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卵を洗う。 殻を割る。溶いて牛乳を加える。 …忘れていた。 人参を調理しようと取り出して、 扉の閉まる音に肩が跳ねる。 (しまった…玄関で出迎えるべきか…否…) 廊下から近づく気配に項垂れ、包丁の柄を握り締める。 そもそも、どうしてこんな事になったのか。 今朝の場面を、ぼんやりと思い返す。 快晴の夏日、ブラックウェルとその元上官・アッカーソンは汽車を乗り継ぎ、祖国のとある街に降り立った。 少ない荷物を持ち、彼に連れられて立派な2階建ての邸が見えた折。 ふと疑問を抱いたブラックウェルが口を開いた。 「サー、あの…俺は近隣に家を借りれば?」 何か妙な事を言ったのか、相手の眉間に皺が寄った。 「…お前の家は此処だが」 「はい?」 どういう事だ。 こんな豪華な邸宅に…いやちょっと待て。 家の前で立ち竦む姿を振り返り、「置いて行くぞ」とアッカーソンが怪訝な表情で言った。 ブラックウェルは尚もその場で固まっていた。 確かに付いて行く等と、漠然としたプランで帰って来たが。 まさか、この御方は、俺と、この家に、ちょっと待て。 「ああ、お前の部屋2階で良いか?俺は帰り遅いから、1階の方が良いだろ」 「………俺は外の小屋でも良いですか」 「何馬鹿な事言ってんだ、さっさと荷物片すぞ」 顔を覆った。 同居なんて聞いてない。 起業した会社に雇ってくれるとか、ご近所さんだとか、てっきりそんな程度だと考えていたのに。 寧ろこれからも会えると言うだけで、いや帰りの汽車の席が隣だっただけで、こっちは大変だったんだ。 察してくれ。 叫びかけた諸々の台詞を、すんでの所で飲み込んだ。 以上が今朝の場面であった。 悶々としながら夕食の支度をしていた結果、やらかした。 右手の人差し指に赤い線が走る。 まあ傷の内にも入らない。 シンクで洗い流そうとした手前。 いつの間にやら、背後に居た相手に腕ごと掴まれた。 「…!け、気配を殺さないで下さい…」 「馬鹿、何やってんだ」 痛いだろ、言って傷口を調べ始める。 近い。 ブラックウェルは赤くなり、黙り込む。 いやもう、本当に勘弁して欲しい。 どういう体で自分を此処に置いているのかは知れないが、今朝からやたらにこう、距離が近い。 「…っ、な…」 傷口に温かい物が触れた。 目視して頭が真っ白になった。 舌が、傷口を舐め取る。 些細な痛みと、熱が指先を襲った。 「しょ…さ、何…」 「消毒」 これ見よがしに視線を投げ、箇所を咥える。 ぬるり、と独特の感触に、ブラックウェルが耳まで真っ赤になった。 俯いて震えるだけの身体など、好きにし放題だった。 傷口から、更に指を伝い、股に舌を這わせる。 「っ、え…、あ」 ずるずるとされるが儘になる。 衝撃的過ぎて、何ら言葉にならない。 「ふ、…ぅっ、ん」 舐められた指が熱い。 熱いどころか、甘い痺れがそこから全身に回って、身体ごと蕩けそうになる。 気付けば零れる息が荒くなっていた。 妙な声が漏れそうで、唇を噛む。 「何我慢してるんだ」 閉じた唇を撫でられた。 もう駄目だ。頭が可笑しくなる。 「ほら、口開けろ」 耳元で神の如く崇めた、その声が囁いた。 なんて夢を見てるんだ。 生々し過ぎる。夢に決まっているが、夢にしても刺激が強すぎる。 彼が、こんな事をする筈ない。 否、こんな事ってもう、何をされているのかすら、頭が追いつかない。 「ふ、うぁ…あ」 混乱している間に、唇の隙間から指が入り込む。 舌を擦って、中を掻き回す、淫猥な動きで。 否応無く声が漏れた。 羞恥心に目頭が熱くなる。 