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コーヒー1杯分の

 最愛の人が、死んだ。  スマホが低く震え、バイブ音の大きさに肩をふるわした。耳をスピーカーに当てると、「明治啓太さんの同居の方ですか?」と穏やかな声がした。男だった。  嫌な予感が、頭を過ぎっていた。啓太とは、5年のつきあいだった。つきあいとは、友人づきあいという意味ではなくて、恋人としてだ。同居してからは3年。ろくな親戚のいない俺と違い、啓太は、田舎の親戚に「結婚、結婚」とせっつかれている。  一緒に実家へおじゃましたとき、真顔になって啓太は「親戚と縁遠くなっても良いから、言いふらしたい」と言いかけた。ぐいとあごを引き寄せて、無理やり唇を奪った。男しか愛せない俺と違って、啓太はもしかしたら、この先に女との未来があったかもしれない。そう思うと、その言葉を最後まで言わせたくなかった。  なにも決まった訳じゃない、と自分に言い聞かせながら、俺は頷いた。「男性だったのですね」と若干の戸惑いを感じる男の声に、啓太が、どうかしましたか、と訊ねると、ご家族の方ですか?とその声は応えた。「いいえ」とも「はい」とも言いたくはなくて黙りこくると、男は「啓太さんが、○○病院でお待ちです、受付にお越しください」と言ってあっさりと切った。  声から漂う悲壮な空気に、吐き気がした。  通話を終えて、立ち上がる。スマホを探した。手元にあるのに、眼鏡も探し、財布も探した。病院なら、保険証がいるだろうと思って、啓太の定位置だったミニ書斎の机を探った。何も出てこず、本棚を探している途中で、啓太は自分の財布に入れて持ち歩いていたことに気付いた。  自分が自分の体でないようだった。一言で言えば、心と体が悲鳴を上げていた。あのときの俺はどうにかしていて、本当に悲痛だった。  病院に着くと、まっすぐ受付へ向かった。明治啓太さんが……と言うとすぐにはっとして、受付の人は奥に走って人を呼んだ。医者だった。  俺は医者に良い思い出がなかった。嫌がる俺に注射を押しつける悪徳医者から始まり、俺の処女を散らしたのも、俺の童貞を奪ったのも、なぜか医者だった。そいつらとは、三日から2年くらいのつきあいはあった(この場合のつきあいは、恋人でなくセフレだ)が、今はもう知らない。 「明治啓太さんの……同居者の方ですね?」  声を出さず、ただ何度も頷く。気は逸るばかりで、医者の脂汗にすら、啓太になにがあったかとか、そんな忖度をしてしまう。 「あの、啓太になにか起きたんですか。倒れたとか、事故…とか」 「落ち着いて。あなたが焦っても、何も変わりませんよ。……こちらへ」  同居者が女でなく男であったことに不審感はあったようだが、医者はとりあえずといった風情でこちらに背を向けた。なにかを話しかけられた気がしたが、なにも言えなかった。ただ、医者の声色で、啓太にただならぬことが起きたのはわかった。  ICUと書かれたそこは、ドラマの中の世界だった。中には入れず、外でぼんやりと見える啓太を夢のように見ていた。 「明治啓太さんは、1時間前、○○駅で事故に遭い、骨折と臓器の損傷・破裂が起きています。現在集中治療中ですが、あと2時間以内に手術をしなければ」 「そんな」 「心中お察しします。手術の同意書へのサインですが……重ねてお聞きしますが、ご血族の方ではありませんね?」 「………」  啓太を呆然と見る。厚い透明の板の向こうにいる彼に、痛みの表情はない。苦しさもない。まるで、もう死んでしまったようだ。 「パートナーシップ宣言はお済みですか?」 「……いいえ…」 「…この病院では、手術の同意書のご記入は、法律上のご家族のみとなっています。啓太さんの、ご家族へ、ご連絡いただけますか?」 「――――無理ですよ」  啓太の実家はかなり遠い。一番ここに近いお姉さんは、出張中で実家の方にいる。もし仮に、来られたとしても、二時間以内ではない。ご家族が来る頃、啓太は多分、死んでいる。俺には、どうすることもできない。  親指を内側にして、きゅっと握り込む。啓太が死ぬ。なのに、俺は何もできない。医者じゃないから手術できないし、神さまじゃないから、啓太に命を与えることもできない。 「無理ですよ、彼の実家は、ここから三時間以上かかるんですよ? しかも農家で、繁忙期だから畑に出ずっぱり。