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 静也への宣言どおりに男子トイレで用を足して廊下に出ると、ユニットの他メンバーである島内出雲(しまうちいずも)とすれ違った。 「あ、涼也おはよー」 「……はよ」 「なんかテンション低いなあ。突然社長が楽屋に来てユニット変われって言われでもした?」 「それはシマの経験談だろ。変わってないからこそ静也の絡みに疲れただけ」 「あーなるほど。エゴサブーム継続してるもんね……」  衣装を着ているところから察するに、すでに楽屋で静也によるエゴ他人サーチブームの洗礼を受けて来たのだろうか。  現在静也とシンメトリーを組んでいる島内はきっと涼也以上にあれやこれやと言われたに違いない。ご愁傷さまです、と言いながら涼也は遠い目をする島内に向かって合掌した。  ちなみに研修生で編成されたユニットは全部で三つあり、いずれのユニットも名前がついていないためユニットA、ユニットB、ユニットCといった具合に呼ばれている。涼也たちの所属はユニットBだ。  ユニットBは島内以外に壱岐大(いきまさる)能代雅貴(のしろまさき)を加えた計六名で構成されているが、メンバーは流動的で、現在の六名に落ち着くまでに三度メンバーの入れ替えがあった。  そんな中で、涼也と静也と妹尾の三人は結成当初から変わらない。元祖メンバーというか、お互いがユニットの軸のような存在だ。 「楽屋行くの気が重いなあ。行くけど」 「ああうん。たぶんシマの帰りを首を長くして待ってるだろうから行ってやって」 「そりゃあ行くけど! ――って、涼也は行かないの?」  事情を知らない島内は、トイレから出てきた涼也に一人で戻るよう言われたのを疑問に感じたらしい。涼也はどこから説明したものかと考えた末、簡潔に目的だけを伝えることにする。 「俺は――ちょっと探しモン」 「ふうん、そっか。じゃあまたあとでね」 「おう」  二人して軽く手を挙げると、島内は楽屋のある方向へ、涼也は楽屋とは反対方向へとそれぞれ進んだ。  島内に背を向けてから、『探しモン』について深く追及されなくてよかった、と安堵する。  おかしなことは何一つないのに、なぜか妹尾を探していると言えなかったのだ。  わりとおっとりした性格が合うのか、島内と妹尾が話しているところを最近よく見かける。先ほど見た雑誌でも名前を挙げていたくらいだから、仲が良いのは間違いない。  きっと探していることを島内に伝えればいっしょに探してくれるか、そうでなくても居る確率が高い場所を教えてくれたはずだ。  ――でも、自分で見つけなきゃ意味ない気がするっつうか。  ヒントをもらうことは決して悪いことではないのだろうが、まずはノーヒントでどこまで行けるのかを試してみたかった。  それに、ただ妹尾を見つければいいだけなら妹尾探しを命じた静也にも手伝ってもらえばいい。  退屈と一人が嫌いな静也がわざわざ楽屋で留守番してくれているということは、自分ひとりで探すことに何か意味がある。 「いやでも、さすがにこれは無謀か……?」  ずらりと続く長い廊下。そのどの辺りに妹尾が居るのか見当もつかず、途方に暮れて足を止める。  お互いにまだユニットに属して居なかった頃は、シンメトリーなだけあって行動がまったく同じだったので妹尾がどこに居るか気にするように心がけていた。  距離を置くようになってから――いや、それよりも前の時点で、自分は妹尾の居場所を把握するようなことはしていなかった気がする。たとえどこに居るのかを知らなくても、いつも妹尾は居たから。  ――何だソレ。ダメだろ。  自分の発想に自分でツッコミを入れ、涼也はため息をつく。  距離を置く以前に、自分は妹尾とシンメトリーであるという事実に胡坐をかき過ぎていた。  