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SS「風邪」
その日、そうすけは仕事から帰ってくるなり、玄関まで出迎えたさとりに向かって、
「さとり、ごめん。ちょっと頭痛がするから、きょうの夕食、何かてきとうなものを買ってきて食べてくれるか?」
と言った。
さとりは大きく目を見開いた。
頭痛・・・・・・? 頭痛って、頭が痛いってこと・・・・・・?
さとりは、おろおろした。どうしていいかわからず、いまにも倒れそうなようすでふらふらとリビングへ向かうそうすけの後をただついていくことしかできない。
さとりは妖怪だから体調を崩すということは滅多にないが、そうすけは「半分人間・半分妖怪」のようなものだから、そうすけの中にある人間の部分が何か悪さをしているのだろうか。
そうすけはソファに倒れ込むと、そこで初めてさとりの存在に気がついた、という表情を浮かべた。
『まずい。さとりが心配するからしっかりしないと』
それから、不安げなさとりの表情に目を止めて、わずかに顔をしかめる。
『だめだ、これもさとりに聞かれてしまう・・・・・・』
さとりはいまにも涙が零れ落ちそうな目を瞠った。自分の存在がそうすけを心配させていることはわかるのに、どうしていいのかわからない。こんなとき、自分はなんて役立たずなのだろう。そうすけに教わって人間の世界に少しは慣れたつもりでいたのに、苦しむそうすけを前にして何もしてあげることができないのだ。
さとりは胸の前で手のひらをぎゅっと握りしめた。さとりの足元では、白いふわふわの妖怪がどうしたの? とでも訊ねるかのように、ぴょんぴょんと跳ねている。
どうしよう、どうしたらいいの・・・・・・?
「そ、そうすけ・・・・・・」
手を伸ばして、そうすけの体温の高さにぎょっとする。慌てて引こうとしたさとりの手を、そうすけがつかんだ。
「さとり」
『大丈夫だよ』
「大丈夫だから、心配しなくていい」
さとりの目には、とてもそうだとは思えなかった。
「帰りに病院に寄って点滴してもらったから、あしたにはよくなる。だから泣くな」
それでも何も答えられないさとりに、そうすけはふっと笑った。そうすけの指が、さとりの目の縁にたまった涙を拭う。
「俺の言うことが信じられないか?」
さとりはびくっとした。慌ててふるふると頭を振る。その拍子に、これまで堪えていた涙がぽろぽろと床の上に零れ落ちた。そうすけはそんなさとりを見ると、怠そうな仕草で腕を伸ばして、くしゃくしゃっとさとりの髪をかき混ぜた。やさしいそうすけの手に、さとりは胸が苦しくなる。
『まさかさとりには移らないよな・・・・・・。心配させるだけだし、念のため離れておくか・・・・・・』
えっと思ったさとりが何かを言う前に、そうすけはソファから身体を起こしてしまった。
「万が一移るとまずいから、悪いけどきょうはベッドをもらうな。このソファ、ベッドにもなるから、さとりはリビングで寝てくれるか?」
や、やだ。そうすけ・・・・・・。
「お、おいら・・・・・・」
さとりはぎゅっと唇を噛みしめると、ぷるぷると頭を振った。そうすけが少しだけ困った表情を浮かべているのを見て、胸が痛んだ。さとりが嫌なのはソファでそうすけと別々に眠ることではない。こんな状態のそうすけをひとりにしてしまうことだった。それでも駄々をこねるとそうすけを困らせるだけなのはわかるから、さとりは仕方なしにこくりとうなずいた。
普段よりも赤い顔をしたそうすけが、それを見てほっとしたように微笑んだ。
『ごめんな』
「ちゃんとご飯を食べるんだぞ」
ぽん、と頭を撫でられる。
「・・・・・・っ!」
さとりは引き止めたくなる手を、ぎゅっと握りしめた。そうすけはよろよろした足取りで寝室に向かうと、普段は開け放たれてワンフロアにしているリビングと寝室の間の引き戸を閉めてしまった。
「そうすけ・・・・・・」
部屋にひとりきりになったとたん、さとりの目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。さとりの足元で、白いふわふわの妖怪が心配するようにぴょんぴょんと跳ねる。
どうしたらいいの・・・・・・?