無線で連絡を取り合うような田舎で、線が引いてある電話は、家の中に一機だけ。子機はない。無理ですよ、啓太は……」 「落ち着いてくださいと言ったでしょう。誰よりも信じるべきあなたが、明治さんを信じずに、誰が信じるんですか」 「しかし…」 「たしかにいつ容態が急変するかはわかりません。内縁としての事例でサインしていただけないか、早急にこちらも上と掛け合ってみます。あなたが諦めないでください。我々と、明治さんを信じてください」  初対面の人間に、こんなに信じろと言われたのは、初めてだった。  一年前に一度、啓太にプロポーズされた。プロポーズなんて言うと、男と女っぽくって、吐き気がする。同じ意味で、俺は“結婚”と言う言葉が嫌いだ。  自分の名前だけ書いたパートナーシップ宣誓書とプラチナの指輪を差し出して、啓太は「結婚して欲しい」と言った。 「形の上でも、一生一緒にいられる権利が欲しい」 「いやだ」  啓太は好きだった。すごく好きだ。けど、俺に啓太の一生を縛る権利なんていらなかった。  透明な厚いガラスのような、目に見えないけれどすごく強い、根拠ない不安があった。きっと啓太は、そのうちに俺の前から消えて、女と幸せになるんだろう、という。啓太は、傷ついた顔をして仕方ないか、と笑った。 「1年後、また同じ日に言うから」  その日は、まだ来ていない。  医者は、固く拳を作った俺の手を、両の手で包み込んでくれた。俺は、お願いしますと懇願するしかなかった。  誰もが、頑張ってくれた。俺と話をしてくれた医者は、本当に上と掛け合ってくれたし、それで同意書へサインまでできた。啓太は、本当に助かる気がした。啓太を助けてくれるなら、今ならなんでもしてしまいそうだった。……啓太の容態が急変したのは、手術室に入り、わずか三分後だった。  俺たち(田舎から駆けつけた、啓太のお母さん、お姉さんとお兄さんと、俺)の元へもどってきた啓太は、まだ肌にもはりがあって、顔は青ざめていた。すべて管や電子機器は外されていて、しんとした室内の温度が、やたら低かった。頬から胸にかけて、裂けたような大きな傷があって、あまりの痛々しさに、目を覆う。駆け寄るご家族を尻目に、俺は、その場に崩れ落ちた。  目の前の光景を信じられなかった。信じたくなかった。今朝別れたばかりの啓太の笑顔が、頭を過ぎった。 「由紀さん」  いつの間にか、お母さんが俺の前に立っていた。端まできちとんとアイロンがかかったハンカチを差し出してくれている。ありがとうございます、と受け取り、小さく笑った。お母さんは、こんな時にまで笑わないの、と子どもをあやすように撫でてくれた。  朝から晩まで働いて、疲れているだろうに、啓太と明治家へ行くと、いつでも明るく出迎えてくれた。男同士のカップルも、同棲も、「まあまあ」と上品に口元を抑えるだけで、必要以上に驚くことはなかった。芯の強い人で、優しい人だった。それは、他の明治家の人も同じだ。温かい家族だった。 「ごめんね、大変なときにそばにいられなくって」 「いや、俺が、啓太と……」 「啓太が死んだのを、自分のせいにしないでね。お願い」 「お母さん…」 「啓太が死んだのは、……きっと仕方ないことだったのよ」 「けど、俺がわがままを言わずに、お母さんや啓太の言うように、宣言、していれば…」 「たらればは、やめましょう? 切りがないもの」 「そうだよ、ユキ。それを言ったら、俺たちだって一人も近くに住んでなかったのが悪い」 「スープが冷めない距離、っていうでしょ? 同居しない家族の距離」 「……でも」 「でも、たら、れば、はおしまい。だれも喜ばないわ」 「……」  ほら、と言ってお兄さんは、腕を引っ張って立たせてくれた。足が冷たくなっていて、動きづらかった。足を引き釣りながら、寝ている啓太の元へ歩いて行く。  啓太は朝が苦手で、起きようとしてベッドから落ちて、顔に傷を付けるのなんて、しょっちゅうだった。……こんなに大きな傷は、見たことがないけれど。 「ほら、野暮はよして外へ出ましょうね」  お母さんが気を遣って外へ出てくれた。啓太の遺体はこのあと、司法解剖に回されるらしく、警察の人が外にいた。お疲れさまです、というお堅い声が耳朶を打つ。 「啓太…」  近づいていても、死んでいるか寝ているかわからなかった。手を握ると、少しだけ暖かくて、まだ柔らかい。今にも目を覚まして、ベッドに引きずり込んできそうだった。けれど強く握ると、俺の手の形がくっきり付いて痛々しい。  