いくら踊っているときに自分でも不思議なほど息が合うのは、当然のことではない。お互いに持つダンスの技術がある程度高いこと、踊る曲に対しての解釈が重なっていること。他にもありそうだが、息を揃えるための要素は自然発生するものではないのだ。  では、今まで当然だと思っていたことを、当然だと思っていたのはなぜか。  ――もしかして、妹尾の方から歩み寄ってくれてた……?  たとえば自分たちの出番のときに涼也が探さなくても妹尾がすぐ傍にいたのは、呼ばれて涼也を待たせないよう離れずにくっついていてくれたからなのではないか。  踊るときだって、あれほど手先足先の角度や動かすタイミングを間に何人か挟まっても揃えていられたのは、涼也に意見を求めたりお互いの癖を把握していたりしたからなのではないか。  静也が送り出すときに言いたかったことをやっと理解した。  自分は大馬鹿者だ。妹尾の努力の上に成り立っていた関係を自分の不埒な欲でぶち壊しにしたくせに踊るときだけは対でいたいだなんて、自分勝手もいいところだ。 「ああもう……!」  気づけば、どこへ向かうでもなく止まっていた涼也の足は動き出していた。  妹尾に会いたい、妹尾に会いに行きたい。  その一心で妹尾を見落とさないよう程度の小走りをする。足取りはとても軽い。  変に距離を開けてしまって、かえって負担になってしまっていたのではないだろうか。何かが振り切れた今の涼也には自分がしてきたこととは反対の考えすら浮かぶようになっていた。  今まで妹尾が自分の傍にいてくれた分のお返しをしよう。傍にいるのは恥ずかしいから、姿が見えないときは全力で探すことをしよう。  今はただ、自分との関係性を繋ぎ続けるためにずっと努力をしてくれていた妹尾が――しかも、そんな大切なことに気づかない自分を見捨てずにいてくれた妹尾が――いじらしくてたまらなかった。  島内にごまかすために言った『探しモン』は、もしかしたらこのことだったのかもしれない。何だか、とてもいいものを見つけたような気がする。  背中を押してくれた静也には感謝をしなければ。本人を目の前にしたら言えないだろうから、浮き立つ気持ちでいっぱいの心の中で礼をした。  しかし、そんな上機嫌の気持ちごとストッパーをかけるみたいに、涼也の目の前に大きな鉄壁が飛び出てくる。  ぶつかる寸前で急停止すると、リノリウムの廊下と擦れた靴底のゴムがキュッと甲高い摩擦音を上げた。 「わっ、松山くん!?」  鉄壁、改めドアの向こうから出てきたのは妹尾だった。こぼれてしまいそうなほどに黒目がちな瞳を大きく見開き驚いている。  同じく驚いた涼也も呆然として無言でその場に固まった。  妹尾に言いたいことは山ほどあったはずなのに、予告もなく姿を現されると何も言えない。予告があっても同じ結果のような気もするが、出鼻を挫かれたような感じがして心がささくれだつ。  すると、自分たちより頭一つ分大きな影が妹尾の背後からひょこりと現れた。 「お、松山じゃん。おつかれー」 「っす」  間延びした声を出し気さくな感じで軽く手を上げたのは、ユニットCに所属する先輩研修生で、学年的にも三つ年上の南だった。  いくら気さくな先輩といえども馴れ馴れしく手を上げ返すわけにもいかないので、涼也は南に軽く頭を下げることであいさつに応じる。あくまで後輩の姿勢を崩さない涼也に、南も良き先輩らしい笑みを崩さぬまま後ろ頭を掻いた。 「どしたの?」 「えっと……」  南に事情を説明しようとして、そうじゃないだろ、とかぶりを振る。  涼也が妹尾を探していたのはリハーサルが迫っていることの伝達のためではなく妹尾をリハーサルに呼んでいっしょに向かうためだ。南に向けていた視線を妹尾にスライドする。 「もうすぐリハだから呼びに来たんだけど」  いろいろ気づいたことがあるからといって急に態度を改められるわけではない。  