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【12】

 数週間後――。  二人の婚約が正式に公表され、当主を引き継ぐ旨も関係各所に伝達された。  真相を知らない者たちの間では、駈が野宮家の執事として長年仕えて来たのは、もとより財産狙いだったのではないかと憶測も飛び交ったが、当の駈は予想していた通りの展開だと皮肉気に笑った。  そして、叔父である晴也の死が輝流に告げられたのもこのタイミングだった。  自分の犯した罪の呵責に耐え切れなくなり自殺を図った――。  しかし、輝流は薄々気づいていた。晴也の死の真相は違うものだったと。  海沿いの倉庫で駈と共に最後に目にした晴也の姿を思い出すと今でも背筋が冷たくなる。  狂気に満ちた赤い瞳に殺意を漲らせ、自分たちを睨んでいた彼……。  そして、気を失って間もなく。遠くで輝流の鼓膜を震わせたのは一発の銃声だった。  あの傲慢な男が自身で命を断つとは思えなかった。大切なものを守るために、そしてすべてを終わらせるために何らかの力が働いた――と。 「輝流さま……」  車の後部座席でぼんやりとしていた輝流は、すぐそばで自分の名を囁く低い声に顔を上げた。  ゆっくりと視線を動かしながら隣に脚を組んで座る黒髪の青年を見つめる。 「――その呼び方、やめろよ」 「なぜです? 正式な婚姻が交わされるのは二年後。それまで私は貴方の従者です」  端正な顔立ち、野性的な瞳、きちんとセットされた髪には乱れがない。  濃紺のスーツを纏い、輝流を覗き込む彼の香りにふっと口元を綻ばす。わずかに舌先を覗かせて目を細めてみせた。 「香水、変えた?」 「いいえ……」 「――良かった。俺、その香り好きだから」  輝流の柔らかな声に、駈もまた口元を綻ばせて言った。 「それは、キスのおねだりですか?」  言いながら輝流の唇をそっと啄んだ駈は、舌先で彼の舌を優しく愛撫した。 「はぁ……うっ……んん」  ピチャッと音を立てて離れた舌が名残惜しそうに震える。  期待していたものが呆気なく終わってしまった輝流は、少しムッとした顔で駈を睨んだ。  勝気な栗色の瞳がわずかに潤んでいるのは、数秒のキスでも欲情してしまった証拠だ。 「そのご様子では、昨夜はご満足いただけなかったようですね。私としたことが……申し訳ありません」 「別に……。そんなこと一言も言ってないし。お前の場合、発情期とか関係ないもんな……」  互いの想いが通じ合い、輝流の発情期以外でも体を重ねるようになった二人。  α同士でも妊娠しない事はないが、確率は格段に下がる。  それ故に、α同士のカップルには子が出来にくいということもあり、国から不妊治療などの特別な政策がとられている。 「――ありますよ。輝流さまのフェロモンの影響がない分、少しだけ精液の量が少なくなります」 「あんだけ出しといて、マジかよ……っ。妊娠したら責任とれよ」  制服のブレザーを捲りあげて、下腹のあたりをこれ見よがしに擦って見せる。  そこは誰が見ても不自然に膨らんでいた。  駈はクスッと肩をすくめて笑うと、輝流の柔らかな髪にキスを落としながら言った。 「もちろんっ。私たちの子ですからね……」 「言っとくけど! 俺、まだ高校生だからなっ。ボテ腹で通学とか……あり得ないし」 「ご安心下さい。α同士のセックスでの妊娠率は限りなく低いですから……。ただ、貴方が発情期になった時の方が心配ですね」 「他人事かっ! ゴムつけろっ。中で出すな……」 「おや?「中で出して」と懇願されれば、主の命令に背くわけにはいきませんから」 「こう言う時だけ執事ヅラするなよ。お前は俺の……お、おっ……となんだぞっ」  顔を真っ赤に染めてプイッと顔を背けた輝流に、駈はワイシャツの襟から覗いた自身の噛み痕にそっと唇を寄せた。  