3 / 30

第2話

 いつの間にか雨は上がっていた。  マンションというものは、小さな箱が積み重なってできているようだと、さとりは思う。その箱の中でたくさんの人が暮らしているなんて、なんだか不思議だった。ましてや、この中にはそうすけの家もあるなんて。 「・・・・・・おい。口が開いてるぞ」  口をぽかんと開けたまま、マンションを見上げていたさとりは、先をいくそうすけに注意されて、慌てて口元をこすった。 「す、すごいね。そうすけ、普段こんなところに住んでるんだね」 『普通のマンションがそんなに珍しいか・・・・・・?』 「おい、こっち」  そうして細長い小さな箱のようなものに乗り込み、そうすけが入口付近にあるボタンを押したとたん、箱が縦に上昇を始めたから、さとりはぎょっとした。 「そ、そ、そ、そうすけ、そうすけ。箱が上に上がってる」  思わず腰を抜かしそうなほど驚いたさとりに、そうすけはおかしな顔をした。 「・・・・・・そりゃ上がるだろうよ。上を押したんだ」 『・・・・・・これどっきりか何かか? 普通のエレベーターだぞ。この時代、エレベーターに乗ったこともないなんてあり得ないだろ。ドアが開いたらカメラが待ってるなんてことはないよな』 「お、おいらは、おいらは驚いてなんかないぞ! 大丈夫だ!」  虚勢を張ったさとりに、そうすけは短く「・・・・・・そう」と答えると、それ以上は突っ込まなかった。ドキドキと騒ぐ心臓をなだめながら、さとりは落ち着けと自分に言い聞かせる。このままではそうすけにおかしなやつだと思われてしまう。けれど上昇が止まり、ドアが開いたところで、さとりは再び目を見開いた。  目の前に、夜空の星を散りばめたみたいな景色が広がっている。 「そうすけ、星だ! 星が見えるぞ! そうすけもこっちへきてみろ。きれいだなあ」  さとりはエレベーターから出ると、手すりから身を乗り出すようにして眼下に広がる景色を眺めた。あんなに空を見上げても見えなかった星たちが、いまさとりの目の前に広がっている。 「そんなに身を乗り出すと危ないぞ」 『・・・・・・星って、夜景のことか?』 「やけい・・・・・・?」  気がつけばその声はすぐ近くから聞こえた。思わず心の声に反応してしまったさとりに、いつの間にかすぐさとりの後ろに立っていたそうすけが一緒に夜景を眺める。 「ああ。雨上がりで少し曇っているけど、きれいだな・・・・・・」 『夜景なんて久しぶりに見たな』  さとりはどきどきした。肩の力が抜けたそうすけのようすに、なんだかうれしい気持ちでいっぱいになる。  そうすけの家は、十階建てのマンションの八階の角部屋だった。そうすけはポケットから鍵を取り出すと、家のドアを開けた。部屋の明かりをつける。 「散らかってるけど、どうぞ」 「お、おじゃまします」  さとりはにわかに緊張した。誰かの家に招かれたのなんか初めてだ。しかも、それはそうすけの家なのだ。  ぎくしゃくとした動きで靴を脱ぎ(靴は、以前人間が捨てたのを拾ったものだった。これは小石を踏んでも足の裏が痛くならないし、雨にも濡れず、とても便利なものだと思う)、慎重に足を踏み入れる。  二部屋を敷居もなしにひとつに広げた部屋は、広々としていた。ソファの上には脱いだ服が散らばり、台所には洗っていない食器が重なっているのが見える。床に積まれた本、ベッドの上のシーツは朝起きたままの形になっていて、部屋のそこかしこにそうすけの気配が残っているのがうれしい。 「悪い、最近ちょっと忙しくて片づけられなかったんだ・・・・・・」  ほらタオル、と手渡される。 『こんなに散らかっている部屋を見られるなんて恥ずかしいな』  さとりが興味深げにじろじろ部屋の中を見ていたせいだろうか、そうすけはわずかに頬を染めると、慌ててソファの上に散らばっていた服をかき集めた。 「どうしてだ? おいらは全然構わないぞ」  さとりは本気で言ったのに、そうすけはなぜかますます恥ずかしそうになって、はあ~っとため息を吐くと、そそくさと抱えた服を持ってどこかへいってしまった。 『・・・・・・ほんとにいつもはこんなんじゃないんだ』  言い訳のようにそうすけの思念が伝わってきて、さとりはそんなものなのかと、初めて気づかされる思いがした。  