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第1話
試合に勝ったその翌日、いつものようにボクシングジムに行くと、いつもならみんながトレーニングする音が外にも聞こえるはずなのに、なぜか今日に限ってジムの中は静まりかえっていた。
おかしいなと思いつつジムに入ったが、やはり中には誰もいない。
「おーい、誰かいないのか?」
大きな声で呼んでみると、それに応えるように会長の部屋のドアが開いた。
けれどもそこから出てきたのは会長ではなく、背の高い、スーツの男だった。
男の姿を見た俺は、本能的に危険を感じて身構える。
男は爽やかな笑顔を浮かべていて、ぱっと見は営業成績トップのサラリーマンあたりに見えるが、見た目にはそぐわない喧嘩慣れした人間特有の隙のなさが感じられたからだ。
「小坂くんだね?」
一応は疑問の形を取っているが、男は確信を持って言っているようだ。
「昨日の試合、見させてもらったよ。
なかなかいい試合だった」
「……」
爽やかな笑顔で告げられた男の言葉に、俺は思わずむっとしてしまう。
昨日の試合は、何度も重いパンチをまともに喰らいながらギリギリで判定勝ちという無様な勝ち方で、とてもじゃないがいい試合なんかじゃなかった。
あれをいい試合だと言うなんて、実は試合を見ていないか嫌味かのどっちかだ。
俺が黙って男をにらんでいると、男は困ったように肩をすくめた。
「まあいい。
本題に入ろうか」
そう言うと男は胸の内ポケットから折りたたんだ書類を取り出した。
「君に借金を返してもらいたくてね」
「……は?
俺、借金なんかしてないけど」
バイト暮らしでいつもギリギリの生活ではあるけれど、借金はしたことがない。
俺がそう答えると、男はうなずいた。
「ああ、借金したのは君ではないね。
借金したのはこのジムの会長で、君はその連帯保証人になっている。
昨日が支払期限だったんだが、会長は今朝から行方をくらませてしまってね。
だから代わりに連帯保証人の君に払ってもらおうというわけだ」
「連帯保証人ってなんだよ。
そんなのになった覚えはない」
「そう言われても、ここに間違いなく君のサインがあるんだが」
男が指し示した借用書のサインの部分を見ると、確かに連帯保証人の欄に俺の字でサインがあった。
「あっ、このサイン……」
そのサインに、俺は覚えがあった。
昨日の試合のために事前にいくつか書類にサインをする必要があって、会長に差し出されるままにサインしたうちの1枚が「小坂」の坂の字をちょっと失敗したのだが、男が持っている書類のサインはまさにその時失敗したものだったのだ。
「違う。
確かにサインしたのは俺だけど、試合関係の書類だって聞いてサインしたんだ。
会長にだまされたんだよ!」
会長にサインさせられた書類なのだから、俺をはめたのは会長だということになる。
会長は荒れて喧嘩ばかりしていた高校生の俺をジムに入れて更生させてくれた恩人だから信じたいけど、目の前に証拠を突き出されたらさすがにそれも無理だ。
「そう言われても、うちには関係ないからね。
サインがある以上、それがどういう状況で書かれたものでも君には責任がある。
このジムが抵当に入っているから、半分ほどはそれで清算できるが、残りは君に払ってもらわないと」
「……けど、俺、そんな大金払えない」
男が持っている借用書にはたくさんの0が並んでいて、その半額でもチャンピオンに勝った賞金でも数回かかりそうな金額だ。
ほとんど貯金もなく、チャンピオンに挑戦できるほど強くもない俺には、逆立ちしても払えない。
「ふむ……そういうことなら、代わりに君の体で払ってもらおうか」
そう言うと男は、何を思ったのか、いきなり俺に殴りかかってきた。
とっさに避けることはできたが、そのパンチは鋭く、最初の印象通り男が喧嘩慣れしているとわかる。
この身のこなしで借金取りということは、間違いなく本職のヤクザだろう。
これは油断できないと俺が身構えると、入り口のドアが開いて男が2人入ってくるのが見えた。
こちらは典型的なヤクザといった見た目の2人は、まっすぐ俺の方に向かってくる。
こちらも一応はプロボクサーなので最初からいた男だけならなんとかなったと思うが、さすがに3人がかりで来られてはどうしようもない。
しばらくは3人相手に奮闘したが、そのうちに後から来た男たちに後ろから両腕をつかまれてしまい、最初からいた男が俺の腹に──しかも昨日の対戦者にやられたのと全く同じところに重いパンチを入れてきて、とうとう俺はダウンしてしまった。
そして床に倒れたところに無理矢理薬のようなものを飲まされ、俺は完全に意識を失った。
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