微かなソープの香りと、発情期以外でも輝流が発する甘い花の香りが混ざり合い、心地よく鼻孔をくすぐる。 「――可愛い妻だな」 「うるさいっ」 「また啼かせたくなる……」  首筋から項に掛けてキスを繰り返す駈は、青みがかかった黒い瞳を妖しく揺らした。  今までと変わらない会話。でも、その端々に散りばめられた言葉にはそれまでなかった『愛情』が見え隠れしている。  勝気で、素直に気持ちを口に出すことを拒む輝流もまた、駈との関係の変化に戸惑いながらも自然と受け入れていた。  機嫌を損ねてしまった輝流からタイミングを見計らってそっと離れた駈は、長い脚を組み替えながら窓の外に視線を向けた。 (高校在学中は妊娠することはないから、安心しろ……)  彼とのセックスの際には必ず服用する殺精剤。医師の処方がなければ手に入れることは難しい。  駈は、この薬が慢性化し、効き目が薄れない事を祈るばかりだった。  たった二年……。その年月を長いと感じるか短いと感じるか。  わずかに目を伏せたまま、反対側の窓の外を見つめる輝流を盗み見る。  華奢であるがしなやかな背中、捩じったウェストに寄ったブレザーの皺、肉付きの薄いヒップライン。  こんな体で子供を産めるのか不安はある。だが、Ωの体は状況に応じて変化を続ける。  駈は無意識に吐いたため息にハッと顔を上げた。 「――輝流さま、間もなく到着いたします」  メイン道路を左折して学校のある通りへと向かう。彼の声に振り返った輝流は、シートに片手をついて体を傾けた。  栗色の髪がさらりと落ち、駈の唇に触れるだけのキスをした。 「行ってらっしゃい。お仕事、頑張ってね」  つい数分前までの不機嫌はどこに行ったのだろう。  はにかむように笑った輝流に、シートについたままの手を掴み寄せると、今度は駈の方から唇を重ねた。 「貴方も……。気をつけて」 「んん……っ」  瞬時に舌を絡めとられ、輝流は小さく喘いだ。唇が離れると同時に小さな声で「新婚夫婦かっ」と照れ隠しの毒を吐く。  それを毒と思うことなく嬉しそうに微笑んだ駈は、そっと彼の耳元で囁いた。 「蜜月はもっと、もっと甘くなりますよ……」  ***** 「あ~! もう、ホント疲れたっ。帰りたい……っ」  国内有数の高級ホテルで行われた野宮家一族が介する会議で、駈は正式に当主として認められた。  そして、それまで秘密裏とされていた戸籍の改ざんと輝流の出生についての詳細も明かし、彼は本当の野宮 駈となった。  同時に、輝流との入籍を済ませた後で関係者を招待してのパーティ―では当主としての落ち着きと威厳を見せつけ、早くも一目置かれる存在となった。  そんな彼に付き合い、普段着なれないスーツで過ごした輝流は、ホテルの最上階にある屋上庭園に足を踏み入れるなり大きく背伸びをした。  一画に設えられた一面ガラス張りの温室には季節を問わず様々な花が咲き乱れ、ここに来る者たちの目を楽しませている。外部にも木製のベンチが並び、ビル街を見下ろしながらのティータイムが楽しめる。夜になれば宝石を散りばめたような景色が一望出来、カウンターでアルコール類もオーダーすることも可能だ。  人の顔色を見ながらの愛想笑いにも疲れ、高層にあるにもかかわらずそう強くもないひんやりとした夜風が火照った顔に心地いい。  高校を卒業し、エスカレーターで私立大学へと進学した輝流は、以前よりも少しだけ背も伸びていた。  肩幅は相変わらず華奢ではあったが、最愛の男が「それでいい」というのだから、別段何かをしようという気も起らなかった。  ネクタイを緩めて深呼吸を繰り返す。次から次へと絶え間なく挨拶に来る関係者たちと、他愛のない話で盛り上がっていた彼に内緒で会場を抜け出してきた。  安全柵よりも内側に設置された唐草模様をあしらった鋳物製のフェンスに手をかけて、眼下に広がる夜景を見下ろした。  駈と初めて体を繋げて二年が経った。