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プロローグ
物心がついたころから、さとりはいつも独りだった。
自分がいつ生まれたのかは覚えていない。なんのためにこの世に生を受けたのかも。ただ、気がつけば人里離れた山の奥で、人間たちからは「妖怪」と呼ばれる異形のものたちに囲まれて、自分もまたその仲間であることを知った。
妖怪たちから、さとりは激しく嫌われていた。忌まれていたといっても過言ではない。理由は簡単だ。さとりが周りのものたちの考えていることをわかってしまうからだ。
『考えていることがわかるなんて、気持ちの悪い子だねえ』
『見てごらんよ、あの目。一体あの頭の中で何を考えているのかゾッとするね』
『おお嫌だ。こっちを見たよ』
『死ねばいいのに』
『いっそのこと、あの細い首をこの手でキュッと絞め殺してやろうか』
悪意とも思える妖怪たちの心を読むたびに、小さなさとりの胸の中はすうすうとして、重たい石を呑み込んだようになった。その感情がいわゆる「さみしい」ということすら、さとりは知らなかった。誰もさとりに教えてくれなかったからだ。
おいらなんか生まれてこなければよかったのに。
さとりは自分の姿が他の妖怪たちの視界にはなるべく入らないよう、細い身体をぎゅっと縮めた。少しでも不快の念を与えないよう、鼻の下あたりまで伸ばした長い前髪にその顔を隠して、いつも足元を見つめていた。
唯一、さとりがその気持ちを読めない相手がいるとしたら、それは龍神だった。
龍神はどんな妖怪たちも比較にならないほどの並外れた力を持った存在で、この世に存在する有りとあらゆるものから恐れ敬われていた。また、誰よりも美しい姿をした龍神は、気が遠くなるほどの永い時間を生きることに倦んでいた。
おそらく龍神からしてみたら、ちっぽけなさとりの存在など、道端に転がっている小石ほどの価値にも満たなかっただろう。
おいらは何のために生まれてきたの? みんなから嫌われるの? どうしてみんなの気持ちがわかってしまうの? 望んだことなど一度もないのに・・・・・・。
さとりの疑問は一度も口に出されることはないまま、大きな塊となって胸の奥に沈んでいた。
日々は過ぎ、小さな子どもの妖怪だったさとりは、人間でいうところの十八歳から十九歳くらいの青年の姿へと成長した。
もともと人間と妖怪では流れる時間の長さが違う。さとりが青年に成長するまで、人の世界ではいくつもの「くに」が作られ、滅んだ。自然が多かった世界は人間の手によって切り拓かれ、さとりが生まれたころとは様変わりした。その間もさとりは相変わらず仲間から疎まれ、独りだった。それ以外のことは、自分に起こるなど想像もしていなかった。
そんなある日のことだった。
ピーヒョロロロ・・・・・・。
峰が連なる山の上空を、鳶 が旋回している。
さとりは空を見上げた。湖の底を写し取ったような透き通った空に、薄い雲が浮かんでいる。木の枝にはアオバハゴロモが止まっていて、さとりが手を伸ばすと、ぴょん、と飛び跳ねていった。
さとりはくすくすと笑った。
夏草が風に揺れている。虫や草花は、さとりを恐がらないから好きだった。誰かの心を読んでしまったときのように、胸の中をすうすうする気持ちが薄れて、自分がここにいてもいいのだという気持ちにさせてくれる。
ピーヒョロロ・・・・・・。
草原で寝転がっていたさとりは、突然頭の上でガサリと物音がしたことにびっくりした。慌てて跳ね起きる。
「・・・・・・おにいさん、だれ?」