相変わらずぼそぼそとぶっきらぼうに話す涼也だったが、妹尾はどうしてかそんな涼也に顔を綻ばせた。 「あ、うん。いま――」 「ちょっと待って」  おそらくいま行くと言いかけたであろう妹尾の肩を掴んで引き止め、南が遮る。 「松山、今日妹尾体調悪いみたいだから。妹尾早退するって伝えてもらっていいかな?」  ごめんねと涼也を慮る言葉を付け加えられるが、声をかけた先の妹尾ではない人物から入れられた横槍に涼也はむっとした。  言われてみれば妹尾の両頬は赤らんでいる。呼吸も若干小刻みで荒い気がする。気づかない涼也と何も言わずに隠そうとする妹尾に焦れて、南はわざわざ二人の間に立ったのかもしれない。  ――それにしたって、ずいぶんと勝手な物言いだよな。  むっとしていただけのはずが、沸々と腸が煮立ってくる。  二人がどういう関係で仲が良いのかは知らない。雑誌のインタビュー回答には南の名前は載っていなかった。ただ、体調の悪い妹尾に代わって本人以上に気遣うくらいには親密なのだろうと予想はつく。  もしかしたら自分より妹尾と深い関係を築いているかもしれない。そんな南に苛ついてしまうのは、嫉妬だとかそんなことが理由ではなかった。  肝心の妹尾が納得した顔をしていないのだ。  何か言いたげに南を見ている妹尾の顔には『自分は仕事ができる、したい』と書いてある。  少し体調が悪い程度で仕事を休むはずがないという自分の勝手な希望も併さっている気もする。  それは、周りの迷惑も顧みずに無理をするということではなく、自分の限界を自覚しているからこそリタイアのタイミングは自分で決めるということ。涼也の知っている妹尾は、他人に黙って守られているようなタマではない。 「嫌です」  考える前に断り文句が涼也の口を飛び出た。 「なんで? 見てわかるよね?」 「見てわかるから嫌だって言ってんです。妹尾本人に言われたならともかく」  あなたの言うことは聞けないし聞かない。  自分の気持ちを優先して衝動的に動いている時点で涼也も十分勝手なことを言っている。ただ、南を睨みつける傍らで盗み見た妹尾は涼也の言葉にほっとしているように見えた。  あいさつのときには後輩としての域を出ないでいた涼也に盾突かれ、余裕の表情を浮かべ続けていた南は面食らう。そして涼也に反論しかけたその袖を、妹尾が微かに引いた。 「鈴哉くん、俺は大丈夫だから」  火照った顔で笑う妹尾。笑みが弱々しく見えなくもないけれど、眼差しから伝わる仕事をしたいという意志は芯が通りまっすぐだ。 「でも妹尾、」  まったく折れる様子のない二人に困惑した南は、戸惑いがちに妹尾の耳元に自分の顔を寄せる。涼也を一瞥し、さらに空いた方の手を口元に添えた。よっぽど聞かれたくない話なのだろうか。 「さっきまであんなに――」  ささやく声は話したかどうかもわからないところほど小さい。  何とか話の端でもいいから聞き取れないかと耳を澄ませると、代わりに妹尾の聞いたこともないような大きな声が耳に入ってきた。 「鈴哉くん!」  声を張り上げた妹尾は近くにある顔を振り払うよう勢いで南を振り返る。  こちらを向いているわけではないのに、妹尾が南をきつい目つきで見つめているのがわかる。それほどに『それ以上は言うな』という無言の圧力が凄い。  普段のおっとりした雰囲気からは想像もつかない剣幕で食って掛かる妹尾に、すっかり蚊帳の外の涼也がなぜか呆然とする。一方の南は想定内の反応だったのか、軽く息をつくだけに留めた。そのこなれた感じが鼻につく。 「わかったよ、俺の負け。降参」  妹尾から離した両手と片眉を上げてややニヒルに笑いながら、わざとおどけて話す南。  きっと悪くした雰囲気を良くするための術なのだろう、というのは経験則でわかる。そうやってサラッとフォローしちゃうところも鼻につくんだよな、と幼馴染を思い出しながら涼也は一人むかついた。 