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 少しなら、と許した拘束時間は気づけば十分ほどにもなっていた。学校の最寄り駅のホームの電光掲示に表示された時計を見て涼也は舌打ちをする。  瀬戸のことは嫌いではないのだが、言いたいことや思っていることを隠したいんだか見せたいんだかわからないどっちつかずな感じが苦手だ。  静也みたいにストレートに言ってくれればある程度のことは素直に聞き入れることができるし、反対に自分の気持ちを押し殺していたら奥ゆかしくていじらしくてそれはそれでいいと思える。約一年前に雑誌で答えた好きなタイプは、つまりは後者のような人物のことだ。  ――メール。しないとダメだよな……。  時間があるときにすると答えておいたから、ある程度は忙しさを理由に引き延ばせるとは思うのだが、はたしてそれはいつまで有効なのだろうか。涼也としてはせめて舞台が終わるまでは延ばしておきたい。 「あーもう、面倒くせえなあ……!」  気怠さを晴らすように、両手で思い切り頭を掻いてみる。  電車が行ってしまったばかりなのか不人気な車両の停車位置なのか、周りにあまり人は居ないとはいえ、これでは完全に不審者だ。でも、そう思うとおかしくなってきて幾分かスッキリした。  息をゆっくりと細く長く吸って、ゆっくりと細く長く吐き出して、またゆっくりと細く長く―― 「――涼也?」 「うわっ!?」 「えっ? わっ、」  今度は深呼吸をしているところに突然声をかけられて、瀬戸のときとまったく同じことが起こる。  驚く涼也が飛び退くと、声をかけてきた人物とぶつかる。その人物が倒れそうになって上げた悲鳴――というには低音の驚く声を聞き、反射的に腕を掴んだ。  まさか相手はまた瀬戸なのだろうか。こんな偶然、普通であれば二度とは起こらないものであるが、瀬戸であれば不可能ではない気がする。  涼也が恐る恐る掴んだ腕を辿って視線を上げていくと、そこには妹尾のきょとんとした顔があった。 「涼也、大丈夫?」  こてんと首を傾げ涼也の無事をたしかめる妹尾は、涼也が何も返事ができないでいるのをどう勘違いしたのか、急に慌て始める。 「いきなり声かけたからびっくりしたよね、ほんとごめん!」  眉を垂らして申し訳なさそうな表情を浮かべ懸命に謝る姿に、おどけた様子は一切見られない。  そのことに涼也はほっとするばかりか、昔懐かしい故郷に帰ってきたような気分で心身ともに弛緩させた。 「いや、こっちこそ悪かった。ちょっと驚きすぎだよな」 「そうだね。俺も驚く涼也にびっくりさせられたからそこは否定できないかも」 「おい」  素早いツッコミに妹尾がくすくすと声を立てて笑う。それと手慣れた軽い応酬に、涼也の心は軽くなった。頭を掻いたことは結果的に効果絶大だったようだ。 「ま、冗談言ってられるくらいだから怪我とかはないよな」 「ないよ、そんなの。当たり前じゃん」  すっかり心配することを忘れていた涼也が内心焦りながら冗談めかして伺うと、妹尾はどうしてそんなことをわざわざ聞くのかと怪訝そうな顔をする。  ――これはあれだ、  自己管理できて一人前なんだから侮るなよ、の顔だ。  瀬戸のことがあったからつい大袈裟になってしまったけれど、妹尾は元々自分のあらゆる度量をしっかり把握して自覚できているし、同年代の中では華奢な方でもれっきとした男子だ。心配ご無用、なのである。 「ごめんごめん」 「なんか軽いなあ……別に怒ってるわけじゃないから謝ってもらう必要もないんだけどね」  わずかに膨らんだ頬に詰まっているのは、怒りなのか、拗ねなのか。どちらにせよ不機嫌さを素直に表す妹尾は相変わらず、だ。  ただ、妹尾が『松山くん』から『涼也』に呼び方を変えたあの頃から、妹尾は主に体調面において自己管理を徹底して行うようになった。  どう考えても原因は南に仕事を早退させられかけたことだろう。でも、そこまで自己管理に拘る理由は思い当たらない。  あのとき妹尾を早退させたいという南の頼み事は断ったのは、仕事を続けたがる妹尾が自分の状態を見誤っていないという確信が持てたからだ。自分の限界ギリギリのラインを保ってまで仕事してほしいのとは違う。  具体的なことは言えないが、最近の妹尾はどことなく無理しがちでどこか危うい。  気遣いの言葉をかければこんな風に拗ねてしまうので、陰で心配していることを悟られないようにしなければと、涼也はそっと心に留め置いた。 「そういえば妹尾とこの駅で会うの珍しいな。乗換、違う場所だろ?」  