コントロールが出来なかったΩ性の発情期も三ヶ月に一度という周期が安定し、不安な時は抑制剤の服用で突発的な発症を避ける知恵もつけた。  運命の番の子を成すために精を求めるΩと、そのフェロモンにあてられて大量の精液を子宮に注ぐα。  輝流の発情期は一般的なΩより期間が短く、通常一週間前後であるものが三日間で終わってしまう。  その間は自我を失い、駈を求めてベッドで乱れ狂う。  しかし、輝流は発情期に限らず駈とのセックスに疑念を抱いていた。  彼が浮気をしている――という事は絶対にあり得ない。運命の血によって惹かれ合った者は、番った者以外に欲情しないということは駈を見ていれば十分すぎるほど分かる。  世間で絶世の美女と言われている女性が彼にアプローチして来ても、全く興味を示さないどころか冷たくあしらって相手の機嫌を損ねるほどだ。それは男性にも同じことが言える。  ならば、何の疑念があるというのだろう。  これ以上ないほどに愛され、大切にされている輝流。まだ何が足りないというのか。  左手の薬指に嵌めらた真新しい結婚指輪をそっと撫でてから、真っ平らな下腹をゆっくりと撫でた。  婚約を公表した当時はまだ幼く、自分が妊娠することに怯えていたフシもあった。妊娠することでまともな高校生活が送れなくなることが怖くて、セックスの度にコンドームの着用をそれとなく促していた。  そんな輝流の不安とは裏腹に、フェロモンにあてられた駈は暴走し大量の精液を中に注いだ。  愛する者の子を宿すことほど嬉しい事はない。だから、文句を言いながらもそれなりに覚悟は決めていた。  だが――今まで妊娠の兆候は一度も現れなかった。  Ω性の発情期に行われるセックスでは妊娠確率が従来の時よりも格段に上がると言われているにも関わらず、αの精を受けても妊娠しないとなると別の不安を抱かずにはいられなくなって来た。  輝流の脳裏に真っ先に浮かんだのは『不妊症』の文字。だが、密かに受けた検査では全く異常がなかった。  そうなると駈の方に原因があるのでは……と思い始めた。そんなある日、彼がセックスの前に薬を服用しているところを偶然目にしてしまったのだ。  翌日、彼の目を盗んでその薬の名称と成分・効能を調べた。その結果、輝流は言葉を失った。 「――こんなところにいたのか」  不意に背後から聞こえた低い声にハッと息を呑んで振り返ると、そこには風に黒髪を乱した駈が立っていた。  片手をスラックスのポケットに入れ、仕立てたオーダーのスーツを完璧に着こなした姿は、パーティー会場で目にするよりも野性的で、彼本来の様相を露わにしていた。  輝流を見るなり、その黒い瞳が薄っすらと青みを増していく。 「発情期が近いな……。そろそろ、うろつくのは控えたほうがいい」  スンッと鼻を鳴らした彼は、ゆっくりとした足取りで輝流との距離を縮めると、細い腰に両手を回して後ろから抱き寄せた。  ふわりと香る香水と駈が纏うオスの匂いに、輝流は小さく喘いで吐息した。  輝流の肩に顔を埋め、襟足を鼻でくすぐる駈の手をそっと握って言った。 「――ごめん。ちょっと息苦しくなって抜け出した」 「そうか……。気付かなくてすまなかった。大丈夫か?」 「う、うん……。風に当たったら楽になった。――ねぇ、駈?」 「ん?」  正式に婚姻を交わした二人は執事と主という関係は解消され、夫夫(ふうふ)として成り立っている。  駈の口調も本来のものへと変わり、輝流は少しだけ肩の荷が降りたような気がした。 「俺、悩んでる事があるんだ」 「どうした? 俺に言えない事か?」  驚いたように顔を上げた駈の気配を感じた輝流は、一度だけ唇をキュッと噛んだ。  こんな日に切り出すことではないと分かっている。でも、今日を逃したらこの先、一生言えないような気がした。  フェンスに掛けていた手に力を入れ、彼の顔を見ることなく切り出した。 「――どうして、俺……妊娠しないのかな。