「でも、無理はしないって約束して?」 「それは……うん。絶対に無理はしない」  怒らせていた細い肩がすとんと落ちる。安堵で妹尾の身体から力みが取れたのが背中側から見ている涼也にもわかった。  妹尾に合わせてほっとする涼也だったがそれも束の間、またすぐに緊張することとなった。  南が妹尾の小ぶりな頭を撫でたのだ。大事そうに、やさしく色素の薄い髪をすべらせる大きな手。妹尾も嫌がらず慣れたように頭を差し出してその手を甘受している。涼也は再び呆然とした。  仲の良い先輩後輩同士というには空気が甘く感じるのは、妹尾を見つめる南のまなざしがやわらかいからだろう。  涼也が初めに思ったよりも二人の仲が親密なのはよくわかった。お互いに信頼し合っていることも。  ただ、南が妹尾に向ける気持ちはその域を超えているような気がする。たとえば――恋人に向けるものだとか。  ――まさか……  とある考えに思い至ったところで南と目が合う。  涼也の存在をたった今思い出したというようにきょとんとした顔を見せられても動じないように努めていると、南はフッと涼也を挑発するように笑んだ。そして。 「!?」  撫でていた手で妹尾の頭を自分の胸元に抱き寄せた。 「ちょっ、鈴哉くん……!?」  訳のわかっていない妹尾が南の腕の中でもがく。  その様子がかわいそうに見えたからなのか、単に自分が嫌だと思ったからなのか。涼也は南の胸を押し返そうとする妹尾の手首を掴み、自分の方へと引き寄せた。  南から引き離しただけのつもりが、妹尾の身体は勢い余って涼也の胸に飛び込んでくる。 「っ」 「わ、」  南の腕に思いの外拘束力がなかっただけにしては勢いが足りなかったはずなのだが、南が妹尾の背中を押しでもしたのだろうか。だとすると先ほど思いついた『まさか』は自分の杞憂なのか。  混乱しながらに抱き留めた妹尾は、自分の腕の中でがちがちに身を固くして恥ずかしいのをやり過ごそうとしているようだった。  肌に触れて申し訳ないやら自分のことは拒まれなくて嬉しいやら――いい匂いがするやら、が脳内で交錯し、涼也はさらなる混乱に陥る。甘い匂いは特にくらくらと眩暈を起こさせた。 「松山。妹尾のこと頼んだよ」  混乱の発端である南は、それは愉しそうに笑って涼也たちを送り出そうと声をかけてきた。これから二人はリハーサルに行かなければならないのだ。  気づけば最初から最後まで完全に南のペースだった。他人のコントロールが巧いなんて、本当にむかつく男である。 「言われなくても」  妹尾の手首をもう一度掴み直し、妹尾を連れ立ってリハーサル室のある方向へと歩を進める。  頼もしいはずの台詞は涼也のむかつく気持ちが反映したのか、捨て台詞のような色がついてしまった。見送る南はやれやれと肩をすくめたが、なおも愉しげに笑っていたような気がする。 「身体。大丈夫なのかよ」 「あ、うん」  廊下を急ぎ足で歩きながら問うと、繋いだままの妹尾の手がびくりと跳ねた。  最近ではあいさつすらまともにして来なかった涼也に突然、しかも短時間で一気に話しかけられて驚いたのかもしれない。その証拠に、涼也の問いに答える妹尾の声は戸惑いがちだ。 「大丈夫だよ、熱とかもないし。鈴哉くんが大袈裟なだけ」 「ならいいけど」  熱はないと言うわりに、掴んでいる妹尾の手首は熱かった。  自分が熱くなっているからそう感じるだけなのかもしれない。手首を掴む手を緩め、細い手首を辿り、妹尾の指先を握り直してみる。  ――熱っ……。  やっぱり妹尾も自分同様に指先まで熱くなっていた。  そういえば、こうして妹尾の肌に触れるのは初めてのことだ。  妹尾のことを強く意識して欲情したあの日でさえも妹尾の肌には触れなかった。でも妹尾の肌にいま、触れている。自分の指が強く脈打っていることに気づく。