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episode.7-15

「萱島、煙草あるか」 後部座席から手を伸ばし、何時開けたのかも分からない物を渡した。 振り向いた彼の為に、ライターを用意して火を点けてやる。 窓を開け、煙草を吸う横顔を見やる。 家族の為に禁煙したと言った。本郷が今、煙を断つ意味はないのだ。 (でもきっと、嗜好品じゃないんだよなあ) 前のシートに凭れ、腕に顔を埋めていた。 萱島は外へ流れる煙を見詰めながら、ぎゅっと唇を喰む。 恐らく貴方がそれを手にするのは、自分を傷めつける時だから。 許すのは今だけだ。今度から貴方がそうしたら、飛びついて奪いとってやろう。 「あー…駄目だな、目え覚めるかと思ったけど。お前免許持ってたっけ?」 「持ってるには持ってるんですけど」 「乗ってないのか」 「いや…アクセル全開で突っ込みたくなるから乗れないと言うか」 いつからか。本当に、ハンドルを握るだけで汗が滲む様になっていた。 車も持っていたが、とうに売ってしまった。 「疲れてるなら誰か呼びましょうか」 「人に突っ込まなきゃ構わないから、お前が運転しろよ」 「…死んでも知りませんよ」 「良いなそれ、俺と心中するか」 何だそれ。 眠気でやけくそになっているのか。 どうにでもなれと、萱島はドアを開いて車を降りた。 交代して運転席に座り、ハンドルを握る。 (…それ以前に久々過ぎて全然分からない) また異なる緊張感に支配された。 ちらりと隣を伺えば、上司は珍しくぼんやり外を眺めていた。 いつもなら世話を焼いてくれるのだが。 シートベルトを締め、自分自身祈りつつ車を発進させる。 幸い国産車だった。 然れどアクセルを踏み込む気にもなれず、慎重に慎重を期してのろのろと進んだ。 「萱島、右行こうか。1回止まって…あの車先に通したげて」 「あ、はい」 矢張り暫くすると助けが飛んできた。 教習所を思い出す。 彼の指示は大通りを避けてくれた。 知った道に出た頃合いで、再び車内が静寂に満ちる。 視線をやると上司は寝ていた。 寝息すら立てず、事切れた様に。 (えー、ああ…右か) ハンドルを切る。 限界に挑戦しようなんて、無茶に走ってやろうなんて毫も思えなかった。 隣の彼が、そうさせなかった。 寧ろブレーキの衝撃まで気を割き、萱島は神経を集中させる。 (…今が幸せならいいな) 先にマンションで命を救われた件。 その以前に指切りで約束をした件。 本郷のもう一人の人格共々、萱島はハンドルを握りつつ刻み付ける。 (こっちは貴方に会えて、嬉しかったから) 現在まで歩んできた2人の道。 本郷の言うように、これから隠し事なく、ひとつずつ話していきたい。 貴方がどんな人生を歩んで、どういった思想を持って、何が好きで何が嫌いで。 その対話こそ地下で霧谷に告げた、前へ進む痛みを和らげるのかもしれない。 今思い返せば、衝撃的な岐路だった。 RICへ来てはや数ヶ月、経験した例のない情動が次々と訪れていた。 只管に自宅を目指し、車を走らせる。 萱島は助手席の上司へ、名状し難い微笑を向けた。 next >> episode.8

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