お前に愛されて、いっぱいセックスしてるのに」  すぐ後ろにいるはずの駈は黙ったままだ。輝流は、誰に言うでもなく独り言のように続けた。 「発情期のΩの着床率は100%って――あれ、嘘なんじゃないのか? しかもさ、αの精子もフェロモンの影響でいつもより多くなるって……。世の中には子供欲しいけど、出来ない男女夫婦もいるって言うし、男の俺がこんなこと悩むの変だと思うんだけどさっ」  輝流の腰に回された駈の手に力が入る。冷たい風が吹き抜けて、二人の髪を大きく乱した。  何かを責めるような風から逃げるように、再び輝流の肩に顔を埋めた駈は、ワイシャツの襟から覗いた噛み痕に唇を押し当てながら言った。 「――普段はαであるお前がΩになるんだ。まだ、お前の身体が安定していないんだろう。心配することはない。すぐに出来る」  掠れ声でそう言った駈の手を握って、輝流は大きく息を吸い込んだ。 「駈は欲しくないのか?」 「――欲しいよ」  何かを誤魔化すように執拗に首筋を攻める駈に、輝流は大きなため息をついた。  しばしの沈黙の後で、普段の輝流からは想像出来ないほど低い声が発せられた。 「――勝手なこと、してんじゃねぇよ」 「え?」 「お前さ、今までどんだけの精子殺した? その亡骸をどんだけ俺の中に注いだ?」 「輝流……」 「俺の子宮は精子の墓場じゃないんだよ。ここは、お前との子供を育てるために用意されたベッドなんだよ。そこに亡骸投げ込むとか……あり得ないだろっ」  息を呑んで動きを止めた駈に、輝流は目を閉じたまま続けた。  彼の顔を見ずとも腰に回された手の力と、それまで纏っていた畏怖が弱まったのはすぐに分かった。 (図星か……)  動揺する駈の姿は正直、見たくはなかった。  輝流の中で完璧な伴侶として成り立っている駈。そんな彼の『弱さ』を垣間見てしまったかのようで、胸が苦しかった。 「言い訳は聞きたくない。――でも、なんで薬なんか飲む必要があったんだよ。俺はお前との子を成すために結ばれたんじゃないのか? 先祖返りまでして……お前と巡り会ったのは運命じゃなかったのかよ。もし、俺の事で変な気を遣ってたとか言ったら怒るからな。俺だって……いつ妊娠するのかって不安で仕方なかったけど、お前の子供を身籠るならって覚悟は決めてたんだからなっ!」  輝流にはすべてがバレていた。それがいつ、どうして気付かれたのかは分からなかった。  すべてに於いて完璧だと思っていた駈。それが呆気なく伴侶によって暴かれた瞬間だった。  そこまでの決意を固め、自身と向き合ってくれていた輝流にどんな顔で謝ればいいのか分からない。  輝流にとって良かれと思ってしたことが、完全に裏目に出てしまったようだ。  生まれる前から彼の運命を翻弄し、結ばれた今でもまた紡いだ糸を縺れさせてしまう。  この糸が何事もなかったかのように解ける日は来るのだろうか……。 「――っ!」  瞬間……駈は猛省した。彼に対して隠し事は二度としまいと心に誓った。  腰に回した駈の手に落ちた滴。それは章太郎に「泣かさない」と誓ったはずの涙だと気付いたからだ。 「――すまない」 「謝って済むことかよっ! 俺に謝るんじゃなくて、殺した精子に謝れっ」  勢いよく体を反転させた輝流は、そのまま駈の首に両腕を絡め上目遣いで睨んだ。  いつになく機嫌が悪い。あんなことがバレれば誰でも怒りたくなる。  駈は、そんな彼へ『最善』を尽くそうと頭をフル回転させた。困ったように眉をハの字にし、いつになく弱気な表情をしていたことに、本人は全く気付いていなかった。  ムスッと唇をきつく結んでいた輝流が突然、豪快に吹き出した。 「ぶはっ! 何だよ、その顔っ! 野宮家の当主があり得ないだろっ」 「え? 俺の顔が何だと?」 「史上最悪のピンチって顔してるっ」 「そ、それは、お前が……っ」  激しく動揺し、予想以上に情けない声を出した駈に、輝流は笑いを何とか抑え込んで真正面から彼を見据えて言った。  