妹尾は自分の家の近所の高校に行っていると聞いている。妹尾の通う高校も今日が終業式だったとは限らないが、だとしてもこの駅を通るのは遠回りになるはずだ。不思議に思い尋ねる。 「あ、うん。今日はちょっと違うルート。用事があったから……」  軽い気持ちでした質問に、すぐに返ってきた返事。まるで答えが用意してあったようにスムーズだったが、最後は言葉を濁し気味で妹尾もどこか答えにくそうにしている。 「ふーん?」  用事が何なのか気にならないでもなかったが、涼也からサッと目を逸らした妹尾がこれ以上は聞かないでほしそうにしているので、深く追及はしないでおく。  不意に思い出した静也の「俺のことは興味ないよねー」という言葉を否定したかったのもあった。静也の用事には興味がないけれど、妹尾のことは――あの妙な言い回しの意図を今になって理解し、内心でため息をつく。 「でも助かったわ。妹尾居てくれたら一人で入らなくて済むじゃん」  一度頭に浮かんだ静也がその後もニヤニヤしながら面倒な絡みをしかけ続け、うんざりした涼也は話題を変えることにした。  涼也の話題転換に、妹尾が安堵の息をつくのが見える。本人としてはこっそりのつもりだろうにまるで隠しきれていないのが妹尾らしくて何ともいえない。涼也は笑いを堪えながら話を続けた。 「別に一人で行けないわけじゃねえけどさ。初めて入る劇場って緊張する」 「ああ、涼也って意外と寂しがりやだもんね」 「うるせえよ。つうか何で“一人”の方に反応すんだよ。普通気にするの“初めて”の方だろ」 「あはは、ごめんごめん。でも寂しがりやもほんとのことでしょ」  すっかり調子を取り戻した妹尾はいたずらが成功した子どもみたいな笑顔を見せる。涼也が名前で呼ばれよくしゃべるようになって気づいたのは、妹尾が案外お調子者だということだ。静也に比べたらはるかに可愛いものではあるが。  すると突然、はっと何かを思い出したように妹尾がきょろきょろし始めた。 「あれ、静也は?」  どうやら静也を探していたらしい。たしかに高校に入学してからはいつもいっしょに現場入りをしているから、別々なのが珍しいのだろう。  思えば高校生になって初めて別行動になった気がする。涼也が変に落ち着かなかないのは、だからなのかもしれない。 「静也はその、ちょっと用事があって遅れるってさ」 「よ、用事……」 「ああ。詳しくは知らねえけど今日終業式だったし、いろいろあんだろ」  ミイラ取りがミイラと言うべきか、墓穴を掘った妹尾はあわあわとして焦っている。  ――オイオイ、さっき『用事』ってワードをせっかくスルーしてやったのに、そんなんじゃ疚しいことがあるって言ってるようなモンだぞ……。  わかりやすすぎる妹尾に今ばかりは呆れつつも、そこに行き着く話題を振ってしまったのは自分だ。涼也は再び会話の舵を取り直すべく、別の話題を探す。  とはいえ、仕事の同僚である妹尾との共通の話題として思いつくのは仕事のことばかりだ。他にあるとしたら、同い年なのだし学校のことくらいだろうか。  ――学校のこと、か。  ふと、学校を出る間際に瀬戸と交わしてしまった約束で悩んでいたのを思い出し、気が重くなる。  本音をいえばこちらから連絡をしたくはないのだが、何とか回避する方法はないだろうか。涼也には連絡先を誤って消してしまったと偽ることくらいしか思いつかない。  ――妹尾に聞いてみるか。  これまでいろんなことの相談相手は静也だったけれど、今や同じ学校の静也に瀬戸のことはちょっと話しづらい。  その点妹尾は学校も違うし、仕事仲間として接している部分がほとんどだから第三者的視点からいいアドバイスをくれるような気がする。何より、口が堅そうで安心だ。 「――あのさ」  一人青ざめていた妹尾に声をかけると、妹尾は何でもないというような表情を下手くそに取り繕って、涼也に向き直る。 「聞きたいことっつうか相談? があんだけど」 「相談? 俺なんかに?」 「いや、妹尾だから話せることっつうか」 「そっか。どうしたの?」  取り繕った表情は一瞬だけ戸惑いを見せた後で真剣な表情へと早変わりした。まっすぐに涼也を見つめる瞳からそれが作り物の顔ではないことが伝わってきて、なんだか嬉しい。  瀬戸にメールアドレスを聞かれて断り切れずメールすると言ってしまったものの気が進まない。  目下の悩みをたどたどしく打ち明けると、若干愚痴っぽくなった話を妹尾は嫌な顔をせずに聞いてくれた。  そして顎に手を当てて考えるポーズをしたかと思うと、すぐにけろりとした顔で言い放った。 