さとりはソファに腰を下ろした。身体を包み込むような適度なクッションにびっくりして、急いで立ち上がり、再びそっと腰を下ろす。なんだかこのイスは、夢のように気持ちがいいものだと思う。それから、腰を下ろしたまま軽くジャンプすると、身体が横にこてんと倒れた。・・・・・・楽しい。  すぐ側の部屋で水の流れる音が聞こえてきて、そうすけが戻ってきた。ソファのスプリングで遊んでいるさとりを見て、怪訝な顔をする。 「具合は? もう大丈夫なのか?」 「ん」  うなずいたさとりに、そうすけは疑わしそうな表情を浮かべると、 「ちょっと失礼」  いつもさとりの顔を隠している長い前髪をそっと指先で持ち上げた。ひやりと、額に空気を感じた。 「!」  そうすけは、小さく首をかしげた。 『確かに顔色はマシになったかな』  さとりはびっくりした。身動きもできず固まったまま、大きく見開いた目でそうすけをじっと見つめる。間近で誰かとこんなに視線を合わせたのは初めてだった。  さとりの凝視に気がついたそうすけが、ハッとしたように軽く目を瞠って、気まずそうにそらされた。 「いきなり触って悪い」  さとりからは背を向け、台所へと向かう。 『ガラスみたいな透明な目でじっと見てるからびっくりした・・・・・・』  そうすけの背中からは小さな動揺の気配が伝わってきて、さとりはしょんぼりとした。やっぱりおいらがじっと見ていたから気持ち悪いんだと、肩を落とす。 「ほら、ポカリ。念のため水分補給しといたほうがいいだろ」  そう言って、そうすけは何かの液体が入った容器を手渡した。さとりはそうすけから手渡された容器をじっと見つめた。小さく首をかしげ、そのままガブリと咥えたところを、ぎょっとしたそうすけに止められる。 「わわわ・・・・・・っ! お前何やってんだよ!」 「・・・・・・固い」  それにちっともおいしくない。 「そのままかじるやつがあるかよ・・・・・・っ!」  せっかくそうすけからもらったものを取り上げられて、さとりはうらめしげに見た。 『マジかよ・・・・・・』 「・・・・・・ほら。こうやるんだよ」  そうすけが容器の先についていた蓋のようなものを捻って外してくれる。  さとりは再び首をかしげて、わずかに色のついた液体の匂いをくん、と嗅いだ。無臭だ。舌を出して、慎重な面もちでぺろっと舐める。 「・・・・・・!」  うまい! うまい! なんだかわからないけれど、ものすごくうまい! 「そうすけ、うまい! この水には味がついてるぞ! なんだかわからないけどすごくうまい! そうすけも飲むか!」  もしもさとりが動物の妖怪だったら、いまごろぶんぶんと尻尾を振っていたことだろう。喜んでいるのがだだ漏れだ。そんな恥ずかしい状況にならなくてよかったとさとりがほっとしながら振り返ると、そうすけはひどく疲れたような顔をしていた。 「・・・・・・いや。俺はいい。・・・・・・ああ、こら一気に飲むんじゃない。子どもか! ほら、少しずつ飲め。咽せるぞ」 『疲れる・・・・・・』  ぽつりと落ちてきた言葉に、さとりはしゅんとなった。そっと容器から口を離す。ソファに腰掛けたまま、さとりのようすを横目で眺めていたそうすけが、おや、という表情を浮かべた。 「どうした? まだ残ってるぞ」 「・・・・・・ん。もう大丈夫だ。お腹がいっぱいだ」  そうすけがわずかに眉根を寄せる。さとりの言葉を信じてはいないようだった。 『そんなに細い身体をして、ちゃんと食べてるのか・・・・・・?』  こうして話をしていても、そうすけはさとりのことは気づかないようだった。そのことが無性に悲しい。それでも、そうすけから伝わってくる言葉は、泣きたくなるくらいにやさしかった。 「なあ、お前、名前は? まだ聞いてなかったよな」  心臓が大きく跳ねる。思わずすがるような眼差しで見ると、そうすけが穏やかな視線で見つめ返してきて、胸がぎゅっと切なくなった。 「・・・・・・さ、さと・・・・・・り」 「さと? お前、さとって名前なのか?」 「ち、ちが・・・・・・っ」 「違?」  ーー人間の言うことを信じるなんて愚か者がすることだ。現に、お前のいう子どもだって、結局は戻ってこなかったじゃないか。