2 / 30
第1話
十八年後。東京ーー。
夜の街は、大勢の人であふれていた。チカチカとまたたくネオンサイン。いまにもポツリと降り出しそうな空は、濁っていて星のひとつさえ見えない。
じっとしているだけで汗ばむほどの暑さは、人々の心を苛立たせた。さとりの足元を、白い毛玉の妖怪が遊んでいるかのように、ふわふわと漂う。
「きゃっ」
すれ違いざまに誰かの肩がぶつかり、さとりはふらついた。
若い女はさとりを見ると、ぎょっとしたように目を見開いた。
『やだ、髪の毛はぼさぼさだし、しばらく切ってないみたい。若いのにホームレスか何か?』
眉を顰 め、汚れがついたかのように、空いた手で触れた箇所を払う。
『もう、なんなのよ。ぼけっとしてないですみませんの一言でも言ったらどうなのよ!』
「あの・・・・・・、おいら・・・・・・」
女はさとりを睨むと、ふいっと顔を背けて立ち去った。
『死ね! バーカ気持ち悪いんだよ!』
去り際に吐き捨てるように聞こえてきた心の声に、さとりは凍りついた。
『あー、蒸し蒸しして気持ち悪ぃなあ。おっさん、邪魔なんだよ』
『久しぶりのデートだっていうからおしゃれしてきたのに、そこらの居酒屋なんてやぼったい。やっぱり別れるべきかなあ。でも、もうすぐ誕生日だから、それが過ぎてからかなあ』
『人ばっかごちゃごちゃして、ほんとウンザリする。半分くらいの人が一気に消えちゃわないかなあ。あ、いまデブの腕が触れた。ぺちゃだって。気持ち悪い。デブだったらもっと大人しくしていなさいよね。あんな姿人前にさらして恥ずかしくないのかなあ。あたしだったら死んだほうがマシ』
『あー、予備校いきたくねーなー。マジだっりー。サボりたいなあ~』
絶えず聞こえてくる声に、さとりは具合が悪くなった。誰に向かって吐き出されるのではない心の声が、消化しきれない澱 になってさとりの中に溜まっていく。
初めて目にする「東京」は、これまでさとりが知るどんな景色とも違っていた。どこからきたのだろうと不思議に思うくらいの、あふれんばかりの人、人、人。見るものすべてが驚くことばかりだ。煌々 と灯る街の明かりは、一晩中祭りをしているみたいだ。
この街のどこかにそうすけがいる。
さとりはどうしてもそうすけに会いたかった。ただひたすらにそれだけを願って、長い月日そうすけとの約束を待ち続けた。
もしも、もう一度そうすけに会うことができたなら、自分は消えてしまってもいい。
そう思って、さとりは勇気を出して龍神に会いにゆき、ある取引をしたのだった。
夜の街を、ほのかな光を放つ一本の糸がまっすぐに伸びている。さとり以外の誰にも見ることはできないという糸は、いまにも切れてしまいそうにか細く頼りなくて、けれど何よりも確かな道しるべとなってさとりをそうすけのもとへと導いてくれる。
そうすけ・・・・・・。
いきなりどこからかにょっと伸びてきた手が、さとりの足首をつかんだ。とっさのことに受け身がとれずに、さとりは地面に転がる。見ると、さとりの膝丈ほどしかない傘の妖怪がケラケラと笑いながら路地裏に消えていった。
『いま何もないところでこけたよ』
『だっさー』
いきなり何もないところで転んだように見えるさとりを、人々が好奇の眼差しでちらっと眺めてから、何事もなかったかのように通り過ぎていく。
故郷にはさとりの居場所はどこにもなかったけれど、それでも夜空を見上げればまたたくほどの星が見えた。虫たちがさとりを慰 めてくれた。でも、「東京」の街には自然は数えるほどしかなく、いくら目を凝らしても星は見えない。
ぽつり、と雨粒が落ちてきたと思ったら、いきなり激しい雨になった。ざあざあと容赦なく降り注ぐ雨に、人々が蜘蛛の子を散らしたように屋根のある場所へと駆けてゆく。
さとりの頭上でふっと雨が止んだ。
「大丈夫ですか?」
うつむけていた顔を上げて、さとりは大きく目を瞠った。幼かった少年の姿はそこにはなく、大人になったそうすけが気遣わしげな眼差しで、さとりに傘を差し掛けている。