血の付いた髪の毛は、固まっていて、どれほど出血があったかを知らせていた。大きく傷ついた頬から胸は、きちんと拭かれていて、他の場所は服に覆われて見えない。 「…けいた」  もう啓太は死んだ。ここにはもういない。俺の声には応えない。 「あのさ、ほんとにごめんな。俺は、お前が本当に、好きだったんだ。言えなかったけど、本当にさ、馬鹿だよな、おれ」  好きだよ、と啓太の声が聞こえた。抱きしめる腕の温かさ。デスクワークのくせに休みの日はちゃんとジムで鍛えていて、抱きしめ返すと、胸板が厚くて、しっかり『ああ、こいつは生きてるんだ』という感触があった。それが好きだった。ハグは苦手だったけど、こいつとするのは、本当に好きだった。 「嫌いなとこも、たくさんあったけど、なんでかお前のこと好きだった。今度こそ無理だって大げんかしてもさ、嫌いにゃなれなくて、なんでか、『こいつじゃなきゃだめだ』って思っててさ、……なんで、俺じゃなくてお前が先に死ぬんだよ」  指先が震えたまま、頬を撫でる。啓太の最期の姿なのに、視界が煙った。  ごめんな、啓太、とつぶやくと、啓太の頬に涙が流れ落ちた。 「遺品は、由紀さんの好きにしてちょうだい。アルバムとか、写真とかあったら、欲しいけれど…いいえ、好きにして良いわ。啓太も、あなたに持っていて欲しいと思うだろうし」  お母さんの言葉に甘えて、俺は一人で啓太の遺品を整理することにした。そういう業者も今どきあるらしいけれど、頼むことはしなかった。  けれど、啓太が死んでから二週間、俺はマンションに帰ること自体が少なくなった。啓太の空気が色濃く残る部屋は、俺には耐えられなかった。まず、たばこを再開した。鼻がおかしくなって、啓太の匂いは啓太の部屋以外でしなくなった。  もう、「俺より先に死ぬのはいやだから」なんて言うやつは、この世にいないのだからと、投げやりになった。  そして、3日目にはハッテン場に入り浸るようになった。誰でも良くて、昔のように金で体を買わせた。もちろん、そういうヤツらばかりじゃなくて、遊ぶなら俺と恋人になってよ、なんていう奴もいた。無言で、金を返して逃げてきた。 「……ただいま」  久しぶりに、マンションへ帰ってきた。空気がよどんでいる。  都内の2LDK、小さめファミリー向けマンションのうちの一室だ。二人で住もうと決めてから、お互い少しずつ譲り合って、ここを買った。名義は俺だけれど、半分ずつお金を出し合って……啓太が、二人の愛の城だな、なんて冗談っぽく笑っていた。  お湯を沸かして、お湯入れ三分。味のしない麺類が完成した。  テレビを付けてると、空間が音で埋まるような気がした。啓太の趣味で買った天板がガラスのローテーブルに、たまたまあった紅茶とカップ麺を置いて、ソファに座った。やけにソファが広くて、やはり落ち着かなかった。 「どうするかなあ」  大学生の頃は、これでも一人暮らしをしていた。啓太と同棲していた頃だって、朝に弱い啓太のために、朝食を作ったりもしていたはずだ。啓太が飲みに出ていなくて、一人で夜を明かすこともあったはずなのに、俺はすっかり、一人での過ごし方を忘れてしまっていた。 「とりあえず、お母さんのために写真は別にして……ああ、スマホの中の写真も、印刷してあげよう…」  二人で行った旅行とか、写真を送るといつも嬉しそうに電話を掛けてきて、お土産よろしく、と言ってくれた。 「ああ…服とかも、捨てようかな。サイズ合わねえし。……やっぱ、一人でやんのしんどいわ。時間も…業者頼めば、よかった…」  明日から、土日で仕事もない。同居人が死んだことを職場に伝えると、しばらく残業が免除されたから、余計時間をもてあますことになっていた。せめて、今日明日で終えないと、諸々の手続きの、一番近い期限はだいたい二週間らしいから、色々困ることが起こるみたいだ。 「あーあ…」  食欲はなくなってしまって、せっかく買ったカップ麺を生ゴミに捨てた。体中も疲れ切って、心も疲弊しきった。俺は、マンションへ帰ると空っぽになってしまう。啓太に育ててもらった見た目以外の部分が、全部消え失せてしまった。感情がとても重くて、ソファの上に転がると、すぐに寝てしまった。  朝は今まで以上につらかった。目覚めのコーヒーがなくなったのも大きい。  啓太のことは、二週間前に思い出すのをやめた。思い出す度に頭が痛くなって、手が止まってしまうからだ。 