それは、人間の男の子だった。身長はさとりの胸の高さほどしかない。目鼻立ちの整った少年の口元にはよく見ないと気づかないくらいの小さなホクロがあって、それが実際の年齢よりも彼を大人びて見せていた。頭の上に青い布のようなものを被った少年は、物怖じしたようすもなくさとりをじっと見つめると、小さく首をかしげた。
『どうしたんだろう。しゃべれないのかな?』
「あ、あう、あ・・・・・・っ」
心臓はばくばくと鳴っている。何か答えなければと思うのに、誰かと話し慣れていないさとりは頭の中がパニックになった。
男の子はびっくりしたように目をまたたかせると、ふいに雲の切れ間から太陽が覗いたみたいにパッと笑顔になった。
「どうしたの? だいじょうぶ?」
さとりは大きく目を瞠 った。かあっと頬が熱くなる。黙っていると男の子が再び不思議そうな顔になったので、さとりは力強くうなずいた。男の子の顔が明るくなる。それを見たさとりの胸は、なぜかあたたかくなった。
「ぼくね、おぎがみそうすけ。夏休みにね、おばあちゃんちにあそびにきたの。おにいさんの名前は?」
名前、と訊ねられて、さとりは首をかしげる。いままでさとりは誰かに名前を呼ばれたことなどなかった。そのとき、頭の隅に遠い記憶がよみがえった。それはまださとりが目の前の少年くらいのとき、妖怪たちに「あいつは”覚 ”だよ」と、口にしたら悪いことが起きるかのように、ささやかれたことがあった。
「・・・・・・さとり」
口に出すと、それは記号のようにさとりの胸にコトリと落ちた。
「さとり?」
そうすけが首をかしげる。
「・・・・・・さとり。さとり・・・・・・」
ーーおいらの名前はさとり。
自然と口元に笑みが浮かぶ。そうすけがびっくりしたように目を大きくした。
『・・・・・・笑った。なんだかぼくよりもずっと大人なのにかわいいの』
・・・・・・かわいい?
それは初めて言われた言葉だった。意味はよくわからなかったけれど、やさしい響きをしたその言葉は、さとりの胸をあたたかくした。足元がふわふわと浮いているような気がする。
「夏休みの自由研究にね、クワガタを捕まえたいの。おにいさん、このへんでクワガタがどこにいるか知ってる?」
それなら知っている。クワガタはクヌギやコナラの木にいることが多い。さとりがその場所を案内してやると、そうすけは賢そうな目をきらきらとさせて、
「すっげー!」
と叫んだ。
『こんなにいっぱい見たのは初めてだ!』
そうすけの心の声からも、その喜びと興奮がさとりに伝わってくる。さとりはにわかに心配になった。目の前の少年がクワガタに乱暴するようには思えない。でも・・・・・・。
「そ、そのクワガタはどうするの?」
ひときわ大きなクワガタを持っていた虫かごに入れている少年に、さとりは訊ねた。人間の中には昆虫採集をして、標本にする者もいたからだ。
「どうするって?」
『飼育して育てるけど・・・・・・』
続けて聞こえてきた心の声に、さとりはほっとした。
「な、ならいいんだ」
「・・・・・・?」
『・・・・・・まだ何も言ってないのにへんなの』
さとりの態度に少年は怪訝な顔をしていたが、あまり突き詰めて考えるタイプではないのか、すぐにケロリと開き直った表情になった。
「そうすけー」
そのとき、遠くのほうから少年を呼ぶ声がした。見ると、田園の向こうに少年の祖母らしき姿が見える。
「あ、やべっ」
『黙って出てきちゃったんだった』
そうすけは、ぺろっと舌を出した。
『帰らなきゃ』
「えっ」
さとりは声を上げた。少年が帰ってしまうと聞いて、さっきまで弾むように高鳴っていた胸が、しゅんと萎れてしまうような気がした。
帰ってしまうのか・・・・・・。
できればもう少しだけ一緒にいたい。そうすけと話をしていたい・・・・・・。
「ま、また会えるっ?」
そうすけがびっくりした顔でさとりを見ている。
「なんで?」
