覗きこむ。
「あ、この前の」
静也の指さす先は涼也の前に置かれた雑誌。覗きこもうとすれば当然顔が近づくわけで。
「んー、おかしいかなぁ? でもそれ――」
「…………近い」
「あっ、ごめんね」
怒りたかったわけじゃない。耐え切れずにこぼしたら、ぼそりと低い不機嫌そうにしか思えない声になってしまっただけ。しかも、静也には聞こえないほどの小さな声だ。
それでもしっかりと聞き取った妹尾は謝りながら飛び退くと、眉を垂らし困ったように笑って――気まずそうというよりは泣きそうな顔をした。
「つか、ここ空くし座れば」
「え?」
「まあずっと座ってて温くなってるだろうし嫌なら無理にとは言わないけど。俺、便所行ってくるから」
「あ、うん」
席を空けるから座ればいいと勧めたら一際悲しげな表情になった妹尾だが、席を立つ理由を告げた途端に明らかにほっとした表情になる。妹尾の感情の推移の理由を不思議に思いつつ、パイプ椅子をやや大袈裟に引いて立ち上がった。
「え、何なに? 涼也どこ行っちゃうわけ?」
席が空く云々しか聞こえていなかった静也は説明しろと言いたげに涼也を見上げるが、無視して楽屋のドアへ向かう。
「松山くん、ありがと」
背を向けざま、花の笑顔を浮かべる妹尾の顔が見えた気がする。
どうして自分に向かってはにかむのか、どうしてそんなに嬉しそうなのか、少しもわからない。繋がらず、あの日から距離を置いているのだからわかるはずもない。
でも今はそれが好都合だった。
自分の顔のすぐ横に顔を寄せた妹尾からはとてもいい香りがした。何の香りだとは名状しがたい、甘い花のような香り。あんな強い香りをあのまま嗅いでいたら、どうにかなってしまいそうだった。
おかしいという静也に対して「でもそれ」と口にした妹尾の返事の続きを聞きたくないのもあった。
何を言おうとしていたかシンクロしていたってどうせ皆目見当もつかないのだけれど、さすがに目の前で断罪されるだけの勇気は涼也にはまだない。
自分の劣情が伝わらなくてよかった。
彼の気持ちを読み取ることができなくてよかった。
踊っていない時間の接触を避けたら、踊っているときにシンクロしても心まで繋がっている気がすることはなくなっていた。今ではそう感じたことが勘違いだったのではないかと疑ってすらいる。
駆け込むこともなく入ったトイレの個室は、事務所のトイレよりも明るく感じた。
単にテレビ局のトイレの方が広く照明が多いからそう感じるのだろうが、たまたま入った個室だけ電球が消耗していそうなところも含め、涼也には自分が妹尾に向ける気持ちの差のように思えた。
少し距離を置くというあの日下した判断は間違っていなかった。
下腹部に兆すほどではない熱塊があったとしても、距離を置き続ければ冷めてなくなる。涼也はそう信じていた。
ともだちにシェアしよう!