「これは…いいか。というか、ここからここまでは、全部捨てよ」  独り言はもっと酷くなった。言葉をぶつぶつつぶやいている間は、何も考えていないですむことに気付いた。 クローゼットを開けて三つ目のゴミ袋が、埋まった。 「あ、もういっぱいか。業者に持って行ってもらえば……あ? なんだこれ」  一冊の、表題のないぼろぼろの大学ノートだった。  啓太は、ノートに表題を付ける癖があった。 同棲をはじめたばかりの頃、同棲会議をしていた。一年くらい続いて、そういうものがなくても二人暮らしが運営できるようになって、形としてはなくなった。その時、啓太が付けていたノートは「生活会議」。  仕事で使うノートには「仕事ノート」。  アイデアを纏めるノートには「アイデア帳」。  日記には「Diary」。  家事を纏めたり、週で作る料理を決めたりするためのノートは「レシピ帳」。  単純だが、必ずこうすると決めているようで、ストック以外のノートには「雑記」「無題」を含め、すべて表題があった。  だからこそ、このノートが異様に見えた。  昼ご飯を久々に家で食べる。自分のためだけに飯を作るのは、本当に久々だった。  ノートは、売ることにしたローテーブルの上にとりあえず置いた。売ることにしたと言っても、テレビが見えるのはこのテーブルからなので、すぐに新しいテーブルを買うかもしれないが。次はこたつが良いかもしれない、とインテリアに全くそぐわないものを思い浮かべた。  とりあえずスパゲッティを食べ、余ってしまったミートソースは冷凍して、いつか使うことにした。 「さて…」  目の前に大学ノートを置いた。どう考えても啓太のものだが、啓太らしくないそのノートに緊張してしまう。仕事用のノートは啓太の同僚の方に預けて、他はすべて捨てた。俺と話しながら、大きい文字でノートに書いている啓太を思い出すと、捨てずにはいられなかった。 「……」 1ページ目を開くと、そこに表題があった。前書きに近いかも知れない。 「…『エンディングノート』」  人間、いつどうなるかわからないこと。もしかしたら、若い自分の方が、由紀よりも先に死ぬかもしれないこと。その死に方が、病気みたいに『いつかは分からないけれど、確実に死に近付いていく』死に方じゃなくて、事故や殺人かもしれないこと。もし、自分が死んだら、こうして欲しいと言うことを、書き残します。そんなだいぶ昔の啓太の字が、語るように書かれていた。驚くべきは、その日付で、同棲を始めた三年前の四月だった。  胸の奥で、熾火のように熱いものが燃えた気がした。けれど、無視してページをめくる。  目次、とあった。 『1、葬式について 2、遺品について 3、持ち家について 4、家族について 5、恋人について』  こいびと。その言葉に密かに籠もる熱に、閉口した。 『葬式について  してもしなくてもいい。するなら、由紀さんをちゃんと呼んで、家族葬にしてほしい。由紀さんを呼ばないつもりなら、葬式なんて必要ない。  もししなかったとしたら、せめてお棺の中に小さい頃から生きたときまでの写真を、いっぱいに詰めて欲しい。きっと、由紀さんとの思い出は、これからも増えていくから、二人でいっぱい写真を撮るから、その写真と一緒に燃やして欲しい』  耳元で、啓太のささやく声が聞こえるようだった。 『遺品について  全部捨ててくれて構わない。モノには思いがこもりやすいって言うから、売るより捨てて欲しい。PCは姉ちゃんに。コーヒーは、由紀さんがたくさん飲んでね。 もし、俺のものが欲しいって言う人がいたら、遠慮なく譲って欲しい(これは主に、仕事関係の本とかノート類。趣味で集めた画集とか、写真集とかの書籍は、家族と由紀さんに決めて欲しい)』 『持ち家について  由紀さんの名義になっているから、そのまま住み続けて欲しい。由紀さんは、嫌がるかも知れないけれど (矢印が伸びて脇に、俺だってあんな広い家に一人で暮らすのは嫌だし、と書かれている)』  自分でも嫌だと思うなら、ちゃんと痕跡を消してから死んで欲しかった。いや、死んで欲しくなかった。 『家族へ  先に逝ってしまったら、ごめんなさい。小さい頃から、迷惑掛けて、あげく上京しちゃって、すごく困らせたと思う。母さんは、父さんが死んでからも、いっぱい愛情を注いでくれたし、兄さんも姉ちゃんも、年が離れてるからっていっぱい甘やかしてくれた。