そんな人間のことをどうして信じられる?  冷たい手で心臓をぎゅっとつかまれたように、ふいにその声がさとりの耳に甦る。  ーーお前が大事に思う人間だって、心の中では何を考えているのかわからない。・・・・・・ああ、お前はそれがわかるんだったね。でも見えているものがすべてその通りだとは限らないよ。それでもいくのかい? その結果、お前が消えることになったとしても。  さとりはどうしてもそうすけに会いたかった。カタカタと小さく震えながら、もう一度会えたらそれだけでいいと乞い願うさとりを、龍神は恐ろしいほどに美しく冷たい目で見下ろし、こう告げた。  ーー愚かだね。だったら自分でその結果を思い知るがいい、と。  そのときのさとりは、そうすけが自分のことを忘れているなんて思ってもみなかった。  さとりの中で、いま初めて不安の芽が育つ。そうすけは、ひょっとしたら自分とは会いたいと思っていなかったのではないかという不安が。  さとりはぶんぶんと頭を振ると、今度は大きくうなずいた。 「さ、さとでいいっ」 「でいいって・・・・・・」 『どっちなんだよ』  慌てて告げてさとりに、そうすけが苦笑した。 『変なやつ』  そうすけは再びソファから立ち上がると、台所へいき、片手に缶を持って戻ってきた。 「飲むか?」  さとりに聞いてから、 『あ、さっきまで具合が悪かったのに、さすがにアルコールはまずいか』  とすぐに思い直す。そうすけは缶の上部についていた蓋を開けると、ぷはーっと、おいしそうに缶の中身を飲んだ。 『やっぱ仕事上がりのビールは格別だな』  さとりはわくわくしてそうすけを見た。  それ、そんなにおいしいの?  さとりの視線に気がついたのか、そうすけが軽く缶を持ち上げる。 「飲むか?」  さとりは、コクコクとうなずいた。  そうすけは缶の中身を飲み干すと、サイドテーブルの上に置いた。代わりに台所から新しい缶を持ってくると、口を開けてから、ほら、とさとりのほうに寄越した。  さとりはくんくんと中身の匂いを嗅いだ。そっとひとくち飲む。さっきと同じように甘い味を想像していたら、いきなり舌を刺す苦みが口の中に入ってきて、さとりはびっくりした。 「・・・・・・△×○■!」  涙目でぱちぱちとまばたきをしながらそうすけを見ると、そうすけは口元に当てた手で笑いを噛み殺していた。 『ほんとにマンガみたいなリアクションをとるやつだな』 「ほら、残りをこっちに寄越しな。無理して飲まなくていいから」  さとりは素直に手渡した。あんなに苦い飲み物を、そうすけはさもおいしそうに飲んでいる。色のついたおいしい水で口直しをしながら、さとりが思わずじっと見ていると、そうすけは目を細めてふっとほほ笑んだ。 『こいつ、ほんとに考えていることが全部顔に出るのな』  そうすけの笑顔に、さとりは思わずぼうっと見とれてしまう。 「お前、どっからきたの? きょう泊まるところはあるのか?」 『やっぱりホームレスなんじゃないのか・・・・・・?』  そうすけが心配している「ほーむれす」というのが何なのかはわからなかったけれど、夜を明かす場所のことをいうなら、その辺の公園でも原っぱでも、いくらでもある。もともと故郷でもそんなものだったのだ。さとりがにこにこしていると、そうすけはますます疑わしそうな顔になった。 『こいつ、マジで頭大丈夫なのか?』  家はどこだと聞かれて、さとりは首をかしげる。  家。そうすけがいう家というものが、それぞれが夜になって必ず帰る場所を指すのなら・・・・・・。 「家、家はない」  さとりの答えに、そうすけが目を瞠った。 『やっぱりホームレスか・・・・・・』  そうすけが困ったような顔で、がしがしっと頭の後ろを掻く。まいったな、という呟きがダイレクトに伝わってきて、さとりは戸惑った。  どうやらさとりに家がないことは、そうすけを困らせてしまうことらしい。おろおろと視線をさまよわせていると、そのようすをじっと見ていたそうすけが諦めたようなため息を吐いた。 『・・・・・・まあ、拾っちまったもんはしょーがねえか。これからのことはまたあとでゆっくり考えればいい』  ふいに、さとりの脳裏に、開き直ったようなそうすけの声が聞こえてきた。 