そう思うと、触れた指先が心臓になり替わったように強く脈打った。  脈打つ鼓動の速さが伝わってしまいそうで、小枝のようなか細く綺麗な指が折れてしまいそうで、――なめらかな肌に触れるなんて初めてのことで。繋ぐ手の力加減がわからず、どぎまぎする。 「南くんと仲良いんだな」  気を紛らわせるために軽く話題を振ると、先ほどはびくりと跳ねた妹尾の手は、今度は跳ねなかった。 「うーん、どうだろ……仲良しってのも違う気がするけど。まあ良いんじゃないかな」  自身のことなのに、なんとも曖昧な返事だ。  妙な回答だと涼也は一瞬思うが、すぐにそれが覚えのあるフレーズであることに気づいた。 「……雑誌には特に書いてなかったけど」 「えっと、この間の撮影したやつ?」 「うん」 「そうなんだ。今のとまったく同じことをしゃべったのにな……」  その返答を聞いて、少なくとも本日発売分についてはまだ見ていないと推測してほっとする。  妹尾が自分の載った雑誌を逐一チェックするタイプなのかは知らないが、もしすでに確認していたとしたら自分の発言はただのインタビュー回答へのダメ出し――なんで南とのことを話さなかったのかと詰るような感じの――になっていた。静也ではあるまいし、そんなことは言いたくない。 「ライターさんがカットしちゃったとか?」  不思議がる妹尾に対し、涼也には思い当たる節があった。 「いや、たぶんカットはしてないと思う」  誌面には、正確にいえば何も書いていなかったわけではない。  覚えのあるフレーズの『仲が良いのとはちょっと違う』というのは載っていた。ただ、その後に続く人物が南ではなく涼也になっていただけだ。  では、なぜ間違われてしまったのか。答えを想像するのは実に簡単だ。  ――鈴哉くんって呼んでたな。  南鈴哉(みなみすずや)は、奇しくも涼也と名前が同じなのである。  大方、ライターが妹尾の語る『すずや』を涼也と勘違いした、といったところだろうか。たしかに普段行動をともにしているわけではない人間からしたら、先輩で別ユニット所属の南より同期で同胞でもある涼也の方が結びつきやすそうだ。 「つまり仲が良いのとちょっと違うってのが松山くんとして書かれちゃったってこと?」  涼也の予想を聞き終えた妹尾は自分の解釈が合っているのかたしかめるように涼也に聞き返す。特に認識を誤っている箇所はない。涼也は肯いた。 「どうしよう……」  声を揺らした妹尾が無意識だろうか、繋いでいる涼也の手をわずかながらに力を込めて握る。  様子を窺おうと横目だけで振り返ると、妹尾は何やら複雑な表情を浮かべていた。不安に思うことがあるような、失敗したと後悔しているような。何がそうさせているのかはわからないけれど。  もしかしたらいっしょにいるときに、雑誌のインタビューで名前出したよ、なんて話を南としていたのかもしれない。  涼也と接しているときは妹尾とは親密で妹尾をすべて理解しているといった感じで余裕綽々だった南が、きっとメディア上でわざわざ自分を挙げてもらえたら嬉しいはずだ。  反面、肩書だけでいえば南よりも近しい自分に対しては何にもないのかと落ち込むのだが、涼也としては妹尾が落ち込んでいる方がよっぽど堪える。 「大丈夫じゃねえの」 「ほんと? 怒ってない?」 「そりゃそうだろ」 「よ、よかった……」  もう一度横目だけで妹尾を振り返る。  南の気持ちを憶測で代弁するのもどうかと思ったが、相当気を揉んでいたのか、南本人ではない涼也の言葉でも妹尾は安心できたようだった。  思いつめていた表情が綻ぶのを見て、涼也も少しだけ表情を緩める。ところが、妹尾は涼也が想像したのとは違うことを危惧していたらしい。 「俺、松山くんの名前普通に出しちゃったから、よかったのかなって撮影のときからずっと思ってて」 「は?」  言われたことの意味を即座に理解できず、思わず足を止める。  