恩を仇で返してしまうなら、もう本当に、死にたいくらい申し訳ない(死んでたらもっとごめん)。  母さん。俺たちの関係を認めて、応援してくれて、ありがとう。由紀さんは不器用だから、すごく接し方に迷ってたけど、母さんのこと、すごく好きだよ。俺がもしいなくなっても、ずっと、彼のことは好きでいて。もし仮に、彼のせいで(また矢印が伸びていて、言い方を考える、と)死ぬことになっても、俺はつきあったことになんの後悔もないし、後悔よりずっと、良い思い出しかないよ。だから、彼を恨まないで。きっと、由紀さんは全部受け止めようとするから。  追記1、母さん、俺たちだって喧嘩いっぱいしたよ。けど、その度に謝って、変わって、譲歩して、ちゃんと成長しながらつきあえたよ。大丈夫だから、心配しないでね。  追記2、パートナーシップ宣言、俺だってしたかったけど、由紀さんが不安がってしてくれない。もし、由紀さんがしなかったことを後悔してたら、責めるよりも頭撫でてあげてな。由紀さん、母さんに撫でられるの、嫌じゃないみたいだから。  兄さん。今まで本当にありがとう。由紀さんのこと、好きになってくれてありがとう。兄さんは野球帽かぶってた頃からずっと、俺の憧れだったよ。兄さんがいなかったら、俺は今の仕事についてなかったと思う。(多分ね!)俺は、兄さんのかっこよくて、ちょっと情けないところがすごく好きだよ。お義姉さんとさやちゃんと、お幸せにね。  追記1、長くらぶらぶな(?)家族でいるコツ。ごめんね、よりありがとうって言うこと。踏み込んで欲しくないことには、踏み込まないこと。秘密を話して欲しいなら、聞き掘り返すよりも、いつでも聞くよって思いながら普通に待つこと。 さやちゃん、多分反抗期になったら「お父さんと洗濯物いっしょにしないで!」って言うと思うけど、「そうだよなあ、俺もそうだったなあ」って思うこと。俺はまだ、ヤンキーになった兄さんに蹴られたこと、根に持ってるからな!  姉ちゃん。いつもかっこよくて、底抜けに明るくて、姉ちゃんと話すと、いつも「あ、大丈夫だ俺」って思えた。姉ちゃんが都会に出なきゃ、俺は上京しなかっただろうし、そもそも由紀さんと出会えなかった。すごく、本当に、感謝してる。もし良かったら、俺のデスクトップ、使って欲しいな。でも、豪快すぎてお義姉さん困らせないようにね! 兄弟、家族、円満。これ大事!  追記1、後悔しないように生きてね。もう、姉ちゃんの泣いた声、聞きたくないから』  手が止まった。この先に書かれることは、わかっている。  俺のことがたくさん書かれていた。お母さんへの文もそうだけど、俺はたくさん想われていた。不思議と涙は出なかった。この文章が、まるで啓太が生きているような錯覚に、陥らせてくれたからかもしれない。  ページをめくろうとすると、手が震えた。思わず立ち上がり、コーヒーを入れよう、と大声を上げた。いま俺は通常の思考回路ではなかった。  啓太は、インスタントも飲むけれど、豆にこだわり、ミルで挽いて、ハンドドリップする面倒なこだわり派だった。インスタントは、ただ「目が覚める」「時間がない」「たまにめんどう」という理由で、そのくせ新しいインスタントコーヒーが出ると、なぜか買っていた。  俺はと言うと、啓太の、湯の温度にもこだわり、俺の味覚に合わせた豆を選び、ドリップの方法にもこだわったコーヒーと、インスタントの違いも分からないようなバカ舌の持ち主だった。例のごとく面倒くさくてインスタントコーヒーを出した啓太に、「今日のコーヒー美味いな」なんて言って、大ひんしゅくを買ったことすらある。  ハンドドリップのやり方なんて分からないのに、啓太の見よう見まねで、ペーパーフィルターを折りセットして、粉(インスタントほど面倒なわけじゃないけれど、わざわざ挽くには面倒なときがあるらしく、粉もいつも買って置いてあった)をどばっと大量にいれ、とりあえず熱湯を注いだ。啓太はちょっと粉にお湯を注いで待っていたような気もするけれど、必要性が分からないので、とりあえず真ん中に熱湯を注ぐ。つーんと、コーヒーらしい苦い匂いが部屋中へ浸透する。  色の濃いコーヒーができると、かつてはお揃いだった自分のマグカップに注ぎ、飲んでみた。俺もやればできるじゃないか、と言う思いは、すぐに打ち砕かれた。 「あつ! にが! まっず!」  三拍子揃ってしまった。 