「お前、帰るところがないならきょうは泊まっていけ」  泊まる? そうすけと一緒にいられるの? 帰らなくていいの? 「・・・・・・いいの?」 「帰るとこがないなら仕方ねえだろ」 『やっかいだが仕方ない』  決してそうすけの本意ではないことに胸が痛んだが、それでもさとりはまだそうすけと一緒にいたかった。  あと少しだけ。そうしたら、ちゃんと諦めるから・・・・・・。 「あ、ありがと」  頬がかあっと熱くなった。震える声でようやくそれだけを告げたさとりに、そうすけはわずかに目を瞠った。 『こいつ、なんかかわいいな・・・・・・』  うっかりすると聞き逃してしまうほどの小さな声が聞こえたと思ったら、そうすけが顔をしかめた。そのとき、どこからともなく明るい音楽が流れてきて、「お風呂が沸きました」という声が聞こえてきたから、さとりはびっくりした。 「とりあえず風呂だな」  そうすけはそう言うと、ふいっとそっぽを向いてどこかへ消えてしまった。  また知らぬ間に何かそうすけの気分を害することをしてしまったのかとさとりが心配する前に、思念のような微かな感情が聞こえてきた。 『・・・・・・なんだよ、かわいいって。男相手にそんなふうに思うなんて、俺おかしいだろ。・・・・・・でもなんかあいつ放っておけないんだよな』  さとりは大きく目を瞠った。そうすけのかわいい、という言葉がじわじわっと全身に伝わってきて、叫びだしたいほどにうれしい。それでもいきなり大声を出したら、そうすけに嫌がられるだろうという認識はさすがにあって、ぐうぐうと獣のようなうなり声を発して我慢をしていたら、いつの間にか戻ってきたそうすけに怪訝な顔をされてしまった。 「何やってんのお前・・・・・・」 『やっぱ俺ちょっと早まったか・・・・・・?』 「ほら、これバスタオルな。バスルームは向こうの奥だから。湯船に湯も張ってあるからゆっくりどうぞ」  白いふわふわのタオルを手渡されて、さとりはそうすけに案内された小さな部屋へと入る。風呂というものの存在はかろうじて知っていた。そこで人間は身体を洗うのだ。さとりは風呂に入ったことはなかったけれど、代わりにいつもは川の水で身体を洗っていた。どきどきしながら着ていた服を脱いで、「バスルーム」に入る。  このホースみたいなもので身体を洗うんだよな?  蛇口を捻ったとき、いきなり頭の上から細かい雨のようなものが大量に降ってきて、さとりは慌てた。 「・・・・・・っ!」  声にならない悲鳴を上げ、あたふたと水を止めようとしたところで、濡れたタイルに足が滑った。 「・・・・・・×○△■☆っ!」  ガラガラガッシャンという派手な音を立てて転んださとりの元に、そうすけが慌てたようすで飛び込んでくる。 「どうした大丈夫か!?」 『一体何事だ!?』  裸で浴室に転がっているさとりの上から、シャワーの水が降ってくる。 「・・・・・・そーすけ。いたい・・・・・・おでこ、あたま打った・・・・・・」  打った頭を両手で押さえながら、さとりが涙目で見上げると、その目が合った。さとりは、普段は長い前髪で隠れている自分の顔が、いまは水に濡れて出ていることにも気づかなかった。何かに驚いたように目を見開き、言葉を失ったそうすけが、じっと自分を凝視している。 『きらきらした目が宝石みたいだ・・・・・・』  そうすけの視線が舐めるようにさとりの頭から足の爪先までを走った。 「そーすけ?」  真っ赤な顔で絶句したそうすけが、ハッと我に返った。なぜか怒ったような表情でさとりから目をそらすと、洗面所に置いてあったバスタオルをつかみ、蛇口を閉めようとする。 「わっ、わ、わ、冷てっ! 冷てっ!」 『くそっ、なんで水なんだよ!』  それからさとりの身体をふんわりとバスタオルで包み込んでくれた。そうすけも頭から水をかぶり、濡れてしまっている。 「あー、くそっ」 『びしょ濡れだ』  そうすけから伝わってくる苛立ちの感情が、さとりの胸を刺す。  やっぱりおいらは疫病神だ。そうすけにとって、ろくなことがない。  さとりが内心で落ち込んでいると、そうすけの手がさとりの頭に触れた。 「頭、どこ打った? 見せてみろ」 『大丈夫か・・・・・・?』  濡れた前髪をそっと指で掻き上げ、慎重にさとりのおでこの部分を探る。