・・・・・・そうすけだ。そうすけだ。変わらない、そうすけだ。会えた・・・・・・。
そのとき、闇の中でほのかな光を放っていた糸は、最後にきらきらと光って、すっと溶けるように消えた。
『具合でも悪いのかな。熱中症か何かか?』
喉の奥に声がつまったように、言葉が出てこない。
「大丈夫ですか? 立てますか? 救急車、呼びますか?」
『・・・・・・ひょっとしたらホームレスか何かか?』
「・・・・・・そーすけ」
何も答えないさとりに、そうすけの中にわずかな疑問がわいたとき、さとりはようやく言葉を発することができた。
「はい?」
なぜ目の前の男が自分の名前を知っているんだろうという疑問を持ったようすもなく、そうすけが返事をする。
そのとき、
「あの人、アナウンサーの荻上壮介 じゃない?」
という声が聞こえた。振り返ると、傘を差した若い女がふたり、こちらのほうを指している。
「ほんとだ。えー、なんでこんなところにいるの?」
『テレビで見るよりもずっといい男じゃない』
『まじラッキー!』
「どうする? 声をかけてみる?」
女たちの声はそうすけの耳にも聞こえたらしい。面倒だな、という気持ちが、そうすけの心の声を読むまでもなく、そのしぐさなどから伝わってきた。
「・・・・・・大丈夫そうなら俺はこれで」
せっかくそうすけに会うことができたのに、立ち去る気配を感じてさとりは慌てた。これ使っていいからと傘の柄を握らせてくれた手を、とっさに上から握りしめる。
「ま、まって! おいらそうすけをずっと探してたんだ!」
そうすけがわずかに顔をしかめた。
『・・・・・・なんだ? ストーカーか何かか?』
微かな不審の念がそうすけの手のひらから伝わってきて、さとりはびくっとなった。
「そうすけ。お、おいら、おいら・・・・・・」
必死で言葉を探そうとするが、動揺してうまく言葉が見つからない。そうすけの手をつかんでいる指先がぶるぶると震えた。
そうすけが目を細める。
『・・・・・・手が熱い。熱があるのか?』
それまで警戒を滲ませていたそうすけの周りを覆う空気が、ふっと緩んだのがわかった。
『このあたりって病院はあったっけ』
・・・・・・そうすけだ。
不審に思いながらも、さとりの具合を心配してくれるそうすけの感情が伝わってきて、胸がいっぱいになった。
そうすけだ。そうすけだ・・・・・・。
見た目はずいぶん変わったように思えるけれど、やさしいところはちっとも変わっていない。さとりのよく知る、あのころのそうすけのままだった。そのことが無性にうれしくてたまらず、さとりは泣きたい気持ちになった。
「おいら病院はだいじょうぶ。そうすけと会えてうれしいだけ」
にこにこと笑うさとりに、そうすけはわずかに眉をひそめた。
『初めて会ったはずなのに、どうしてそんな・・・・・・。やっぱりストーカーなのか?』
再びそうすけの頭に疑問の念が湧いたのがわかったけれど、さとりはもう傷つかなかった。さとりのことを忘れているのは正直ちょっとだけ寂しかったけれど、昔と変わらずやさしいそうすけだと知ることができてうれしかった。
もし、もう一度そうすけと会うことができたのなら、さとりはそのまま死んでしまっても構わないと思っていた。けれど、いざそうすけに再会できたら、さとりはますます欲張りになった。もっと一緒にいたい、顔を見ていたい、話したい、できればこのままずっとそうすけの側にいたい・・・・・・。欲望には果てがなく、だからさとりは自分で自分の未練を断ち切らなければならなかった。
「・・・・・・心配してくれてありがと。そうすけ、ずっと元気でいてね。ずっとずっと幸せでいてね」
ーーたとえ二度と会うことはできなくても・・・・・・。
「これ大丈夫だから返すね」
さとりは傘の柄をそうすけに返した。じゃ、おいらいくね、と明るく告げたさとりを、そうすけが引き止めた。
ともだちにシェアしよう!