横目だけではなく身体ごと妹尾を振り返ると、妹尾は綻ばせたばかりの表情を再び泣きそうに歪めた。 「やっぱり嫌だったよね。普通に載るならまだ許せても変な前置き付きで名前出されて、松山くんもっと気分悪くしたよね、本当にごめん!」 「あ、いや……」  話が見えないままでいるところに謝られ、涼也は空いた手で頬を掻く。  整理するとつまり、妹尾はインタビューで南の話とは別に、普通に仲の良い相手として涼也の名前を挙げてくれていた。だからこそ“すずや=涼也”と結びつきやすくなり、ライターがエピソードを取り違えてしまったのではないか、ということだ。――記事に関しては。  妹尾が申し訳ないと言っているのは、仲の良い人物として涼也の名前を挙げたことだ。  ――なんでお前に仲良いって言われたら俺が怒ると思うんだよ。  たしかに変な前置きのせいで一部のファンは要らぬ推測をして騒いでいるようだけれど、名前を出されたこと自体は嫌ではない。  心外なのは、自分が親しく感じていることを知ったらこの人は嫌がるかもしれない、と妹尾に思われていることだった。  自分は名前を出したのにどうして自分の名前は出してくれないのかと妹尾が怒るならわかる。ファンのいう『一方通行』の場合、恥をかくのは好意を伝えた“勘違いしてしまった”側だからだ。  妹尾は自分が恥をかくことよりも“勘違いさせてしまった”涼也が怒っていないかをやけに心配している。嫌な思いをしたのは妹尾の方だろうに、涼也を詰ればいいのに、一体どうして。 「妹尾さ、俺のこと怖いの?」  涼也に疎まれることを恐れる妹尾の言動は、涼也自体を恐れているように思えた。一度息をついてから、怖がらせないようできるだけやさしいトーンで問いかける。  意外にも妹尾は間を置くことなく首を横に振った。  それも、ブンブンという音が聞こえそうなほど勢いよく。 「……」  真面目な話を振ったのは自分なのにぽかんと口を開けた間抜けな顔をして、涼也は妹尾を見つめた。  勢いよく首を振りすぎたせいで乱れた色素の薄い髪。顔に張り付いて鬱陶しそうなのを直すことなく妹尾も涼也をまっすぐに見つめている。涼也が怖いなんてあり得ない、と言いたげに。  どこか大人びた感じで踊る姿以外はほとんど知らない妹尾がこんなにわかりやすく、何というか、子どもっぽい反応をするなんて。耐え切れず、涼也は噴き出した。 「おまっ、どんだけ必死だよ……ククッ」 「だってほんとに怖くないから。……そんなに笑わなくても」  なかなか笑いが止まらない涼也に今度は眉を垂らしながらも頬を膨らませ、困りながらもいじけているのを顔いっぱいに表現する。そんな妹尾の態度はやっぱりとてもわかりやすくて、子どもっぽかった。  ――コイツ、可愛いな。  妹尾が涼也に悪く思われたくないように、涼也も妹尾には怖がられたくないと思っている。  たとえ妹尾に他意はなくても、涼也を怖がっていないことをきちんと伝えようとしてくれていることは、自分の気持ちを汲んでもらえたこととイコールなのだ。自分のために一生懸命になってくれる妹尾は、とてもとても可愛い。  自分がちゃんと見てこなかったから知らないだけで、今までも妹尾は自分に対して素直にまっすぐに接してくれていたのだろうか。  ならば自分もきちんと応えなければ。涼也はようやく笑いをおさめ、軽く咳ばらいをした。 「俺が怖くないのはわかった。あと俺も、別に名前出されたことは嫌じゃないし、南くんと間違って書かれたからって気分害したりもしてない」  本音をいえば、雑誌を見てすぐに妹尾が普通に名前を挙げてくれればいいのにと思った。でもそれは、怒っているのとはちょっと違う。 「ただまあ、気分悪いわけじゃないんだけどさ、」  南と対峙していたときから一つだけ、涼也には気になっていたことがある。 「なんで俺だけ『松山くん』なんだよ。