心底不思議そうに訊ねられ、さとりはしょんぼりと肩を落とした。じっと地面を見下ろす。
やっぱりおいらなんかと一緒にいたいはずはない。そんな者、いるはずがないと、いままで何度も思い知らされた思いが胸を刺す。
「別にいいけど」
「えっ」
ふいにケロリとした口調でそうすけに言われて、さとりはびっくりして顔を上げた。
「ほ、ほんとにっ!? い、い、い、いつ? いつまた会えるっ?」
まさかいいと言ってくれるなんて思わなかった。なんだか信じられない思いで、勢い込んで訊ねるさとりに、そうすけは目をまん丸くした。
『自分から訊いておいておかしいの』
賢そうなその表情に面白がるような色が浮かぶ。
「別にいいよ。ほかに予定なんてないもん。あした昼ご飯を食べたらまたくるね」
ばいばい、と手を振って祖母のもとへと駆けていく少年の後ろ姿を、さとりは信じられない思いで見つめていた。
またあしたそうすけに会える。おいらと話をしてくれる。
それまで虫や草花を眺めることが唯一の楽しみだったさとりにとって、それは信じられないほどの出来事だった。
またあした。日が沈んで、朝日が昇ったらそうすけに会える。
夕日が山の稜線を赤く染め、夜空に星がまたたくのを見つめながら、さとりは早くあしたがくればいいのにと、焦がれるような思いで願った。
翌日、そうすけは約束どおり、さとりに会いにきてくれた。その翌日も、そのまた翌日も。そうすけと会っている時間は、さとりにとって夢のような時間だった。誰かと一緒に過ごすということが、話をすることが、こんなにも楽しいものだとさとりは初めて知った。
ときおりそうすけの祖母という人が、彼を迎えにくることがあった。
「ばいばい、さとり。またあしたね」
屈託のない笑顔を浮かべるそうすけが、さとりに手を振る。やがてその手は、自分に向かって伸ばされる老いた手につながれた。
いいな・・・・・・。
ふたりが仲良さそうに手をつないで帰る姿を、さとりはいつもうらやましそうに眺めた。
おいらも誰かと手をつなぎたい。
けれどそれは叶わない夢であることを、さとりは知っていた。
そうすけと一緒にいるとき、他の妖怪たちがさとりにイタズラを仕掛けることがあった。大抵は足を引っかけて転ばせたり、泥団子を投げつけてきたりするくらいの些細なイタズラだ。その中でも妖狐の嫌がらせはひどく、ときにさとりは血を流すほどのケガをすることがあった。しょっちゅう何もないところで転び、服を汚すさとりを、そうすけは不思議に思っていたようだったが、さとりと会うようになってから半ズボンのポケットに常備するようになった絆創膏で、いつもやさしく手当てをしてくれた。
さとりはそうすけの言葉から、心の声から、彼についてさまざまなことを知った。
そうすけは普段「東京」という場所に住んでいて、そこには大勢の人が暮らしているのだという。そうすけは父親と母親と妹の四人家族で、マンションと呼ばれる建物で暮らしている。将来は「アナウンサー」になりたいと夢を語る少年に、けれどさとりはそうすけが言うアナウンサーというものがどんなものなのかもわからなかった。
その日、さとりはそうすけと一緒に川遊びをしていた。山から流れる水は冷たい。少年はさっき拾ったばかりの石を、大事そうに何度も陽に透かして楽しんでいた。石の内部に光が反射して、小さな虹が見えるのだ。その石は紫水晶といって、こんなにきれいな石が落ちていることはめったにないとそうすけは言う。少年の手の中で大事そうにされている石が、さとりはなんだかうらやましかった。
「さとりは? 何になりたいの? 将来の夢は?」
岩の上に座り、川の水に浸した足をパシャパシャと跳ね上げながら訊ねるそうすけに、さとりは首をかしげた。
おいらの夢・・・・・・?