「うわーまっず! なんだこれ」  インスタントコーヒーを知らずに褒めて、謝罪する俺に、まずいコーヒーは本当にひたすらまずいんだからな、と怒るでもなく頭を叩いて言った啓太を思い出した。その時は本当に意味が分からず、謝るしかしなかったが、なるほど、まずい。  なんでかわからんが酸っぱいし、なのにめちゃくちゃ苦いし、香りだけがやたらと良い。  「豆も器具もだいじだけど、何より大事なのは湯の温度と、湯のそそぎ方なんだよ!」と力説する啓太が、頭の中に生き生きと思い描けた。啓太が使っていた豆なのだから、悪いわけがない。器具だってそうだ。何が違ったのか? 明白だろう。 「なるほどなあ…」  ざらついたコーヒーの感触が、喉を蝕む。これはやばい。相当、まずい。しかし、流すのももったいない。 「……」  なんとなしに、二杯分できてしまったコーヒーを、啓太用だったマグカップに入れ、啓太の定位置だった二人がけソファの奥側に置いた。啓太はホットコーヒーばかり淹れるのに猫舌だったから、いつも大量に氷を入れて、即席アイスコーヒーにしていた。 「弔い酒ならぬ、弔いコーヒーだな」  カフェイン中毒のお前にぴったりだ、と目を細める。  隣に座って、コーヒーをあおった。俺は間違っていたよ、啓太。確かにお前のコーヒーは美味かったんだな、と、今更分かって、心の底から笑みが浮かんできた。 「さて」  ノートを膝に置いて、手に汗をかきながら、次のページをめくる。啓太と、啓太のコーヒーはもうないけれど、ようやく、啓太がいない事実を、少しだけ受け止められた気がした。 「……」 『由紀さんへ  由紀さん、なんて言うの照れるね。いつも由紀だもんな。すごいなんでか、これを書いてる最中、人妻の気分を味わったよ(笑)  俺がもし死んで、あるいは急にいなくなって、一番後悔するのは誰かなって考えると、由紀しか思いつかなかった。逆に、俺が一番思い残しがあるのは誰かって考えると、(思い残しとか、ほんとにしたくないんだけど)家族もそうだけど、由紀だって。  もし、これを書いたずっと後に俺が死んでも、由紀があんまり感情とか気持ちを出してくれないまんまだったら、由紀は「なんで俺は、好きだとかちゃんと言わなかったんだろう」と後悔するかな?(いや、ちょっとはしてほしいかも)。俺は俺で、そうなったら最期に由紀に「愛してる」って言えなかったなあって後悔する気がするけど。愛してるって、やっぱ変な感じだな。やめる。  出会ってくれてありがとう。姉ちゃんの元同僚って聞いてたから、初めての印象は、びっくりするぐらい悪かったけど、マイナスから印象がスタートすると、どんどん上がってくな。今、これ書いてる時点(付き合って二年、同棲初めて初めての月)だと、好きなとこもイヤーな所も、同じくらいあって困ってる。 (矢印が伸びて、追記1、同棲会議を何回もして、不摂生さがなくなってく由紀がめっちゃ可愛いなってなってる。かっこいいってほんとは言いたいけど、夜はがっついてくるし、朝は睡姦してくるド変態だし、コーヒーの味は全然わかんないし、情けないとこいっぱい知っちゃってるから、かっこいいなんて言えません。年と月と日を経るごとに、素を出してく由紀が、ほんとにやばい。と、今年の日付で書いてある)  告白してくれて、ありがとう。あのときのことは、日付以外ほとんど覚えてないんだけどな。俺は女の子としか付き合ったことなかったし、由紀はまともな恋愛したことなかったしで、すごく緊張した由紀の顔だけは、ずっと覚えてる。(追記、由紀が今よりずっとおぼこくて、動揺したから、余計忘れられない。多分死ぬまでずっと覚えてる、と書かれている)  ありがとうも、ここはいい加減にしろよもたくさんあるけど、キリないし、それだけでノートの半分以上が絶対に終わるから、書かない。いつか言う機会もあると思うし、あって欲しいから。  一つだけ、いつもは言えないことを書く。俺は結婚したいよ、由紀と。こうやって言うと、由紀はこの前みたいに「現行の法律じゃ同性婚じゃなくってパートナーシップだ」とか細かくつつくから、言わない。けど、したいよ。  たとえ、これを見ることなく由紀が死んでしまったら、俺は遺品整理より葬式より何より先に、フランスに飛んで、冥婚するよ。できるかは、わからないけど、せめて死んだ由紀の左の薬指に指輪くらい嵌めたい。あんまり良いことじゃないらしいけど(引きずられちゃうとかで)、今の俺はそうしたいなって思ってる。  