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 最後の客に釣銭を渡しながら南由汰(みなみゆた)はチラッと壁に掛かった時計に視線を投げた。  と言うのも、二人の男が最後の客と入れ違いに入ってきたのは、閉店時間を十分も過ぎたころだったから。  レジの締め作業をしながら、もう店仕舞いなのだと由汰が言うより先に、慣れた手つきでバッチを提示される。  ――警視庁捜査一課。  どこか険しい顔の刑事たちは、挨拶もそこそこに二枚の証明写真を取り出すとそれを由汰の正面にかざした。 「実は今、人を探してましてね。失礼ですが、この少年たちに見覚えはありませんか?」  都内でも有名なインターナショナルスクールの制服を着た二人の少年の顔写真。  由汰は内心で眉を寄せた。  面倒なことは極力避けたい。それでいたって今日は朝からあまり体調が思わしくないのだ。 「……事件ですか?」 「いえ、詳しいことはまだなんとも申し上げられないんですがね」  浅黒い顔に感じの良い笑い皺を浮かべた背の低い中年太りの長谷川は、「こんな遅い時間にすみませんね」と付け加えながら外の初夏の陽気にやられたのか、じわっと滲んだ首筋の汗をハンカチで拭う。 「いえ、ちょうど店仕舞いするところだったので、大丈夫ですよ」  そう言って平静を装ってはみたが、聞き込みなんてドラマの中だけの話だとばかり思っていたから、突然のことにちょっとばかし緊張がはしる。 「どうです? 見覚えありませんかね?」  由汰はレジカウンターの上に並べられた二枚の写真を交合に見やりながら無意識に唇を指でいじった。 「五日前にこちらの店に来ているはずなんですがね」 「ええ」  確かに、見覚えがある。客の顔をちくいち把握している訳ではないが、この少年たちについては覚えがあった。 「あるにはあるんですが……」 目を眇めながら口許に指をあてたまま黙り込む。 なにかが、違う……。 写真に違和感のようなものを覚えて、それを探りだせないまま由汰は片方の少年を指さしながら答えた。 「こっちの少年は覚えていますよ。僕に対して声を掛けてき……」 「なんてだ」 「え」 「なんて声を掛けてきた」  被せるように質問を投げかけてきた上背のデカい織部尚政(おりべなおまさ)に反射的に顔を上げて眉を寄せた。 「お兄さんもハーフなんですねって」  由汰が指さした少年は見るからに外国人とのハーフだ。 「それで?」  どこか険を感じさせる織部の声にいささか気分を害しながらも、 「それで……」  と、そこでなんとなく言い淀んでしまった。 「どうした」 「あいや、こっちの子も一緒だったはずなんですけど」 「だけどなんだ?」  急き立てるような織部の言い方についムッとしながらも、 「分かりません……。でも、なにか……写真と違う」  写真を覗き込みながら、小首をかしげて無意識にまた唇をいじる。 物を考える時の癖なのだ。  もう一方の男の子は黒髪に黒目をした一目見て日本人だと分かる容貌だった。  確かにこの少年も店に来ていたはずなんだが、けれど何か違和感を覚えて由汰は口ごもった。  まじまじと正面から顔をつき合わせたわけではないのだ。まして、まともに会話をしたわけでもない。  それでも何か、何かを感じたと思ったのだが……。 「おいっ」 「えっ」 「見たのか見てないのかはっきりしろ」 「――は?」  人が閉店時間後にも関わらず、こうして必死に思い出そうと努力していると言うのに、その言い方はないだろう、と露骨に歪めた顔で織部を仰いだ。 「僕が言いたいのはね、この写真と少し印象が違った気がするってだけで見てないなんて一言も言ってないでしょう」 「どう違って見えたんだ?」  その傲慢な態度を遠回しに指摘したつもりだったが、残念ながら通じなかったらしい。  由汰は織部からふいっと視線を外すとレジの締め作業に戻りながら頭を振った。 「すみませんね。何がって聞かれると僕も思い出せなくて。でも確かに二人はここに来ましたよ。うちは専門書だけを扱っている書店ではありますけど、そのジャンルは多岐にわたるので学生や主婦層も多いんです。