「別に舞台終わるまでメールしなくても大丈夫じゃないかな。最終的にメアド教えることになるならいつメール送っても変わらないでしょ」 「じゃあ、もしメールしなかったら?」 「仮にメール送らなくても、こうやって涼也が悩んでる時点で送るつもりはあったわけだし、涼也が嘘ついたことにはならないと思う」 「なるほど……」  涼也は目を瞠る。スパッと竹を切るような痛快な回答は、涼也の悩みをそれにまつわるモヤモヤごと一刀両断してくれた。  妹尾の回答は女子に対して容赦がないように取れるが、それは妹尾が“仕事仲間である涼也のクラスメイトの女子”として認識しているからだ。  これが静也辺りならそれこそ、女の子相手なんだからもっと優しく接するべき今すぐメールを送れとでも言うだかもしれない。静也は瀬戸のことを“同い年の女子”と見なしそうだ。  どちらも正しい意見で、間違ってはいない。結局は自分が瀬戸のことをどう見なして、どうしたいかで対応は変わる。 「悩むならちょっと時間置いてみたら? 忙しくなるのはほんとのことだし」 「そうだな」 「ただ俺は仕事が忙しいことに文句言ってくるような人とはメールしたくない」 「それは言えてる」  本気とも冗談ともつかない言葉に、一気に心が軽くなる。  妹尾の言うとおり、瀬戸の件は一度保留にしよう。舞台が千秋楽を迎えて余裕ができれば、いい方法を思いつくかもしれない。 「話聞いてくれてありがとな。助かった」 「静也あたりには相談しづらい内容だもんね」 「そうそう」  妹尾に相談してよかったと思いながら妹尾に向かって礼を言う。  その自分の顔に自然と笑みが浮かんでいるのに後から気づくが後の祭りだ。照れくさくてもそれが今の本音。表情筋を駆使して真顔に戻ることなく笑顔を形作ったままにする。  しかし妹尾は笑顔の涼也を一瞥するとすぐに目を逸らし、唇をとがらせた。 「っていうかその子贅沢すぎるよ」 「贅沢?」 「だって俺なら最終的にメアドを教えてもらえなくても、メールするよって約束してもらえただけで十分嬉しいもん」  どこか遠くを見つめる妹尾の目は少しだけ潤み、切なげに揺れている。 「それは反対に欲なさすぎな気がするけど」 「そうかなあ」  顔を背けたまま苦く笑い、目線だけを涼也に寄越した。 「でもほんとのことだから。俺にはその子が羨ましい」  言い終わると、妹尾はまたどこか遠くの方へと視線を戻す。  妹尾が見つめた先にあるものは、一体何なのだろう。  アドレスを知りたくても教えてもらえない相手の顔、だろうか。  見つめている涼也までもが切なくなっていると、ちょうど乗る予定だった電車がホームに滑り込んでくる。車両が停車し、降りてくる人を待ってから、二人は続いて電車に乗り込んだ。  平日の昼間ではあるが、電車内はそこそこに混雑している。制服を着た学生が多い辺り、涼也の学校同様に終業式の学校が多いのだろう。  涼也と妹尾は埋まっている七人掛けの座席の前に立ち並んだ。  都心の駅を多く通る環状線から見える景色には、たくさんの広告看板が溢れている。  企業の広告、ゲームの広告、新曲の広告、雑誌の広告。当然、事務所の先輩アイドルが映っているものも数多くあって、目につくといつかは自分もあんな風に載りたいと思ったりしている。  そんな中、顔が載っているわけではないが、涼也も妹尾も名前を載せてもらっている看板があった。もうすぐ始まる舞台の広告看板である。 「わ、ほんとに看板あるんだね。ちゃんと見るのは初めてだ」  通学経路内の劇場の近所でもないビルになぜか張られた広告は、静也が最初に見つけたものだ。  それまでつり革を掴んでうつらうつらしていたくせに、ちゃっかり携帯で撮っていた写真画像を『眠かったのにこれで目覚めたわ!』なんてメッセージとともにユニットB全員にメールを一斉送信していたのをよく覚えている。 「名前だけでも嬉しいよな。通学中に見るとちょっと恥ずかしいけど」 「そうなの? 気が引き締まったりしない?」 「いや、一人だったらそうだけど静也がやたらはしゃぐから逆に冷静になるんだわ」 「あー……なんか想像つくかも」  それでも静也が居てくれればいろいろと心強いし、結局はいっしょに行動してしまうのだが。  電車内でのやりとりを思ってか、そんな涼也の心を見透かしてか、妹尾は口元に手を当てて小さく笑った。  ばつが悪くなった涼也は頬を掻き、妹尾から意識が逃れるようにドアの上に貼られた路線図を眺める。  劇場の最寄り駅まではあと三駅ほど。まだ立ったことのない舞台に初めて立つ心づもりをしておくことにした。 