きっと、俺が死んだらコーヒーの処分に困るだろうから、せめてもの慰めに、アイスコーヒー(水出しコーヒー)の淹れ方を書く。母さんや兄さん姉ちゃんと一緒に、弔い酒ならぬ、弔いコーヒーをしてほしい。 1、 コーヒー豆(もしくは粉)を用意する。缶の中に入ってるスプーンに、何グラム入るよって書いてあるから、ちゃんと見ること。 2、 コーヒー豆を中挽きにして、お茶パック(百均に売ってる不織布のやつ)に詰める。 3、 それを冷水筒とかの容器に入れて、粉の10倍量の水を注ぐ。 4、 冷蔵庫の中で、8時間くらい冷やす。 5、 コーヒー豆を取り出して、完成! まろやかでさわやかな、苦みのない味だから、夏にぴったり!  無理にホットコーヒーなんて飲まないこと。素人が適当に淹れるなら、せめてインスタント。味の違い、どうせわかんないんだろ。』 「……その通りだよ」  啓太には、全部バレてた。  俺がどういう道を歩いてきたか、どういう味覚の持ち主で、素はひどく臆病ものであること。啓太を喪ったことを受け止められないくせに、なんでもない振りをして逃げていることも。 「ばーか。……お前な、俺を置いてくなよ。初めてなんだからな、ちゃんと、付き合ったやつ」  口癖のように好きだって言った啓太に、いつも俺は小突いて返す以外しなかった。好きだとは口が裂けても言えなかった。いつかロマンチストな啓太が「ごめん、やっぱ子どもは欲しいし、結婚したいから」って言って出て行ってしまいそうで、怖かった。「こんなに幸せなんだから、いつかしっぺ返しが来る」と、確定もしていない不幸を恐れて、逃げ惑っていた。誰とも好き合ったことがなくて、まっすぐでまともな好意を返されたのは初めてだったから、余計に怯えた。 『追記2、由紀はいつも「子ども産めないぞ、男だから」って自分で自分貶めるみたいに言うけど、いつか日本でだって、同性のカップルが、子どもを養子に貰えるよ。もしかしたら、代理母出産が許可されて、俺たちの遺伝子を持った子どもに会えるかも知れない。  由紀はびびりだから、怖いのは分かってるけど、俺だって考えなしに色々言ってるわけじゃないんだからな』  一緒に暮らす前の、最初の二年は、男同士の珍しさからだろうとか、意外と夜の具合がよかったんだろうとか、そればっかり思ってた。我ながら卑屈だった。好きになって欲しい、なんて大口叩いておきながら、俺は怖がってばかりだった。好きだと言うのに怯え、恋人にしか許されない触れあいに怯え、啓太の熱っぽい視線を過剰に恐れた。何かきっかけがあれば、俺の元から離れていってしまうと、かたくなに信じて疑わなかった。  啓太からしたら丸きり逆で、なんで好きって最初の一度から言ってくれないんだろうとか、ハグすると逃げるし、ラブホ以外でさせないしで、それはそれで不安だったのだろう。  1年目の記念日に、怖がりな俺が「別れよう」というと、啓太は「俺はもう好きで、別れたくない」と言った。嘘だと思った。そんな都合良く、ストレートの男が自分を好きになることないと。 それから啓太は、「信じられないなら信じられるまでずっとつきまとうから」と、見たことのない必死な顔で言った。 『追記3、好きな所は、書きません。書いたら、由紀はそこがなくなったら俺と別れると思って、余計固くなって不自然になるから。俺が生きてる間に何かの拍子にこれを見て、「可愛げなくなったから別れよう」なんて言われたあかつきには、三重の意味で怒る。  1年目の記念日に、好きな所を言ったら、2年目は不自然にそこだけ見せてたことあっただろ。俺は、由紀のことが好きだけど、由紀の変に生真面目なのは、ほんとにやめて欲しい。俺は変化してく由紀がめちゃくちゃ好きだし、一生多分、その変化が好きだよ。  今、同居して2年目だけど、俺と性格が似てくる由紀を見て、ああ、家族っぽいなあってなるの、好きなの知らんだろ。言い方悪いけど、木材の経年劣化みたいに、どんどん俺の色に染まってく感じ。(病んでるみたいだから、気が済んだら消すこと)』 「ばーか」  本当に、俺も啓太もバカだ。  ひとしきり泣いてさっぱりしたあとに、啓太と最期の別れのとき、泣いてばかりでキスの一つもしなかったことに気がついた。後悔先に立たずとは、まさにこのことだ。傷の痛々しさと悲しさと、もうちょっと早くサインできていたら、と言う思いで、恋人っぽいなにかとか、すっかり頭から抜け落ちていた。 『追記4、俺が死んでも、必ず幸せになってください。