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妹尾の後をついて関係者入口から劇場入りをすると、ホール特有の独特の匂いに迎えられる。
舞台や大道具の木の匂いやら緞帳の埃っぽい匂いやらが混ざった、舞台に立つ前に必ず嗅ぐ匂い。涼也は身の引き締まる思いでエレベーターが楽屋階に到着するのを無言で待つ。
「思ったより狭いな……」
まだ実際に舞台に立ったわけではないが、建物から受けた印象だけでいえば今までに出演したコンサートの会場の方が大きく感じた。
「アリーナに慣れちゃうとどうしてもそう思うよね」
若干強張った顔の涼也を笑いながら、反対に落ち着き払っている妹尾が同意を示す。
現在の涼也たちの主な仕事は、毎月のCS局での番組収録と雑誌撮影、そして先輩アイドル主催のコンサートでバックダンサーを務めること。そのコンサートは事務所人気的にアリーナ開催が最も多い。
もちろんホールでもドームでもコンサートは開催されるが滅多にないことなので、どちらの会場にも出演経験のある二人の感覚は自然とアリーナ規模のステージに慣れたようだ。
小気味のいいベルの音が、楽屋階に到着したのを知らせる。二人はエレベーターを降りると、すぐには廊下に出ずにドア周りをきょろきょろと見渡して探しものを始めた。
というのも、研修生の楽屋がどう振り分けされるかは公演によって様々で、大抵の場合は楽屋が並ぶエリアの入口に楽屋割一覧が掲示されているのである。
今舞台も例外ではなく、ドア横の壁にコピー用紙が貼られているのを妹尾が見つけ、二人でいっしょになって覗き込んだ。
「今回もBユニで一つの楽屋だ」
一覧表を見る限り、涼也たちはユニットBとして一つの楽屋を用意されているらしい。
研修生は基本ライン関係なく混合されたメンバーで楽屋を使用し、ユニットができてからも変わらなかったのだが、ここ半年くらいはずっとユニット単独で楽屋を使わせてもらっている。
「最近多いよね」
「だな。静かでいいわ」
「そんなこと言って、いつも楽しそうに遊んでる小学生の子たちと別で寂しいんじゃないの?」
「大丈夫。アイツら自分たちの楽屋に引っ張ってくか、こっちに勝手に遊びに来るかするから。――ってことは結局静かじゃないってことなんだけど」
「たしかに。でも反対に空っぽな楽屋とか寝部屋できてるし、どうしてものときはそこ使えばいいから」
「マジ? そんなんあるの知らなかった」
いつも元気いっぱいの後輩研修生たちの顔を思い浮かべる。
男兄弟のいない涼也にとって弟のように懐いてくれる後輩たちは可愛くて仕方がない。口ではうるさいとか面倒とか言いながらもついつい構ってしまう。
静かな部屋の存在を教えてもらったところで何だかんだ使う機会もないんだろうなあと涼也はほのかな苦笑を浮かべ、楽屋割一覧を眺めた。その理由はもちろん、後輩研修生の楽屋を知るためだ。
「ん? 何だコレ」
ふと、一覧表の中に『Qbe』という見慣れない表記があることに気づいた。
一瞬ゲスト出演者かと思うが、外部のタレントにはたとえ社内資料であっても『様』と敬称をつけるのが普通だ。ということは新しいユニットだろうか。
涼也が首を捻っていると、それに気づいた妹尾が説明をしてくれた。
「それ、Cユニの新しい名前だよ。なんか昨日の夜急に決まったんだって」
どうして妹尾がそんなことを知っているのかと質問しかけてやめる。聞かなくてもどうせ、情報源は南だ。
「メンバー固定してユニット名つけて枠空けて、そこにまた新しいユニット作るみたい」
「……へえ」
「ちなみにユニットCの“C”から“Cube”になって、それがいろいろあって表記変わったって聞いたから、俺らもいつか“B”で始まるユニット名つけてもらえるかもね」
弾むような声とはにかんだ顔から、妹尾がいつか来るかもしれないその日に想いを馳せて楽しい気持ちでいるのがよくわかる。
