9 / 9

恋を奏でる爪音:祝福の音色3

 水野宮様はその場に固まって動こうとせず、穴が開きそうな勢いで翼の君を見つめた。物言いたげな視線に居た堪れなくなったのか、泡食った翼の君は床に額を擦りつけて、慌ててその場に平伏す。 「みっ宮様、大変申し訳ございませんでした。耳障りになるであろう吾の歌を、宮様相手にお聞かせするような、大それた真似をしてしまい……。青墓にいらっしゃった今様の歌い手のようには、やはり吾はうまく歌えずその」 「皆の者に問う。翼の君が詠った今様に、不満があるものはおるか?」  平伏しながら詫びをいれる翼の君の言葉を遮った、怒気を含んだ水野宮様のお言葉に、その場にいる者は困った様子で、互いの顔を見合わせた。琴の奏者である私が翼の君を助けようと口を出したりしたら、それこそ水野宮様の機嫌を損なうことに繋がってしまう恐れがある。  嫌な空気が漂う静まり返った室内の中で、翼の君は床に平伏したまま、頭をあげることができなかった。両目をきつくつぶり、小刻みに体を震わせる様は、見ているだけで痛々しい。 (宮様のご機嫌があまり麗しくないせいで、他の者は良い悪いを軽々しく口にできないのであろうな。さてこの場をおさめるには、どうしたやいいのやら――)  思案しかねて、目の前にある琴から視線をゆったりあげると、斜め前にいる女官と目が合った。彼女は私の部屋から琴を運んでくれた人物で、顔の前に扇を広げていたが、意味深な視線を私に飛ばしていたらしい。  そのことにやっと気がつき、瞬きを二度したら、女官は横目で平伏した翼の君に視線を移動させる。そのあとに不機嫌そうな水野宮様を見てから、ふたたび私に視線を投げかけた。 (――もしやこの女官、宮様と翼の君の仲をご存知なのかもしれぬ) 「予は帝のように、誰彼かまわず罰を与えたりせぬ。皆の者の率直な感想を聞きたいだけなのじゃ」 「大変、差し出がましいことではございますが――」  緊張感を孕んだ震える女官の声は、とてもか細く小さなものだった。室内にいる者の視線が、彼女に向けて一斉に浴びせられる。  何事だと言わんばかりの多くの視線を受けた女官は、深く頭を垂れて水野宮様に平伏した。 「そなたは表で、予の共についておった者だな」 「はい。わたくしは今まで一度も、今様を聞いたことはございません。それゆえ宮様がお求めになりたい感想を述べるなど、大層失礼にあたるやもしれませぬが……」  最初に話しかけた声色とは一転した女官の言の葉は、平伏してしてもはっきり聞き取れるものだった。 「かまわぬ。身分もそうだが、今様を知らぬ者だからこそ、はじめて耳にしてみて、どのように感じたか詳細に述べよ。遠慮はいらぬ、面を上げて話せ」  琴を奏でる以外、私はなにもできぬ現状ゆえに、もどかしさを覚えつつ、膝に置いた両手を握りしめながら、おふたりの成り行きを見守る。 「それでは、わたくしが感じたことを述べさせていただきます」  女官は頭をあげるなり扇で顔を隠しながら、翼の君を見つめた。 「宮様にお仕えすることで、翼の君様とご一緒させていただく機会がございます。仕事ぶりは大変真面目で、家司を生業にしている方々の中でも、影ながら宮様を支えるように尽くしておられるお姿を拝見しております」  女官の口から静かに語られる翼の君の人となりは、私も日々目にしていることで、水野宮様も黙ったまま、首を縦に振っていた。 「どちらかというと控えめな性格の翼の君様が、宮様だけじゃなく、わたくしを含めたこのような場で今様を詠うのは、とても大変だったことでしょう。目に見えぬ緊張感が伝わってきました」  ねぎらった女官の言の葉は、翼の君の体の震えを止めるものになった。少しだけ頭をあげて、水野宮様に説明する女官を眺める。 「琴の音に合わせて詠う翼の君様のお声が、最初は弱々しいものだったのに、心を込めて詠っていくうちに、情熱的なものに変わっていき、とても引き込まれるものになりました。目を閉じても、さきほど詠っている翼の君様のお姿が、まぶたの裏に浮かんでしまいます。わたくしも今様の歌詞のように、誰かに想われたくなりました」  言い終えてから水野宮様にしっかり首を垂れた女官に、心の中で拍手を贈ってやった。 「翼の君よ……」 「はっ!」  不意に水野宮様に呼ばれたため、少しだけ上げていた頭を下げて、ふたたび平伏した翼の君の横顔から、微妙な感情が見え隠れする。女官には褒められたが、相変わらず水野宮様のご機嫌がすぐれないため、素直に喜ぶことができないのであろう。 「おまえが予のもとから旅立ち、青墓にて今様をしっかり聞いてきたことは、ここで披露した歌で理解した」 「…………」 「おまえは誰を想って、さっきの今様を詠ったのじゃ?」  問いかけながら翼の君の前に近づいた水野宮様の威圧感は、相当なものがあった。傍から見ている私でさえも、息を飲むくらいにお強いものだった。 「そ、それは――」 (この場に誰もいなかったら、閊える想いを宮様に向けて告白できるであろうに、家来や女官の前ではそれが言えぬであろうな)  水野宮様は憮然とした面持ちのまま、言い淀んで平伏す翼の君の襟元を強引に掴み上げて立たせるなり、力任せに引きずりながら、部屋を出て行かれた。ふたりきりになれば翼の君は今までの想いを、水野宮様に告げることができるであろう。  その場に残された家来たちは揃って呆けていたが、ちぐはぐなふたりのご様子を思い出し、私は笑みを浮かべてみせる。 「――ほんに良きことかな」  誰にも聴こえない声で呟いたあと、水野宮様たちが出て行かれた反対側の廊下へと消えた。  部屋から出て角を曲がると、夜空にぽっかり浮かんだ艶やかな弓張り月が目に入る。瞬いているその姿が、水野宮様と翼の君を祝福しているように見えた。その瞬きの中に、自分の想いをこっそり重ねる。 「夜が明ければ、この想いも儚く消えるであろう。だけど最後のその瞬間まで、噛み締めさせてもらおうか」  自分の部屋の前に着いてから、その場に座り込んで新しい時を待った。生まれ変わった新たな想いが、自分を導いてくれると信じて。 【了】

ともだちにシェアしよう!