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琥珀の蛇

───ネオ・トーキョーに雨が降る。 犬塚(いぬづか)は憂鬱な気分で指定されたホテルへ向かった。ただでさえ気が滅入るのに、 雨で古傷が疼くのだ。 犬塚はフリーの“掃除屋”、いわゆる殺し屋稼業をしている。それなりに優秀で、まだ若いが裏世界ではそこそこ名が知れていた。 今から依頼人に会いに行くのだが……気が進まない。 犬塚はボサボサの栗毛の鬘を被り、少し色の入った黒ぶち眼鏡をかけた。簡単な変装だが、すっきりと整った顔と青い瞳を隠すには十分だ。 これから会う依頼人、竜蛇(たつだ)はヤクザだ。蛇堂組の組長で金払いがいい。 依頼人がヤクザだろうと気にしないが、犬塚はどうにもこの男が苦手なのだ。その報酬の良さとやり甲斐のある仕事内容につい惹かれて、何度か依頼を引き受けていた。 ───だが、これで最後だ。 ヨーロッパから、でかい仕事の話がきている。犬塚に殺しの技術を教えた男、ブランカが声をかけてきたのだ。 犬塚は孤児だ。幼い頃にペドフェリアの金持ち男のオモチャになっていたところをブランカに救われた。たまたま男がブランカの標的だっただけなのだが。 少児性愛者の返り血を浴びた姿で「自分を殺すか、連れて行ってほしい」と、まっすぐに見つめて言った幼い犬塚をブランカは連れ帰った。 犬塚は彼のためならいつでも死ねるし、なんだってやる。そう言う度にブランカは「お前は殺し屋稼業に向いていない」と答えた。 いつでも彼の為に動けるようにフリーでいるのだ。 今回はそのブランカが腕のある殺し屋数人を集めてデカい仕事をするようで、犬塚にも声がかかった。 日本での仕事はこれで最後。このままヨーロッパに移り住もうと犬塚は考えていた。 指定されたホテルの部屋の前に到着した。犬塚は憂鬱な気持ちを振り払うように、深く息を吐いてからドアを開けた。 部屋ではすでに竜蛇が待っていた。 黒いスーツに黒いシャツ、全身黒づくめの竜蛇はソファに座り、長い脚を優雅に組んでいる。モデルのような長身に細身のスーツがよく似合っていた。 歳は三十代半ばでスタイルがよく、くすんだ金茶の髪と印象的な琥珀色の瞳をしている。一見優男にも見える美しい顔立ちをしており、この男ほど美しい男はモデルでもそうは居ない。 だが、その体は無駄なく鍛えられ、目には全く隙が無い。 一対一の接近戦になれば、犬塚とて負けるかもしれない。 この日本では生粋の日本人はもはや死にかけの年寄りか、若い者はごく少数しか存在していない。 少子化対策で大々的に行われた移民制度は治安を悪化させた。 平和ボケした日本人は外国人マフィアの食い物になった。 生き延びるために強い血統と血は混じり、純潔の日本人はもはや絶滅危惧種だった。 なので「日本人」でも竜蛇のように目の色、髪の色が黒くない者は多くいた。 「久しぶりだね、 犬塚。相変わらずお前は可愛い顔をしてるね。思わず食べてしまいたくなるよ」 「どうも」 ……これだ。これだから犬塚は竜蛇が苦手なのだ。 冷たい琥珀色の瞳を細めて、それこそ蛇のように犬塚の肢体を眺める竜蛇を無視して続ける。 「で、依頼と言うのは?」 「ああ。ちょっと欲しいものがあってね。それが前金だ」 ローテーブルにシルバーのアタッシュケースが三つ並んで置いてある。 随分と羽振りがいい。中身を確認して、再度改めて聞く。 「で、依頼の内容は?」 「犬塚。俺の専属になれ」 「は?」 「俺の、専属に、なれ」 竜蛇は犬塚の目を見て、もう一度はっきりと言った。 「俺は誰の専属にもならない」 竜蛇の琥珀の瞳を睨み返し、犬塚はばっさり言い捨てた。 無駄な時間を使った。内心舌打したい気持ちだが、無表情の仮面を被り「話がそれだけなら帰る」と、立ち上がって帰ろうとした。 「悪い。言い方が違ったかな。俺のオンナになってくれないか?」 「はぁ!? 舐めてんのか? 馬鹿にするのもいい加減に……!」 タチの悪い冗談に付き合わされ苛立つ。竜蛇を睨みつけ……犬塚は硬直した。 目で殺す、 という表現があるが、今の竜蛇の視線がそれだ。 唇に優雅な笑みを浮かべているが、その目は全く笑っていない。 犬塚の肢体を荊で縛りあげるように、視線で捕らえてくる。 ───本気かよ!? ここにいてはいけない! 跳ねるように踵を返し、ドアを目指して走り出した。 ……が、すぐに脚がもつれ無様に倒れた。 「な……!?」 体が痺れて動けない。 ゆっくりと竜蛇が立ち上がり、犬塚に近付く。 「お前を舐めてなんかいないし、馬鹿にもしていないよ。犬塚 」 薄れる意識の中で見上げた竜蛇は、美しい微笑を浮かべていた。竜蛇は人差し指を優雅に天井に向ける。まるでクラシックな映画に出てくる俳優のように。 「この部屋の空調に神経毒を仕込んでおいた。ドイツで新しく開発されたものだから、全く気付かなかっただろう?」 竜蛇は予め解毒剤を飲んでいた。 「毒といってもしばらく動けなくなるだけだから、安心してお休み。犬塚」 ───ちくしょう!! 油断した!! 竜蛇の骨張った指先が瞼に触れ、犬塚は意識を手放した。

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