真剣な眼差しに、さとりは声もなくじっとそうすけを見つめた。  なんだか胸が苦しい。心臓が何かの病気になったみたいだ。 「ああ、たんこぶになってる」 『・・・・・・よかった。大したことはなさそうだ』  そうすけがほっとしたように息を吐き出す。それとともに、張りつめていた空気が緩んだ気がした。  さとりの視線に気づいたそうすけがハッと目を見開く。それからなぜか嫌そうに顔をしかめると、さとりの頭から手を離した。 『そんな目でじっと見るな』  さとりは目を見開いた。そうすけが不機嫌そうな顔をしているのは、すべて自分のせいだと思った。 「ご、ごめん」 「・・・・・・え?」 『こいつ、何謝ってる?』  さとりはそうすけから視線をそらすと、上がっていた前髪を下ろし、顔を隠した。そのとき、はっきりと言葉にならないくらいの微かな、けれどがっかりしたような思念が、そうすけから伝わってきた。 「じっと見てごめんなさい」 『・・・・・・?』  そうすけが眉をひそめる。  今更手遅れかもしれないが、さとりは少しでもそうすけから嫌われたくはなかった。自分の顔を見ないでそれが叶うなら、顔を隠すことなど何でもないことだ。  うつむいて顔を上げようとしないさとりに、そうすけは諦めたようなため息を吐いた。 「・・・・・・それで、なんで水を使っていたんだ? いくら夏場だといっても風邪を引くだろう」  さとりはきょとんとした。そうすけに、何を言われているのかわからない。ぽかんとしたさとりの表情を見て、そうすけの顔がますます疑わしいものに変わった。眉間の皺がぐっと深くなる。 「・・・・・・まさか、これまで一度も風呂に入ったことがないなんて言わないよな?」  口にしたそうすけ自身、そんなことはあり得ないと考えているようだった。  さとりは慌てて頭を振った。それを見て、そうすけがほっとした顔をした。  そうすけに訊かれたとおり、風呂に入るのは初めてだったけれど、いつもちゃんと体は洗っている。だから不潔ではないのだ、嫌いにならないでほしい。 「お、おいら、汚くないよ。いつも川の水で洗ってる。だからね、きれいだよ」  さとりが必死で告げるほど、そうすけは信じられないといった顔で絶句した。 『・・・・・・うそだろ』  そのまま口元を手で覆い、そうすけは黙ってしまった。  ・・・・・・あれ? おいら何か間違いを言った?  胸の中にじわりと不安が広がる。 「そ、そうすけ・・・・・・っ」  さとりはそうすけの腕をつかみ、言葉を告げようとするが、いったい彼が何で気分を害してしまったのかわからないので、その先の言葉を続けることができない。 「あ、あの・・・・・・っ」  そうすけの手が、さとりの指を剥がそうとする。さとりは嫌々と頭を振った。  お願い、何でもいいから何か言って。おいらがそうすけの気に障ることをしてしまったなら、直すからどうか言って。お願い、おいらのこと、嫌いにならないで。そうすけ・・・・・・。  泣きたい気持ちで、ぶるぶると震えながら、さとりは必死にそうすけにすがりつく。ぽたぽたと、濡れた髪から水がしたたり落ちた。 「・・・・・・だいじょうぶだから、ひとまずその手を離せ」 『・・・・・・いきなりどうしたんだ?』  それでも言うことを聞かないさとりを、そうすけはそっと手で離した。そうすけの腕にはさとりのつかんだ手の痕がうっすらと赤く残っていて、そうすけはそれに目を落とすと、軽く手でさすった。  大きな目に涙をためて、じっと自分を凝視するさとりを見て、そうすけが呆れたように苦笑した。 『とにかくこいつの体を温めないないと』  さとりはぎゅっと目をつぶった。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。  そうすけ。そうすけ。そうすけ。  胸の中が大洪水を起こしたみたいだった。 「・・・・・・なんて顔してんだよ」 『頼むから泣かないでくれよ』  困惑したように告げる言葉とは裏腹に、その響きはやさしかった。 「ほら、そこに座って」  さとりが素直にイスに腰を下ろすと、そうすけはシャツの袖を腕まくりした。温かな湯が、さとりの頭の上から降り注ぐ。そうすけはいったんホースの先をさとりの手に持たせた。 