調理仕掛けの食材を前にして、放ったらかしで、未だ日も沈み切らぬ時分に弄られて訳も分からず喘ぐ姿が。 加虐心に火を点けたのを、当人は知る由もない。 「俺が居ない間いい子にしてたか」 「んっ…ぅ、」 「大体お前、ちゃんと完治したんだろうな」 抱き寄せられ、背中が暴かれる。 白い肌に痛々しい傷跡を認め、大きな手が其処に甚く優しく触れた。 「痛いか」 朦朧としながらも、ブラックウェルは首を振った。 そうか、と返す声色が柔らかかった。 ネクタイの締められたシャツに顔を埋め、温かさと少し、諄さの無い花の香りを感じた。 香水が変わってる。 余裕も無い癖に、何故かそんな事に気付いて目を細める。 「マリア」 顎を掬われ、呆けている間に唇を重ねられた。 「ん、んっ、」 思わず目の前のシャツを握り締める。 その感触に触れたのは、正確には2回目だったが。 何度か柔く合わせられた後、深く舌を入れられた事はある筈がない。 あたたかいそれが絡み付き、脳に水音が響いて、背筋がぞくりと痺れる。 咄嗟に逃げようとして、腰を引き寄せられる。 後頭部を掴まえられ、角度を変えて深まる。 「ッ…ふ、っあ」 頭の中どころか、全身が蕩けそうだった。 脚が震えた。 本当に、離してくれないと、立ってられない。 口端から唾液が伝う。 呼吸も手足も何もかも麻痺して、必死になって腕を掴んだけれど、 放してくれない相手に、涙が溢れる。 ようやっと絡んでいた舌が抜けて、最後に唇を舐めて遠ざかる。 翡翠の瞳が此方を見ていたが、もう見返す所か、何一つ意思のまま動かせず、酷い呼吸でその胸に沈んだ。 「お前、キスだけでイきそうな顔をするなよ」 赤い頬に涙を零す小さな存在を抱き竦める。 今にもしゃくり出しそうな様が、愛おしくて仕方無い。 アッカーソンは崩れ落ちそうな痩身を捕まえ、膝裏から抱き上げた。 抵抗も出来ず宙に浮かぶ。 混乱し、益々脳内がぐちゃぐちゃになって、虚ろに見上げた。 「おいで、俺の部屋に行こうか」 抱き上げたまま、また唇を塞がれる。 言われて頭が理解する前にリビングが遠退く。 扉を開けて、視界に広がるシンプルな部屋。 窓際のベッド。 べ……。 漸く上に降ろされたブラックウェルは沈黙し、いざって壁際へと後退した。 「何、どした」 尚も紅潮した顔で俯く相手に、アッカーソンはきょとんと動きを止めた。 隣に腰掛け、距離を取る、未だ先の余韻を引き摺って肩を上下させる姿を見やる。 「…っ…少佐…つ、つかぬことを…おききしますが」 口元を濡らす唾液を拭った。 なんとか覚束ない頭で言葉を紡ぐ。 「、な、何を…」 してるんですか、という語尾が消えた。 つい顔を上げたら、妙に熱を孕んだ翡翠の瞳とぶつかったからだ。 「何って、お前を抱こうと」 しかも、一寸も逸らさずそんな台詞を吐く。 シーツに突っ伏したくなった。 「…ああ、悪い。事が後先になったが」 アッカーソンがスラックスのポケットを後ろ手に探る。 未だ目を合わせられずにいると、また手を掴まれた。 「マリア」 「え、はい…何でしょう」 一瞬だった。 左手の薬指に違和感を感じ、見るや燦然と輝く鉱石があった。 「結婚してくれ」 相も変わらず、真摯な表情で見詰めたまま彼は言った。 ブラックウェルは今度こそ間違いなく全ての器官がショートして止まった。 注視すれば、立ち昇る煙すら見えたかもしれない。 待てどもうんともすんとも言わない相手に、流石に訝しげにアッカーソンは眉を寄せ、首を傾けて覗いた。 「…マリア、聞いてるのか」 埋め込まれたダイヤを凝視し、放心している。 いきなり過ぎたかとアッカーソンは納得したが、何ら反省はしなかった。 