仲良いって言うなら俺のことも静也たちみたいに名前呼び捨てでいいだろ」  自分のことは他人行儀な呼び方をするくせに、自分のことだけを他人行儀に呼ぶくせに。  怒っているのとはちょっと違う。苛ついているわけでもない。たぶん他の人からしたら小骨が喉に引っかかったくらいの違和感が、涼也には胸にじくじくとした痛みを伴うほどに気になる。  端的にいえば、涼也は拗ねていた。  相手がもし静也辺りなら間違いなくからかっているだろうが、妹尾はそんなことはせず、済まなさそうに涼也を窺い見るだけだ。 「ごめん」 「謝るなよ。怒ってねえし」 「うん、ごめ……あ、その、怒ってないのはわかってるんだけど」  気づけば渋い顔をしていた涼也に妹尾は咄嗟に謝る。  もしかしたら癖なのかもしれないことを注意するのは酷だが、今涼也が聞きたいのは別の言葉。何も言わず妹尾の目を見つめた。  見つめられた妹尾は垂れていた眉をさらに垂らし、何を躊躇っているのかおずおずと涼也に尋ねる。 「本当に呼んでいいの?」 「ダメならわざわざ言わないだろ。それに、そしたら今後ライターさんだって間違えねえだろうし」 「そっか。それもそうだね」  涼也の言葉を聞き、躊躇いが吹っ切れたらしい。やや緊張した面持ちの妹尾は涼也の正面に回り込み、向き合う形をとった。 「じゃあ……」  ふう。そっと吸い込んだ息をを吐き出す。 「――涼也」  ――涼也。  響きをたしかめるようにゆっくりと発音された自分の名前は、妹尾が発声するのに重ねて想像した妹尾の声よりも、甘くやわらかく鼓膜を震わせた。  ぽこぽこと沸いた嬉しさが胸をくすぐる。同時に、ぞわぞわとしたものが這い上がってくるものもあった。  ――これは、だめなやつだ。  腹底で渦巻く嫌な感覚に、涼也ははっとして繋いでいた妹尾の手を放す。 「もうリハ室だから」 「うん」  幸いにも目鼻の先にあったリハーサル室を言い訳に使うと、小さく頷く妹尾は少し困ったように眉を下げて微笑んだ。  離された手を大事そうに逆の手で包みながら、視線を足元にそっと落とす。  ――気のせいかもしんねえけど……  気のせいというよりは自分に都合の良すぎる解釈かもしれないけれど、もしかして。  ある疑念を抱きながらすっかりと妹尾の体温に馴染んだ指先でドアノブに触れると、ステンレスからは氷のような冷たさを感じた。驚きのあまり思わず飛び退く。  これほど冷たく感じるなんて妹尾は平熱が高めなのかもしれない。その熱を手放したのは自分なのだけれど、とても恋しい。 「今日、頑張ろうな」  ドアを開ける前に振り返りながら俯いたままの妹尾に声をかける。  たかが毎月恒例行事、たかがリハーサル。この状況でわざわざ鼓舞するような言葉を送る人間はいるのかは疑問だが、妹尾が涼也と同じ気持ちでいるならと思うと言わずにはいられなかった。  声をかけられた妹尾は恐る恐る顔を上げる。そして彷徨う視線が涼也の姿を捉えると、頭がもげるのではないかと思うほどの勢いで首を縦に振った。 「うん……!」  ぱっと輝く笑顔がまぶしい。涼也はうっそりと目を細める。  まぶしいほどではなかったけれど、自分の名を口にして嬉しくてどうしようもないのを堪えるみたいな小さく唇を噛む仕草も涼也には輝いて見えた。  自分が喜ばせた、妹尾の記憶。そのどちらもがきらきらとした宝物となって、涼也の心に残った。 「だから必死かって。首痛めるぞ」 「ごめ、あ、う、」  へそを曲げた涼也が軽い気持ちで言った『謝るな』という言葉を相変わらず律儀に守ろうとする妹尾。  その妹尾に背を向け隠れて笑いながら、涼也はドアを押し開けた。――ドアの向こうで静也たちが遅刻するシンクロメトリーを待ち構えていることも知らずに。

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