「妹尾はあの劇場、見学で行ったことあるんだっけ」  すぐ横に劇場に詳しそうな相手が居ることを思い出し、情報を聞き出せないかと問いかける。  妹尾は涼也の質問の意図がわかり納得したように頷くが、すぐに渋い顔をした。 「行ったことは何度かあるから道順はわかってるけど、行っても楽屋裏通るくらいで基本居るのは客席だから舞台周りのことはほとんど知らないよ?」 「まあそうだよな」  これがもし逆の立場――後輩の舞台を先輩が観に来たのであれば舞台に立つこともあるだろうが、研修生の自分たちにはまったく縁のない話だ。 「そういや客としてなら一回だけ行ったことあったわ。ダンス教室入ってすぐくらいに姉ちゃんに連れられてったんだけど、でも何の舞台だかはっきり覚えてないんだよな」  当てが外れたとがっくりするのと同時に、朧げに劇場の記憶があったことを思い出す。  元々ダンス教室自体も興味がないのにミーハーな姉に言いくるめられて入ったのだが、どうせなら目標があった方がいいだろうと――もちろんその“目標”があったからこそダンスを習わされることになったのだが――半ば無理やり連れて行かれたのだ。 「俺も母さんに付き添いさせられたことあるよ。Kingが座長の舞台にQueenが見学来てて、」 「あ、たぶん俺もそれ。同じ回のやつ。Queenショータイムでステージ上がったよな?」 「そうそう! なんでか衣装が用意されてるしこれは踊るしかないじゃないですか、みたいなことMCで言ってたはず!」 「でも結局キレッキレのダンス踊っててKingにめっちゃ笑われてた!」 「ンンッ、」  向かいに腰を下ろしていたサラリーマンにわざとらしい咳ばらいをされ、ようやく興奮して声が大きくなっていることに気づいた二人。  お互いの顔を指し合っていた人差し指をそろそろと下ろし、肩をすくめる。妹尾は見るからに朱い顔をしているし、涼也も熱を持つあまり顔から火を噴きそうだった。  当時の二人は四、五歳とちょうど物心がつく頃で記憶が曖昧ではあるが、衝撃的な出来事に関してだけはわりに鮮明に覚えているらしい。  そして妹尾の持つ曖昧な記憶と自分のものとが併さったことで、あのときの感情までもが徐々に蘇ってくる。 「俺さ、あのステージを観たからこの事務所に入ろうと思ったんだよな」  薄目でちらちらと様子を窺うサラリーマンを気にして、小声で話す。  姉の思惑どおりにいくのも癪だったが、舞台のエンディングでQueenがステージに上がりKingと二人で踊る姿を観て以来、その姿は涼也の目標であり憧れになった。  スポットライトが二人だけを照らす舞台。スタンスの大小もテンポも関係ない息の合ったダンス。おおよそ二人にしか着こなせない洗練された衣装。キラキラと輝く飛び散る汗と愉しげに笑う表情。  自分もあんな舞台に立ちたい。あんな風に踊りたい。あんな気持ちが熱くなる、熱くさせることがしたい。あんな――……。  気乗りのしないダンス教室に積極的に通うようになって、力と自信がついたら自分で履歴書を送って、呼ばれたオーディションに合格して。  現在に至るまでのことを振り返ると、これから向かう劇場は人生のターニングポイントであり、はじまりの場所でもある大事な舞台のように思えた。 「――うん。俺も」  わずかばかりの間をおいて、妹尾も小声で返す。  同意を示す言葉はきっと事務所に入った理由を指しているのだろうけれど、目を細めてまぶしそうに笑う妹尾の顔を見ていたら、涼也の仕事への情熱を指しているような気もする。  でも、どちらを指していても構わない。妹尾が――自分のシンメトリーが、同じ考えで舞台に立っていることはよくわかった。  気づけば電車はあと三駅あった区間を走り終えそうになっている。もうすぐ劇場の最寄り駅に到着するというアナウンスを聞いた乗客の何人かは急いでいていち早く降りたいのか、ドアの前に移動していた。 「降りなきゃね」 「ん」  念のために降りることを知らせてくれた妹尾に、わかっていると頷いて返す。  窓の向こうに人がずらりと並ぶホームが見えた。さらに奥の方に目を凝らせば、目的地の劇場が見えそうだ。 「今日、頑張ろうな」 「今日、頑張ろうね」  見事に重なった言葉。  顔を見合わせるとそのタイミングも同じで、二人して噴き出した。――もちろん、サラリーマンに睨まれないよう小さく。  ひそひそと声を落として交わす会話は恋人同士の睦言みたいで、何だかくすぐったかった。

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