もし最後の言葉だけを移動中の電車で聞かせてくれていたら、きっと涼也も妹尾といっしょになってはしゃいだに違いない。
「……」
でも、残念ながら今の涼也は、楽しい気分にはなれそうもなかった。
直接何かをされたわけでもないのに南という隙間風が入り込んできて、あんなに盛り上がっていた熱を奪っていく。妹尾の夢をも奪ってしまいそうで、返す言葉が見つからない。涼也は口をつぐんだ。
さらにあろうことか、すぐ傍のエレベーターのベルが鳴ったかと思うと開いたドアから南が現れた。
「あ、鈴哉くん! ちょうどいいところに」
「おっ、妹尾――と、えっ、松山?」
「……はよっす」
「ああうん、おはよ」
まさかエレベーターを出てすぐの場所に人が居るとは思っていなかったようで、南は切れ長の目をまん丸にしている。
かと思えばすぐにいつもの余裕綽々の表情になって、相変わらず喰えない人だと涼也は辟易とした。同じくして南による涼也の評価も変わっていないだろう。
「鈴哉くん、ユニットのことおめでとう」
妹尾に関しては、前から南とは親しそうだったけれど、殊更フランクになったように見受けられた。
「おー。メールでも言ってくれたのにわざわざありがとな」
「いえいえ。なんか自分のことみたいに嬉しいからいっぱい言っちゃうんだよね」
「っ、もーほんと妹尾かわいい! 頭撫でちゃる!」
「ちょっ、そういうのいいから……!」
たとえば、前は触られるのも怯えていた風だったのに今は何だか触られ慣れている感じがするところ。
するすると逃げる妹尾の頭を意地でも撫でようとする南と、やだやだ言いながら笑って南の手をかわす妹尾。距離の詰め方が絶妙というべきか、甘ったるい空気にあてられて胃がもたれた気分だ。
涼也はこっそりとため息をつく。と、隠れていたはずなのを見逃さなかった南は妹尾の頭を諦めた手を妹尾の肩に回し、華奢な身体を引き寄せた。
まるで酔っぱらいが素面の人間に絡んでいるような絵面だが、二人とも素面であるうえに妹尾はじゃれつかれているくらいにしか思っていなそうなのに対し、南は完全に確信犯だ。涼也は内心むっとするというよりはげっそりしながら、ポーカーフェイス作りに努める。
「っていうかなに、珍しいじゃん。シンクロメトリー二人で来たんだ」
「っ、シ……!?」
「メールして待ち合わせでもした?」
笑い混じりに発せられた単語に、ポーカーフェイスは思いの外早くに崩された。
シンクロメトリーだなんていう耳慣れない言葉――自分の相方のことをわざわざ自分含めた括りの呼び方で呼んだりしない。当然だ――を聞き、ぎょっとする。
今でもファンレターでは見かけるから生きている言葉であるのは確実だが、静也が人前でエゴサーチをすることもさすがになくなった現在、ユニット外の人間である南が一体どういう経緯で漏れ聞いたのかが気になるところだ。
「……」
もう一つ気になるのは、妹尾が先ほどまできらきらと輝かせていた表情を曇らせたことである。
初めて耳にする言葉に戸惑っているのかと思うが、過去に静也のエゴサーチブームに付き合わされていた妹尾が知らないはずがない。
蔑称のように聞こえて不快になったのかとも考えるが、妹尾の場合は南だろうとファンだろうとはっきりとその旨を伝えるだろうし、南もファンも気分を害していることを知ればそんな呼び方はしなくなるだろう。
そもそも妹尾が呼び方一つで文句を言うような人間だと涼也は思っていない。
残る可能性としては――『シンクロメトリー』という言葉を聞かされた以外に不快になる要素があるとすれば、涼也と二人で劇場入りしたことにツッコミを入れられたことしかない。
――でも妹尾から声かけてきたしなあ……。
声をかければ自然といっしょに行くことになるのがわからないわけではないだろうし、涼也と二人でいることをからかわれて嫌だと思うなら初めから涼也を避けて向かえばよかったのだ。
南は待ち合わせを疑っているが、あれは妹尾に声をかけられて流れでそうなったとしか言いようがない。