彼から言わせれば3ヶ月も待ったのだが、ブラックウェルからすれば出し抜けも良いとこだった。 そもそも、お互いマトモに気持ちすら伝えた試しがない。 後先以前に、工程を抜かし捲っている。 「……」 ブラックウェルが帰ってくるよりも、相手の忍耐が切れる方が早かった。 腕を引かれ、よろめいた拍子に首筋に噛み付かれた。 「…っ!」 身体が強張る。 が、首筋を吸われ、鎖骨を辿り、唇が下りるにつれ、解ける様に全身から力が抜けた。 「…ふ、や…やめ、」 「今度からお前の沈黙は全部承諾とみなす」 「え、ええー……」 青褪めるも、やると言ったらやる男だ。 ただ先の心配より、今もう、大変な事になっている。 いつの間に外したのか、シャツの隙間から胸を食まれる。 「ひッう、ぁ…ゃあ」 呆気無く声が漏れる。 必死に涙目で口を塞ごうとして、手を捉えられた。 「な…やぁ、しょ、さ…」 「何処触られても良いのか」 「ん、ち…ちがぁ、」 「違わないだろ、ほら」 手を外そうと躍起になっている間に、下肢を脱がされた。 何という手際の良さ。 既に立ち上がる性器に、愛して止まないその手が触れる。 その事実だけで気が狂いそうだった。 「ふ、ぁあ…め、だめ」 くちゅ、と露に濡れた箇所が卑猥な音を立てる。 態と聞かせているのか、 弄んで、彼の指先が何度も形をなぞる。 「しょ、さ…ゃ、やだ…やめ」 「何が」 「や…ッぃ、ぃっちゃ、」 泣き出しそうな表情が、腕の中で震える。 眉根を寄せ、 開きっぱなしの唇から嬌声を零す、 その顔を頬を攫って、無理矢理此方を向かせる。 「良いよ、見ててやるからイけ」 ブラックウェルが、頭を振って身悶えた。 お願いだから、見ないで欲しいと全身で訴えていた。 もう羞恥心にどうにかなりそうだった。 「、ねが…はな、し…っぁ、あ」 顔を救い上げる腕を、懸命に剥がそうとする。 指が殊更厭らしく性器を煽った。 可愛らしいそれが熱を持ち、背中が痙攣した。 「ひ、ぅ…ふっぁ、あ…ッ!」 消え入りそうに切ない声を上げた。 腕の中に囚われた身体が呆気無く果て、虚脱して震えた。 翡翠の瞳が、その最中の表情を映して細まる。 熱を纏い、気持ち良くて、恥ずかしくて、 どうしようもなくぼたぼたと涙を零しながら、目の前の男に縋った。 「ふ…、っ」 「何泣いてるんだ、怖かったのか」 子供にやるように抱き寄せられ、頭を撫でられる。 シャツを握り締め、何故か益々涙が止まらなくなった。 さっきまで攻めていた指先が、優しく髪を梳く。 頬に触れて、背中を伝って、あやすように叩いた。 「どうした」 穏やかな声が耳に響く。 顔を上げると、柔らかい視線が向けられていた。 赤い目元に唇が触れる。 もう一度、唇に。 そうして手を攫われて、指先に口付けられた。 不思議なくらい落ち着いて、安堵に満ちる。 アッカーソンは大人しくなった身体を抱き締めて、小さく息をついた。 今日はこの位にしておいてやるかと、この元部下相手にしか働かない、無償の愛情を垣間見せた。 これ以上やると、本気で泣かれそうだった。 「…それからマリア、俺は少佐って呼ばれても返事しないからな」 捕まれた肩がぴくりと揺れた。 そんな事を言われても。 漸く働き始めた思考が、再び渦に呑まれた。 しかし確かに今、そう呼ぶのも可笑しいのだ。 ブラックウェルは停滞する思考で頑張って考え、導き出した。 「…えっと…じゃあ、社長で…」 顔を上げたら何故だろう、相手は真顔だった。 その後暫く、原因は分からないが…彼はマトモに口をきいてくれなかった。 the end.

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