その瞳は一点の曇りなく、どこまでも純粋な光を湛えていた。 「俺のせいにするなよっ!――あのさ、今は大学行ってるけどいつでも休学出来るから。お前との子供、欲しいんだよ……。だから今度、発情期が来たら絶対に薬、飲むなよ。俺も抑制剤は飲まない」 「輝流……」 「返事は?」 「え?」 「返事っ! 俺の言う事が聞けないの?」 「――は、はい」  予想以上に素直に頷いた駈に満面の笑みを浮かべた輝流はつま先立ちで背伸びをすると、彼の唇に自身の唇を重ねた。  彼の唇からふわりと香るのは先程まで飲んでいたブランデーの匂い。それを味わうかのように舌を忍ばせて絡ませる。  深く浅く、角度を変えて互いの口内を愛撫する。  舌先を吸い上げてチュッと音を立てては、濡れた唇を何度も啄む。  輝流の体から香る甘い匂いが庭園の花々を凌駕し、駈の体を包み込んでいく。  この男だけには抗えない。細く頼りなかった糸は、いつしか太い鎖となり幾重にも絡まっていく。 「――俺は一生、お前のしもべだよ」  あの夜の誓いをもう一度口にする。  年も離れ、見た目も幼い。だが、駈の中の輝流は、絶対的な権力を持つ覇者をたった一言で敗者にさせる威力を持った女王様だ。輝流が紡ぐ言葉はすべてが糧となり毒となる。  それが駈にとって、吉となるか凶となるかは駈の力量次第だ。尻に敷かれるつもりは毛頭ない。しかし、輝流を愛すれば愛するほど、彼のワガママに振り回されるであろう自分の姿が浮かぶ。 「なに、それ! もう主従ごっこは終わりだよ、駈っ。俺たちは同等。だって夫夫(ふうふ)なんだから……ね?」  さっきとは打って変わり、嬉しそうに声を弾ませる輝流の表情に自然と笑みが浮かぶ。 「――そうだな」  「だからぁ、隠し事は絶対にしないって誓って! 俺も全部、話すから……」 「ん? 何か隠してるのか?」 「ちが……っ! そんなもの、あるわけないだろっ」  ビル街の夜は空が霞んで星も見えない。幾重にも重なっていた雲が風に煽られて、それまで隠れていた月が雲間から顔を覗かせる。  ぼんやりとした月明かりに照らされた二人の足元に影が伸びていく。 「今日って満月だったのか……」  たった今気付いたかのように、空を見上げて輝流が声をあげると、上向いた顎を指で支えるようにして駈が唇を重ねた。 「う……っん」  彼の余計なお喋りを塞ぐにはこれが一番手っ取り早い。密着した彼の体の温度が上がっていくのをスーツ越しに感じ、同時にふわっと香った花の匂いに駈はうっとりと目を細める。  歯列をなぞり、舌を絡める。何度繰り返しても飽くことのないキス。  その度に輝流は美しくなっていく。  唇を触れ合わせたままで駈がそっと問う。 「――どこまで、俺を夢中にさせる気だ?」 「何のこと?」 「キスするたびにお前に堕ちていく自分がいる……。そして」 「そして……。なに?」 「俺の腕の中で発情するお前を待ってる」  鮮やかなブルーの瞳が輝流を捉えると、彼もまた妖艶に微笑んで見せる。  勝気な栗色の瞳が徐々に薄くなり、月の光を映したかのような金色に変わると、唇の端から短い牙を覗かせて小首を傾げた。 「――したいのか?」 「したいに決まっている」  駈の強烈な色気と共にオスの香りが放たれると、輝流は目を潤ませて舌を覗かせた。  体の中に渦巻く熱が急激にうねりを増して、全身を支配していく。  気怠さの中に生まれる欲情と愛に心臓が高鳴り、自然と胸を喘がせる。 「はぁ……はぁ……」 「輝流?」 「予定より……早く、来ちゃった……。せき……にん、とって」  誘うような甘い声と香り。一瞬覚えた眩暈を振り払うように輝流の手首を掴んだ駈は足早に歩き出した。  その時、庭園の入口から響いた声に忌々し気に振り返る。 「こんなところにいらっしゃったのですかっ! 