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2.
シャワシャワと鳴く蝉の声がうるさい。
真昼に解放される終業式なんかだと特別耳につく。
蒸した廊下を歩きながら、涼也は中庭の木に留まる蝉を窓越しに睨んだ。
――まあ、うるさいのは蝉だけじゃないんだけどな……。
窓とは逆側に目を向けると、明日から始まる長い休暇に思いを馳せてはしゃぐ同級生たちでいっぱいの教室が映る。
高校一年生の自分たちは大学受験するわけでもあるまいし、それが悪いことだとは思わない。ただ、仮にも芸能コースなのだから何か仕事をすればいいのに、とお節介なことは考える。夏は良くも悪くも成長の季節だ。
とはいえ約一か月間に及ぶ舞台への出演が決まっている涼也にあれこれ言われたくはないだろう。実際に誰かに夏のイベントの誘いを受けたわけでもないし、完全に日和見の姿勢だ。
「あ、涼也!」
眺めていた教室のドアから顔を覗かせたのは、今年度から同じ学校の同級生となった静也である。
中学までは学区が違っていたがせっかくだから芸能コースがある同じ学校へ行かないかと高校受験の際に誘われ、志望校が定まらなかった涼也にとっては渡りに船だったので二つ返事で応じた。それが吉と出るか凶と出るかは見極めている最中だ。
「お前メール見てないだろ」
「ああうん、見てない」
「いや、そこは見てなくてスマンって謝るとこな」
本人の目の前で携帯を取り出すのも面倒で、静也に呆れたような薄目で見られても気にせず直接用件を尋ねる。
「何だよ」
「俺ちょっと用事できたから先行っててほしいなーってい、」
「わかった」
「あ、おい、ちょっと待って! 話を最後まで聞いて!」
静也とは今日から場所が劇場に移る舞台稽古にいっしょに行こうと約束していたが、急用ができたなら仕方がない。
行ったことがないわけではないから本人の希望通り先に向かおうとすると、静也はわざわざ教室から飛び出して歩き出しかけた涼也の肩を掴んだ。
「何で遅れるかとか気になんねーの?」
「別に。興味ないし」
「あーまあねー俺のことは興味ないよねー」
「あ? 何だそりゃ。よくわかんねえけど先行ってるぞ」
含みのある言葉が若干引っかかったが静也もそれ以上しつこく食い下がってはこなかったので、涼也はそこで切り上げて劇場に向かうことにする。
静也の姿が見えなくなったところまで来て、ようやくズボンの尻ポケットから携帯を取り出した。
「……アイツ、肝心なこと言い忘れてね?」
静也からの新着メールを開くと、さっき聞いた通り急用で少しだけ遅れると書いてある。実際に言われたことと違うのは、その旨を舞台のチームに伝えてほしいという一文がくっついていることだ。
――ったく。くだらないこと言って忘れるとかどんだけだよ。
余計なことにまで気が回るくせ、大事なことまでつい忘れがちなのが静也だ。
具体的にどれくらい遅れるのかは知らないが、メールに載っていない辺り未定ということなのだろう。メールをそのまま読み上げておいてやるか、と涼也は苦笑を浮かべて元の場所に携帯をしまった。
下駄箱に着くと、うるさかった蝉の声が止んでほっとする。
止まり木のない玄関周りは静かで当然なのだが、たまにどこからともなく飛んできて床に落ちた蝉が鳴くと、狭い玄関ホールにその声が反響してとてつもなくうるさいのだ。
七月に入りすでに三度も経験して警戒心が強まっている涼也は居ないことを確認したにも関わらず、なぜか抜き足で歩いた。
「――松山くん」
「うわっ!?」
「えっ? キャッ」
息をひそめているところに突然声をかけられ驚く涼也が飛び退くと、声をかけてきた人物とぶつかる。その人物が倒れそうになって上げた悲鳴を聞き、反射的に腕を掴んだ。
よく見ると、声をかけてきた人物は同じクラスの女子である瀬戸麻友子 だった。
「悪い」
「ううん、私もいきなり声をかけたから……びっくりさせてごめんね」
眉を垂らして申し訳なさそうな表情を作る瀬戸。
一瞬、瀬戸の表情に見覚えがある気がしたが、瀬戸がおどけて小さく舌を出したのを見て思い過ごしだとその考えを追いやった。
「いや、俺はいいんだけど。瀬戸さんは平気?」
「うん。松山くんがかばってくれたから大丈夫だよ」
「そっか」
掴んだ腕を離し、涼也はほっと胸を撫で下ろす。
お互い未成年だとはいえ、男である涼也が勢いよくぶつかれば瀬戸のような華奢な女子は吹っ飛びかねない。それに、クラスメイトということは瀬戸も芸能人だということだ。
もし傷つけでもしていたら、と思うとぞっとする。何もなくて本当によかった。
「松山くんはこれから仕事?」
「ああうん。これから稽古場行くところ」
「そっか。じゃあ、ちょっとだけ時間もらえたりできないよね……?」
できないよね、と涼也を慮るような言葉をと言いながらチラチラと窺い見る視線に違和感を覚えつつも何となく無下にはできなくて。涼也は自分の下駄箱に伸ばす手を止めてこっそりため息をつく。
「少しならいいけど。何?」
聞いてやるから手短にしろと言外に含ませているにも関わらず、瀬戸はそれでも嬉しいらしい。ぱっと表情を輝かせると涼也に押し迫り、何かを突き付けるように差し出した。
「メアド、教えてください!」
「……」
「あ、もちろんダメならいいんだけど……」
よければお願いします、と続いただろう声は尻すぼみになっていき、最後の方は聞き取れた危ういほど。それでも突き付けられた何か――携帯はそのままで、再び違和感を覚える。
うっかり本人に向かって吐き出しそうになったため息を何とか飲み込み、涼也は渋々尻ポケットから携帯を取り出した。
「……赤外線使える?」
「つ、使える!」
「なら赤外線でそっちの送ってもらっていい? 俺のはあとで時間あるときにメールするから」
はいいいえの返事すら言葉にならないのか、瀬戸はこくこくと首を縦に振って答える。
先ほどの尻すぼみになる感じといい、表情の作り方といい、一度は追いやったものの瀬戸の言動にはやはりどこか見覚えがあった。――その直後、なぜか必ず違和感を覚える羽目にもなるのだけれど。
あまり関わりたくないと思いつつもつい許してしまうのは、だからだろうか。
こちらからコンタクトを取らないと連絡し合えない落とし穴のある妥協案を嬉々として受け入れた瀬戸が携帯を操作するのをぼんやりと眺めながら涼也は考える。
細々とした携帯のボタンを押す指もどこか見覚えがあって――思い出せない誰かの指に、似ている。
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