起きた出来事をそのまま説明すれば南もからかうのをやめるだろうに、妹尾は否定もせずに無言のまま。暗い表情をしている理由がますますわからなくなる。
「メアドも知らずにどう待ち合わせするんすか。たまたま学校帰りに高校の最寄りで会ったんで」
妹尾が黙っている意図はわからないが、とりあえず南の予想がはずれていることを伝える。
「――え?」
しかし南は涼也が明かした内容よりも違うことが引っかかったらしい。ぴくりと本当にごくわずかのみ眉を動かすと、妹尾をじっと見つめた。
「……妹尾、いつもと違うルートで来たの?」
「うん。今日はちょっと用事があったから……」
「用事、ねえ」
南の視線は淡々として見えるのに、どこか妹尾を詰るような空気を感じる。その証拠に視線を受ける妹尾の顔は少しずつ青ざめてきていた。
南のことをいけ好かない先輩と思っていた涼也でさえ、恐怖に鳥肌が立つ始末だ。生唾を呑むごくりという音が廊下に反響した気がした。
「……松山、ちょっと妹尾借りるわ」
涼也に目もくれず、南が低い声で言う。細い手首を捕まれた妹尾は断罪されたような顔で南を一度見上げ、すぐに俯けた。
「ごめん、涼也先行ってて」
か細い声に覇気はない。涼也は頷くばかりで引き留めることができず、廊下まではいっしょに出てすぐ傍にあったまだ誰もいない『Qbe』の楽屋のドアに消えていく二人をただ見送った。
呆気にとられしばらくは廊下に立ち尽くしていたものの、エレベーター到着のベル音がして涼也は楽屋に向かって廊下を歩き出す。歩を進めるたびに苛立ちが沸々とわいた。
――借りるって何だよ。妹尾は物じゃねえし。
一年前と同じ、また蚊帳の外だった。しかも今回は南に対して怯えて踏み込めなかったという悪化ぶりだ。
――つか何で俺に許可取るみたいな言い方するんだよ。俺に返しにでも来てくれんのか?
あのピリピリとした空間から逃れた今だって、扉の向こうに自分が立ち入ることはできる気がしない。そう思うと、鍵もかからない木製の薄っぺらなドアが越えられない強靭な壁のように感じた。
ユニットBの楽屋のドアの前に立つ。
誰かが着替えている最中にドアを開けるのも憚られてノックをするが、ドアの向こうからの返事は何もない。無人であることがわかっても念入りにこっそりとドアを開けると、楽屋内は真っ暗だった。
明かりをつけて、左右の壁に三つずつ、計六つ並んだ鏡台の奥の畳に腰を下ろす。
煩雑としたコンサート会場ではこの限りではないが、基本的に舞台出演時には期間中に使う鏡台の場所を決めて固定している。自分以外のメンバーが揃わない今、勝手に陣取るのも憚られて、涼也は三畳ほどの共用スペースに腰を落ち着けるしかなかった。
畳の上に寝そべり、天井を見上げる。
ところどころに染みができているのは、ここが戦後すぐに建てられたと謂われる年季の入った劇場だからだろう。近々立て直しや改装されるという噂も出ているが、涼也は染みを見ながら昔この楽屋を使った人はどんな演者だったのかを想像したりするのが好きなので少し惜しい気もする。
ドン、と壁を叩くような音が三度続けて聞こえる。
隣の楽屋は弟のような後輩研修生たちの部屋だ。ふざけていてぶつかりでもしたに違いない。続いて声変り前の高い笑い声がドッと沸き、壁の薄さからして隣の隣まで聞こえそうなほどの騒がしさに涼也は眉間にしわを寄せる。
涼也たちの楽屋は廊下の突き当たりに用意されどれだけ騒いでも大丈夫そうではあるが、それはきっと彼らの面倒を見るようにという部屋割り担当者からのお達しなのだ。あとで叱ってやらねば、と涼也はため息をついた。
しかし、弟分のような後輩研修生たちは涼也の刺々しいオーラを察知してか初めて入る劇場に緊張しているのか、今日に限っては誰も楽屋には押し入ってこなかった。
ぽつぽつとやって来たユニットBメンバーも、あいさつ代わりに一言二言交わし長らく不在の妹尾抜きで鏡台の位置を決めるなり、涼也には特に話しかけては来ない。