俺は、あなたの人生の、ほんの一部にしかなれない。軽率にハッテン場とかに行って、簡単に股開いたり抱いたりしないこと。と言っても、一週間から一ヶ月は、これを見つけずに精神的に荒れるだろうから、それまではノーカンにしよう。  誰かと無理に添い遂げなくてもいいから、一生後悔のない生き方をしてほしい。  あと、これはわがままだけど、アイスコーヒーの淹れ方を、絶対忘れないで欲しい。コーヒーを一日に4、5杯飲む人は、ストレスを解しやすいらしいから。俺のことは忘れて良いから、コーヒーをたまに飲んで欲しい』  それが一番最近の日付だった。 「……わがままな、やつ」  独占欲全開だ。アイスコーヒー飲んだら、コーヒー大好きなやつを思い出すに決まってる。    もうすっかり、まずいコーヒーは冷めていたし、顔も涙でかぴかぴだった。まずい、といいながら、俺のマグカップに注いだコーヒーを飲み干して、ベランダへ出た。片付けも終わってないけれど、家のじめっとした空気が嫌だったのだ。  もうそろそろ、夏空だ。家の中から見上げた空は、梅雨らしくどんよりと重々しかったのに、外に出てみると、雲の切れ間から強い日差しが漏れているのに気がついた。雨上がりの街が、きらきらと照り輝いている。  電話を起動させて、ある場所へ掛ける。 「お母さん?」 『由紀さん。困ったことでもあった?』 「……啓太…さんの、遺書を見つけました」 『…!』  はっとお母さんが息を飲み込んだのが分かった。 『啓太は…啓太は、自殺だったの?』 「いいえ、なんというか、エンディングノートと、手紙を掛け合わせたもので…葬式の話や、ご家族へのお手紙があったので、ご報告を」 『ああ…』 「お母さん?」 『…いいえ、あの子がね、「もし俺が、由紀さんより先に死んだら、クローゼットの奥を見て欲しい」って言ってたのを、思い出して』 「……」 『三年も前のことだもの、忘れていたわ。病気だったわけでもないし、でも、本当に唐突に死んでしまうなんて…』 「……こんな、良いご家族がいて、先に死んでしまうなんて、啓太はとんだ不孝行者ですね」 『あら、俺という恋人を置いていってって言わないの?』 「……」 『ふふ、ごめんなさいね。パートナーシップの話を進めてたのは、私。啓太は、あなたが嫌がりそうって渋っていたけれど、何か自分たちが一緒にいたことを、形に残したがっていたわ』  じわりと、視界がにじんだ。電話の奥で、ユキ? 変われよ、お袋、とお兄さんの声がした。俺は慌ててしまい、とりあえず、メールでノートの写真を送りますね、と言って切ってしまった。    *  目を開けると、もう朝だった。外はもう梅雨明けのように晴れているらしい。  昨日のままの荒れた部屋が待っているので、体を起こすことがかなり億劫だった。腕はだるくて、足は内ももが引きつっている。喉も、いがいがとして苦しい。……と、そこまで思って気がついた。 「由紀」  懐かしい声がした。いや、実際はたった7時間振りくらいのはずなんだけれど、酷く長い夢を見ていた気分だ。  重くて暖かいかたまりが俺の上に乗り上げて、恋しい匂いが、鼻腔いっぱいに広がる。  ―――ああ、俺は、これを待っていたんだ。  俺は、啓太の鼻先へかみついた。深いコーヒーの匂いがした。 「いたっ」 「……」 「え、どうして泣いてんだ? 俺、なんかしたっけ」 「おはよう」  ん? と戸惑う啓太の頭を抑えて引きずり込み、噛みつくように口付けた。好きだ、という言葉がのど元まで出かかっていたけれど、それよりもずっと、啓太のぬくもりを味わいたかった。かち、と歯と歯がぶつかり合う音がする。 「あ……うん、おはよう…」 「なんだよ、その声。あーあ、体中が痛いなあ」 「そっちが悪いだろ……」  啓太の顔が曇る。昨日の夢で見た、空のようだった。  良いなあ、これ、と心の中でつぶやくと、自然に口が開いていた。言うことは、もう決まってる。あんな夢――啓太が、死んだ夢を見たからじゃなくて、本当は、ずっと言いたかったこと。 「な、啓太」  なに、と不機嫌な声が耳朶を打つ。焦げ茶の瞳が、わずかに苛立ちを浮かべていて、俺は逆に機嫌が良くなってしまった。 「俺、啓太のことが本当に好きでさ、結婚して、毎朝お前の美味いコーヒーが飲みたいな」

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