「これを自分の身体に当てていて」  それから、液体状の何かとてもいい匂いがするものを手に取ると、さとりの髪を泡立てる。  腹のあたりに当たる温かな湯と、やさしいそうすけの指使いに、さとりはうっとりした。瞼がとろんとして、落ちそうになる。 「下を向いて」 「う?」  ぼうっとしていたさとりは、そうすけの言うことがわからず、反射的に上を向いてしまった。いきなり顔の上に流れてくる大量の泡と湯に、びっくりしてじたばたする。泡が目に入って、痛い。ものすごく痛い。 「うぅー・・・・・・っ」 「わっ。バカ、下を向いてろって言ったろ。流すときに上を向くやつがあるか」  そうすけが慌てて顔に流れた泡を洗い流してくれる。タオルで顔を拭いてもらうと、ようやく目の痛みがやわらいだ。それでもまだわずかに違和感があって、さとりはぱちぱちとまばたきをする。 『ほんとに子どもみたいなやつだな・・・・・・』 「いままでいったいどうやって生きてきたんだよ・・・・・・」 『もうきょうはリンスはいいか。またにしよう』  そうすけは疲れ果てたようすで呟くと、湯船を覆っていた蓋を外した。それから何か粉のようなものを入れると、ほんのり湯に色がついた。 「ゆっくり温まってから出てくるんだぞ」  さとりをひとり残して、そうすけは風呂場から出ていった。  さとりが風呂から上がると、今度はそうすけが入れ替わりに風呂に入りにいった。ほかほかした身体で、さとりはリビングのソファに腰を下ろした。これまでさとりが着ていたものの代わりにそうすけが用意してくれたものは、少しだけサイズが大きい。そうすけの洋服かな、と思ったら、その場にごろごろと転がり回りたくなった。 「ふへへ」  お腹のあたりがなんだかあたたかくて、こそばゆい。  ソファにこてんと横たわって天井を眺めながら、さとりはいまだに夢を見ているような気がした。 「ここでそうすけが暮らしているんだよなあ」  胸の奥が急に切なくなって、目の縁から涙が耳の中に伝い落ちた。さとりは目をこすって、身体を起こした。もうこれで充分だと思った。そうすけに会うことができた。再会して、立派な大人に成長した姿を見ることもできた。そうすけが子どものころになりたいと言っていた、アナウンサーの夢を叶えたことを知った。彼が、昔と変わらずやさしいままであることも知った。おまけにいま自分はそうすけの家にいて、彼が風呂から出てくるのを待っている。まだほかに何を望む?  そのときそうすけが風呂から出てきた。さっきよりもゆったりとした服装に着替え、濡れた髪を肩から下げたタオルでこする姿は、リラックスして見えた。そうすけのしぐさのひとつひとつがひどく新鮮に映って、さとりは目を離すことができない。そうすけはさとりに気がつくと、その目を細めた。 「風邪ひくぞ」 『まったく世話のかかるやつだな』  そう言って、そうすけは自分の肩にかかっていたタオルを取ると、さとりの濡れ髪をふぁさふぁさと拭いてくれた。  そうすけの身体からは、いまのさとりと同じ匂いがする。違う、さとりがそうすけと同じ匂いなのだ。それはとても安心できる、いい匂いだった。さとりはうっとりした。そうすけと一緒にいると、自分が何かとても大切なものになった気がする。みんなから嫌われ者の、ちっぽけな妖怪ではなくて。それは、そうすけが子どものころからそうだった。そうすけの態度が、さとりにそう思わせてくれるのだ。 「よし。これでいいぞ」  そうすけはさとりの頭から手を離した。使っていたタオルを手に取ると、そのままどこかへ消えてしまう。さとりのいる位置からは、本棚がちょうど目隠しになっていて、そうすけの姿は見えなかった。  そうすけのたてる微かな物音が、さとりの気持ちをほっとゆるめる。さとりは何度かまばたきをした。  ちょっとだけ、と自分に言い訳をして、さとりはソファの背もたれに頭をのせた。   そうすけが戻ってきたら、すぐに起きるから。だからちょっとだけ、ここにいてもいいかな? だって、この場所はこんなにも居心地がよくて、安心ができる。自分がこの場所にいてもいいのだと、思わせてくれる。  そのまま気持ちがよくなってまどろんでいるうちに、いつしかさとりは眠ってしまっていた。

ともだちにシェアしよう!