そんなもの、考えたことはなかった。そうすけと出会うまで、さとりはまわりの妖怪たちの迷惑にならないよう身を縮めて、うつむくようにして生きてきただけだった。
おいらの夢。おいらの望むことは・・・・・・。
そうすけは興味深そうにさとりの返事を待っている。
ーーそうすけと一緒にいたい。
ふいに落ちてきた思いに、さとりは胸がいっぱいになった。
おいら、そうすけとずっと一緒にいたい。
けれど、さとりにはそうすけに秘密にしていることがあった。
「・・・・・・も、もしも、もしもだけど、人の気持ちがわかったら、気持ち悪いよな」
不安で心臓がきゅっと縮みそうになる。どくん、どくんと鼓動が大きな音をたてた。全身が冷たい氷になったみたいだ。
そうすけは、なんでそんなことを訊くんだろうと不思議な顔をしてから、
「なんで? 気持ちがわかったら便利じゃん」
と答えた。大きな目が純粋な好奇心で、きらきらと輝いている。
さとりは知っていた。彼が嘘を言っていないことを。そうすけの濁りのない笑顔に、胸がぎゅっと締めつけられる。
雲の隙間から光が差して、川の水面がきらきらと輝く。それなのに、なぜだろう、視界がぼやけてよく見えないのだ。さとりは初めて泣いていた。声を上げて、おおう、おうおうと号泣する。そうすけの言葉がうれしいのに、胸が苦しくてたまらなかった。
「さとり? さとりどうしたの? ぼくなにかさとりを傷つけること言った? さとり?」
慌てて岩の上から滑り降りてきたそうすけが、河原で膝を抱えて泣くさとりの背中をさする。
『どうしよう・・・・・・。泣かないで。どこか痛いの? さとり?』
おろおろとしたそうすけの気持ちが伝わってくるたびに、さとりはますます胸が苦しくなった。
「あっ、そうだ!」
突然、そうすけは何かを思い出したように、手の中のものをさとりに向かって差し出した。
「これあげる!」
そうすけの手のひらの上で、紫水晶がきらきらと輝いている。それは少年の宝物であったはずではないのか?
涙に濡れた目でそうすけを見ると、少年は少しだけ赤くなった顔でぱちぱちとまばたきした。すぐにハッとなったように、ためらうさとりの手に石を握らせた。
「・・・・・・いいの?」
「いいよ!」
そうすけは怒ったような口調で言い放つと、恥ずかしそうにくしゃりと笑った。
さとりは手のひらの石を見つめ、大切そうにぎゅっと胸の前で握りしめた。一度は止まった涙が、再び盛り上がる。
『ええ~っ、なんで~??』
そうすけの無邪気な声がさとりの胸をあたためる。
それからそうすけはさとりが泣き止むまでの長い時間を、辛抱強く背中をさすってくれた。
夏休みが終わってそうすけが「東京」に帰ってからも、さとりはそうすけを待ち続けた。帰る前、また来年も会いにくるからと、そうすけが約束をしてくれたからだ。秋がきて、冬になり、野山に雪が降り積もった。さとりは少年との約束を待ち続けた。妖怪仲間たちはそんなさとりをバカにし、人間なんかを信じるなんて愚か者のすることだと、嘲笑った。そうして人間に焦がれるさとりは、妖怪たちの間からますます孤立した。けれどさとりはもう気にしなかった。そうすけとの約束を信じることが、さとりにとって唯一の希望だったからだ。そうすけとの約束を思い浮かべたときだけ、さとりの胸はあたたかくなった。
春がきて、また夏がきた。
そうすけはさとりとの約束を破らなかった。さとりにとって、そうすけといられることは、まさに夢のような時間だった。楽しい時間は飛ぶように過ぎていき、夏の終わり、また来年も会いにくるからと約束をした少年は、その次の年、さとりに会いにくることはなかった。
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