主役がパーティーを抜け出すとは何事ですかっ」  息を切らして駆け寄ったのは章太郎だった。輝流の実の父親であり、駈にとっても今は義父となった彼。  執事長であった駈が当主になった事で、家令の地位を解かれ執事長へと戻り、多忙な日々を過ごしていた。今夜のパーティーも彼がいなければ成り立たなかっただろうと思える完璧な仕切りだった。  白髪がちらほらと見え始めた章太郎は寄り添う二人を睨みつけると、厳しい口調で言った。 「もっと当主としての自覚を持ちなさい。大切なお客様がお待ちだ……」  駈の腕にしがみ付くようにして荒い呼吸を繰り返している輝流に気付いた彼は、はっと息を呑んで駈を見た。  身じろぐたびに漂う甘い香りに、眉をキュッと顰めた。 「まさか……っ」 「その、まさかだ。父上、あとはお任せしてもよろしいでしょうか?」 「な……っ! 駈、お前はっ」 「輝流の欲情を静められるのは俺だけですよ? お忘れですか?」 「いや……。でもっ」  言いかけた言葉を遮る様に歩き出した駈に、章太郎は慌てて声をあげた。 「駈っ! お前だけでも残れないのかっ」  硬い靴音がピタリと止み、駈は輝流を腕に抱き寄せて振り返った。  乱れた長い前髪が風にそよぎ、ブルーの瞳が野性味を帯びる。  その横でうっとりと彼を見上げる輝流もまた、妖艶な空気を纏っていた。  彼らの足元に伸びた影はもはや人間ではなく、二頭の狼が寄り添うように見えた。 「お前たち……っ」  二人が放つ高貴な気に圧倒された章太郎は息を呑んだまま動けなくなった。 「――近いうちに、その手に可愛い孫を抱かせてあげますよ。父上」  クスッと笑った駈は、ふらつく輝流を勢いよく抱き上げると颯爽と去って行った。  その背中を止める事も出来ずに見送った章太郎は、諦めたように大きなため息をついてから、自身の両手を広げてじっと見つめた。 「可愛い孫――か」  じんわりと胸が熱くなり始めている。二人が契りを結んでから二年――やっと待ち望んでいた事が訪れる。  輝流に気を遣っていた駈も、もう薬を飲む必要はない。  昔から勘のいい輝流の事だ。おそらく薬の事は分かっていただろう。  あの傲岸なオレ様男が輝流にこっ酷く叱られている光景を思い浮かべ、章太郎は思わず口元を緩めた。  運命に翻弄され、紆余曲折あった二人の糸は確かなものになった   野宮の血に振り回され、それこそ章太郎自身が一番の被害者だと思っていた頃もあった。しかし、今は違う。  すべてを振り払い、真実の愛を結んだ二人の側にいられることは、二人の父親として感慨深いものがある。  偽りの闇を押し退けるかのように姿を現した満月を見上げ、章太郎は一筋だけ涙を流した。  運命は時に残酷で、生きることさえ阻もうとする。  翻弄された『番』はその尊い存在に気付くことなく、運命という名の糸を絡ませ、あらぬ方向へと縺れさせていく。  疑念、自責、嫉妬、復讐――。互いに傷つけ合い、そして見つめ合う。  心に巣食った闇を振り払うのは愛。それを受け入れた時、どんな運命にも立ち向かうことが出来る。 『運命の番』――駈と輝流が成すものは、未来を見据えた純粋な想い。  二人の指先が真っ白いシーツの上で、吐息と共に絡んで解ける。  柔らかな温もりに包まれながら、首筋にそっと牙を押し当てて。  むせ返るような甘い香りと快楽の中で青と金の獣が交わり、新しい命を成す。  αとΩ。二つの性が重なった時、縺れた糸はゆっくりとしなやかに解けて真実の愛が生まれていく。  強く美しい新たな糸を紡ぎながら、二人の運命がまた――動き始めた。                                                                        (終)

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