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episode.6-16

「だから俺もその、もう少し今より…」 「いえ」 囁く様な部下の声音に顔を上げた。 「萱島さんはどうか、そのままで」 まさか肯定されるとは考えてもみなかった。 擽ったい様な、奇妙な感覚へ頭が火照る。 曖昧な返答をぼやき、萱島は忘れ去った焦燥が戻るのを感じた。 あの大学で並んだ時間同様。 若干の躊躇も抱きつつ、それでも好奇心から青年のプライベートへ踏み込む。 「…学校終わって、いつも何してるの」 「休みの日ですか?」 戸和は案外律義に思案し、答えてくれた。 「大した事はしてませんよ、音楽聞いたり、本読んだり」 「洋楽?」 「そうですね」 心臓の音が、喧しかった。 閑静な空間に、聞こえてしまうのではと思うほど。 「…他には?」 「まあ映画を見たり」 「映画か…」 1人呟く。 視線をあちこち彷徨わせ、逡巡した。 そして十二分に間を貰うや、やっとの事で口を開いた。 「その、今度見に行かないか」 戸和は次こそ驚いたらしかった。 ただその反応を気にする余裕も無く、萱島はまた床のタイルを目で数えている。 「お前の…見たいやつでいいから」 我ながら酷く情けない声だ。 言葉にしながら内心は、すっかり拒否されると思い込んでいて。 「良いですね」 だから部下の発した返答へ、弾かれた様に首を擡げていた。 「また連絡して下さい」 席を立つ。 その殆ど影に近い姿を、まじまじと見詰める。 最後に此方を一瞥した。 いつもと変わらない筈の戸和が、分かり難く、けれど確かに口端を持ち上げていた。 (わ…) 部屋を後にする彼を間抜け面で見送る。 姿が失せた瞬間、萱島は耐え切れず膝へと突っ伏していた。 (笑った) そんなのずるいだろう。 何時までも立ち上がれず、その場に縫い止められる。 彼は一瞬の表情のみで、此方の敗北を叩きつけてしまった。 もう疑い様も無く、逃げ道を絶たれた自分は彼へと、更なる深みへと落ちていくだけなのだ。 next >> episode.7

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