時折、涼也に三十分ほど遅れて静也が何か言いたげに涼也を見ては「まだ機嫌悪いなー」とつぶやくだけである。全員、触らぬ神に祟りなしとでも思っているのかもしれない。
整頓好きの涼也は自分用の鏡台に最低限の荷物を定位置にセットするくらいで準備が終わってしまった。
――……暇だな。
全体練習が始まるまでに時間があるが、自主練習をしようにも初めての劇場では練習スペースがどこかわからず、かといっていつもこちらに来ている弟分の部屋にこちらから訪れるのも癪で、仮眠を取ることにする。
――結局、妹尾に冗談で言った静かな楽屋になってるし。
畳に横臥したまま、手持ち無沙汰なのを少しでも紛らわせるべく持ってきた携帯を開く。
新着メール一件。仲の良いクラスメイトの男子から、オフが被ったら遊ぼうと話していた件でオフ日程を問う内容のメールだった。返信モードを起動して覚えている限りのオフの日付を打ち込んでいく。
オフが被ったらと言っても、舞台への出演が決まっている涼也と月に一度のペースでモデルの仕事をしているクラスメイトとではオンとオフの比率が違う。内心社交辞令だと思っていたのでいささか驚いた。
でも、それ以上に驚いたのは、社交辞令だと思っていたにも関わらず律儀に日程を知らせようとしている自分だ。
何事においても、一人で行動することは苦ではない。日常生活であれば、たとえば買い物に行くのは一人の方が効率よく回れる。意見を求めたいときはプロフェッショナルである店員に尋ねればよい。
仕事においては、研修生が一人で行動することはソロ活動をするということ。すなわち、代えがきかない役に大抜擢されたというとても名誉なことなのだ。
――今日一日で何回俺のこと寂しがりやつったよ。
妹尾が笑いながら言っていた言葉を思い出す。
何事においても、一人で行動することは苦ではない。それは事実だ。ただ、苦ではないけれど何かが足りない。
買い物を効率よく回れれば別のことに回す時間ができる。今はまだできないソロ活動ができるようになったとき、自分はその役を必死に全うしようとするだろうし、積んだ経験と技術は自分の為になる。
それでも、効率よく事を運ぶことは楽しいだろうか。ソロ活動をしていて、妹尾とシンメトリーでダンスをするときのような心までもが躍り出すことはあるだろうか。
それを寂しいと言うのかはわからない。
ただ、苦じゃなくても一人を好まないことに気づいてくれている妹尾は、一人の時間を持て余している今このときにいっしょに居てはくれない。
クラスメイトへの返信を終えてしまい、次なる話し相手を求めて開いたアドレス帳をどれだけ探しても、そのメモリーの中にすら妹尾の存在はないのだ。
――同じユニットなのに、シンメトリーなのに、俺は妹尾のメアドを知らないのか。
どうして南はお互いに連絡の取りようもない自分と妹尾が待ち合わせをするなんて疑ったのだろう。
シンメトリーは連絡先くらい知っていて当然なのだろうか。それとも、『シンクロメトリー』だなんて言っていたくらいだから、シンクロしていれば連絡先を知らなくても偶然会えるなんて馬鹿げたことを考えているのだろうか。
――たしかに、メールできるかもしれないってだけでも十分だな。
アドレス帳の『せ』のページを開くたびに目に入ってくる瀬戸の名前。瀬戸を贅沢だと言った妹尾の気持ちが今ならわかる気がした。妹尾があのとき誰のことを想っていたかは知らないが、自分にとってのその相手は妹尾だ。
――もしメアド聞いたら、妹尾はどんな反応すんだか……。
今更だと呆れつつ、寂しがりやだからいつでも連絡して来いと言って教えてくれるかもしれない。
自分が瀬戸にしたみたいに、時間があるときにこちらから連絡するから反対に連絡先を教えろと言ってやんわり断られるかもしれない。
どちらにしても、もしかしたら予想外のパターンで返ってくるかもしれないけれど、妹尾との繋がりが持てるかもしれないという期待だけで涼也の気持ちは高まるのだ。
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