それに、ハーフの子なんてあまり見かけないですしね。それなりに覚えてますよ」 「それなりにな」  と、織部の含みのある言い方に眉を顰めながら由汰は作業する手を少しばかり乱暴に動かした。 「曖昧な言い方だな」 「お力になれず残念です」  と、素っ気なく返す。  正直、こんな時間に来られて迷惑じゃないと言えば嘘になる。  お腹だって空いていたし、愛想良く対応するにも今日はだいぶ体調が悪かったから。  中でも今が一日の中で最高に絶不調だ。全身がハードな水泳を終えたばかりのように重くて怠かった。  できることなら、このまましばらくしゃがみ込んで、床に――実際には土間だが――座っていたいくらいに。  そんな状況にも関わらずこちらが親切に対応していれば、この織部の態度ときたらなんなのか。  緊張していたのに少し気が抜けて、真面目に請け合う気も失せた。 「家出でもしたんですか? その子たち」  少しばかりイラッとして適当に思いついたことを口にする。 「ここに居ないとなれば、その線もでてくるだろうな」  言われた意味がすぐに理解できなくて、由汰はほんの数秒レジを締める手許を止めると、次の瞬間きつく眉を寄せた。 「どう言う意味だ?」  訝し気に刑事二人を睨むと、織部が皮肉げに口端を吊り上げる。 「まさか、僕を疑ってる?」 「違うのか?」 唖然として思わず瞠目する。  まさか、よもやこんなことが? 赤飯でも炊いて祝うべきか、うっかり真剣に悩むところだ。  自分が生きている間に容疑者扱いされる日が来るなんて。  それも一日の一番疲労している時間帯の、最高に体調が絶不調の時に。  冗談なら笑えるが、目の前の織部の表情はそれが冗談ではないと雄弁に語っている。 「悪いことは言わない。もしも、こいつらをこの家のどこかに囲ってるって言うなら、今この場で包み隠さず、とっとと吐いたほうがいい」 「吐いたほうがいいって……」  まさか本当に冗談だろ、と思わず首を傾げながら片頬で嘲ってしまった。  本気でそんなこと言っているのか。そもそも『囲う』などと言う表現が正しいのかもはなはだ疑問だ。  少しでも協力しようと思っていた自分が急に馬鹿々々しくなる。    客からの注文リストが入ったファイルをカウンターに取り出して、ペラペラとめくりだす。  敬語で対応する気も一気に削がれた。 「悪いけど、他を当たってくれ」 「言われなくとも。だが、今はお前に訊いている」 「お前って……刑事さん、あなたね」  さすがに咎めようとして身を乗り出すと、手の平一つで遮られた。 「ご託はいいからさっさと答えろ」 「なに……」 「悠長にお前と話し込んでいられるほど、こっちは暇じゃないんだ」 「こっちだって……」 「よく聞け。訊かれていることが理解できていないならもう一度だけ言ってやる」 「だから」 「囲っているのか、囲っていないのかどっちなんだ」 「囲ってないよっ」  夜二十時過ぎとあって少し疲れていた。いや、今日はだいぶ疲れていた。朝から血糖値も安定せず身体も重い。悟られまいとして最後の力を振り絞って平静を装ってはいるが、実のところこうして立ちっぱなしで作業しているのもそろそろ限界なのだ。  今日はパートの平多昌子(ひらたまさこ)が用事があるからと急遽一時間ほどで帰ってしまった上に、世間では学校が夏休みに入ったこともあってビジネスマンに混じって学生客もひっきりなしだった。  その対応だけでもバタバタしていたというのに月末とあって出版社への請求書の支払いやなにやらで今日は一日忙しなく、ろくにお昼ご飯も食べられていない。  二十時の閉店時間をようやく迎えて、これから在庫の確認や客から受けた本の注文の手続きなどがまだまだ残っているところへ、この刑事たちの予期せぬ来訪。  あげく意味も解らず頭ごなしに容疑者扱いされては、少しばかり気が立ってしまっても仕方がないだろう。 「顔色が悪いな。どうした? ここにきて、まさか逃げようなんて往生際の悪いこと考えるなよ?」 「だから……」

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