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恋を奏でる爪音:祝福の音色2

「大変お待たせいたしました。和琴のご用意が整いました」  女官数人の手により、丁寧な所作で運ばれてきた見慣れた自分の琴を前に、私は何食わぬ顔で静かに正座した。  水野宮様の御前であるため、失礼があってはならないのは当たり前のこと。しかも今回は翼の君と水野宮様の恋仲を取り持つために、失敗は絶対に許されない――。  このような目に見えぬ難しい縛りがあるため、いつも以上に緊張する。そのせいで、手の中にしっとり汗をかく始末。それと同時に、体の芯が小刻みに震えはじめるのを感じた。  心と体を支配しようとする嫌な緊張感をやり過ごすべく、息を吐きながら背筋をすっと伸ばして、下腹と太ももでしっかりと上半身を支えて、見るからに綺麗な姿勢を保った。  あえて虚勢を張ったと言ってもいい。私が極度に緊張したままこの場で琴を奏でたら、音を大きく外すだけじゃなく、澄んだ音も濁り果て、このはかりごとは間違いなく失敗してしまう。それだけは、どうしても避けねばならない。  どうしても乱れそうになる心を、息を大きく吸って無理やり整えながら、両手を自然に弦の上に移動し、右のてのひらを柔らかく内側に曲げながら、左のてのひらは指先を綺麗に揃えたのちに絃の上に置き、肺に溜まっている空気を口からすべて吐き出した。  青墓で見聞きした今様歌手の壮大で美しい歌声を、頭の中できちんと思い出し、指先を使ってゆったりと琴を奏でる。  並々ならぬ集中力のおかげか、体を支配しようとしていた緊張感は今はまったくなく、おふたりの仲をなんとしてでもとりもちたいという強い気持ちが、私の指先に込められた。  ――この想いがどうか、宮様に届きますように――    水野宮様をはじめ、その場に居る者は息をのんで、演奏に聴き入っている様子を肌で感じることができた。  やがて短い演奏を終えるなり、真っ先に翼の君に視線を注いだ。大好きな今様の演奏を夢見心地でいる翼の君は、うっとりした面持ちのまま、琴の音色に聞き入っているようだった。 「こんな感じであったな、翼殿」  部屋の静寂を破った私の声に、翼の君は双眼を大きく見開き、驚きを隠しきれない表情をありありと浮かべる。 「一度聴いただけで、こうして琴を奏でることができるなんて、|鷹久《たかひさ》殿はやはりすごいですね。青墓にて今様歌手が詠っているところが、まざまざと脳裏に浮かびました!」 「それはなにより。では翼殿、こちらに立っていただけるか」  迷うことなく私が指し示した場所は、水野宮様とお顔を突き合わせることになる正面だった。翼の君は私の指先の延長線上にいる水野宮様を見るなり、顔を思いっきり強張らせる。 「あのぅ|鷹久《たかひさ》殿、なぜに吾が宮様の御前に?」 「私と一緒に見聞きした今様を、宮様に披露するために決まっているであろう」 「ひっ! 急にそんなことを仰られてもっ! そんな大役、吾にはできませぬ! 無理でございます……」  その場で大きな体を縮こませつつ、何度も首を横に振って拒否する翼の君に、私は満面の笑みで答えてやる。 「翼殿、よぉく考えていただきたい。君は宮様に頭を下げて、家司の仕事を放棄し、わざわざ青墓まで足を伸ばして、今様を聞きに行ったであろう?」 「あ、はい……。そのとおりでございます」 「それなのに宮様の御前でそれを披露できぬということは、翼殿は大切なふたつの仕事を投げ出したことになるが――」 「ううっ!」  私に痛いところを突かれたためか、翼の君の表情は面をつけたかのように固まっていた。絶対に拒まれないように、追撃の手を緩めずに語りかける。 「そのような信じられぬこと、責任感が大変お強い翼殿がするはずはないと私は思っているのだが、どうであろうか?」  傍から見たら嫌味なことを言って、翼の君を水野宮様の御前に無理やり立たせようとする、意地の悪い私を皆の前で晒す羽目になってしまったが、こればかりは致し方ない。 「それに翼殿が何度も口ずさんでいた今様を、あえて選んだのだ。ここで詠えるであろう?」  暇があれば鼻歌で詠っているのを、実際に何度も耳にしていた。 「わ、わかりました……」  赤面しながら座っていたところから移動し、水野宮様の前に恐々と佇む翼の君の様子は、門前で見たものよりも挙動不審な様子だった。  そんな翼の君の中にある不安を打ち消すように、優しく話しかけてやる。 「翼殿、背筋を伸ばしてしゃんと立たねば、きちんと声を出すことが叶わないぞ」 「ううっ、頑張ります……」 「大丈夫だ、私の演奏に合わせろ。目をつぶってあのとき一緒に聞いた、今様歌手を思い出せ。うまい下手ではない、自分の中にある想いを込めよ翼殿」  隠しきれない不安を醸し出す翼の君を無視して、私はふたたび姿勢を正し、強引に琴の演奏をはじめる。  静かに奏でられる前奏を聴きながら、翼の君は諦めたような表情を浮かべて、ゆっくり目を閉じた。横目で覚悟を決めた彼の姿を見ることができたので、安心して爪音をまったりと奏でる。 「恋ひ恋ひて――」 (恋しくて恋しくて)  胸に手を当てながら切なげに詠う翼の君から、得も言われぬ美しさがひしひしと滲み出てきた。その様子を目の当たりにした水野宮様は、物欲しそうなお顔でじっとご覧になった。 「|邂逅《たまさか》に逢て、寝たる夜の夢は如何見る――」 (久しぶりに逢って寝る夜は、どんな夢を見るのでしょう)  翼の君は胸に当てていた手を水野宮様に向かって差し出しながら、ゆっくりと目を開けた。 「さしさしきしとたくとこそみれ」 (お互いにぎゅっと、抱き合う夢でありましょうか)  翼の君の想いがこもった声を耳にしながら、最後の爪音を優しく弾いて、静かに演奏を終える。部屋の中は、水を打ったように静まり返ったままだった。

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