さとりはごしごしと目をこすると、急いでキッチンへと向かった。前にテレビドラマで見た、具合の悪い人を看病していた場面を思い出して、目につくものを次々に胸に抱え込んでいく。途中、一気に抱えすぎて、「おいしい水」がさとりの手からぽろっと零れ落ちた。
「あっ」
さとりはおいしい水を拾うと、リビングへと戻った。その後を、白いふわふわの妖怪がついてきているのも、余裕をなくしたさとりの目には入らない。
まずは熱を下げなきゃ・・・・・・。
そのためには、熱を下げるものと、補給する水分が必要だ。
不安で胸がつぶれそうになる。
「泣くな。しっかりしなきゃ」
そうしている間にも視界はじわりと滲んで、さとりは必死に自分の気持ちを奮い立たせようとした。さとりは腕の辺りの洋服でたまった涙を拭くと、心細そうな視線を閉ざされた部屋の前へと向けた。
「そうすけ・・・・・・」
さとりは唇をぎゅっと噛みしめると、ふるふるっと頭を振った。
おいらがしっかりしなきゃだめなんだから・・・・・・。
いったん抱えていたものを足元に置いて、リビングと寝室を隔てている扉をそっと開いた。言いつけを守らなかったことを咎められたらどうしようと思ったが、そうすけは眠っているようだった。薄暗い室内に、そうすけの苦しそうな呼吸音が聞こえてくる。
よほど体調が悪いのか、普段だったらさとりのたてる物音に敏感なそうすけが、さとりが寝室に入っても起きる気配はなかった。そのことがさとりの胸を苦しくさせる。
固く絞った濡れタオルで汗が滲んだそうすけの額を拭うと、そうすけがわずかに身動きした。さとりはびくっとした。しばらく固まってようすを見ていたが、そうすけが起きる気配はなかった。
「お水、ここに置くね・・・・・・?」
手を伸ばせばすぐに届く場所においしいお水を置いた。これを飲んだら、きっとそうすけも元気になってくれるんじゃないだろうか。それからテレビでやっていたように、そうすけの首に長ネギを巻いた。そうすけの眉間に皺が寄ったのを見て、さとりは首をかしげた。
「どうしてこれが効くんだろ・・・・・・?」
さとりにはわからなかったけれど、テレビドラマではその後病気で寝込んでいた女の子が元気になっていたから、何かとてつもなく大きな効果があるに違いなかった。
さとりは宝物である紫水晶のペンダントを首から外すと、そうすけのケータイ番号が書かれたメモが入ったお守り袋と一緒に、そうすけの枕元にそっと置いた。
「どうかそうすけを守ってください」
鼻の奥がつんと痛んだ。
苦しそうなそうすけが悲しかった。代わってあげられるものなら、いくらでもおいらが代わるのにと、役立たずの自分がひどく情けなかった。
「竜神さま、人間の神さま・・・・・・」
ぽろぽろぽろ・・・・・・と、涙が零れ落ちる。
「お願い。そうすけを助けて・・・・・・」
そうすけ。そうすけ。そうすけ・・・・・・。
あふれるように胸が苦しかった。不安でたまらなかった。このままそうすけに何かがあったらどうしよう。そうすけの中の人間の部分が、そうすけにこれ以上の悪さをしたらどうしよう。
どうしたらそうすけが元気になるの・・・・・・?
さとりはそうすけを起こさないよう、ベッドの足元で声を抑えてぽろぽろと泣き続けた。
ふわりと身体が浮き上がる感覚がした。さとり、と名前を呼ぶそうすけの懐かしい声が聞こえた気がして、さとりは夢かと思う。
「・・・・・・ばかだな。こんなところで寝たらだめだろう」
『大丈夫だからって言ったのに・・・・・・』
何よりも愛おしい、さとりの大好きなそうすけの手が、腫れて熱を持った目の縁を慰めるように撫でてくれた。
そのまま柔らかいものに横たえるようにそっと下ろされて、大好きなその気配が離れる。さとりはハッとした。ぱっと目を開くと、普段と何ら違ったようには思えないそうすけがさとりに気がついて、ふっと微笑んだ。さとりは胸がぎゅっと苦しくなった。
「おはようさとり」
「そ、そ、そうすけ・・・・・・!」
そうすけ・・・・・・。
止まっていた涙が再びぶわっと溢れる。
もういいの? 苦しくないの? 痛いところはない? そうすけの中の人間は悪さしない?
訊きたいことは山のようにあるのに、感情がいっぱいいっぱいになってうまく言葉に表せない。そんなさとりを、そうすけはうれしそうな、そして照れくさそうな、なんとも言えない眩しそうな顔で見ていた。
「信じろと言ったろう?」
揶揄うように頬を撫でられて、さとりは新たな涙を零しながら、こくこくとうなずく。
「これ、貸してくれてありがとうな」
『さとりの宝物だろ?』
そうすけは紫水晶のペンダントとメモが入ったお守り袋をさとりに返してくれた。それから何を思ったのか、涙でかぴかぴになったさとりの頬をいきなり舐めると、
「しょっぱ・・・・・・」
と苦笑を漏らした。
「お、おいら、そうすけがどうにかなっちゃうんじゃないかと思って、龍神さまにお願いしたけど、答えてくれなくて・・・・・・」
よかった、よかった、そうすけが元気になってよかった。
ぐずぐずと鼻をすすりながら告げたさとりに、そうすけは少しだけ嫌そうな顔をした。
『なんでいざというときにさとりが頼るのはいつもあいつなんだよ・・・・・・』
さとり、と名前を呼ばれて、さとりは涙に濡れた目をそうすけに向けた。
「・・・・・・心配させてごめんな」
『俺はもう二度とさとりをひとりぼっちにはさせない。ずっとお前のそばにいるよ』
少し困ったような顔で謝られて、さとりはふるふるっと頭を振った。
ご飯を食べ過ぎた後のように、胸の奥が苦しかった。でも、苦しいのは悲しいからじゃない。
あたたかなものがさとりの身体を包み込む。さとりは知っていた。ひとは、うれしすぎると泣きたくなるのだ。幸せで幸せで、どうしていいかわからなくなることがあることを。そうすけが教えてくれたから。
「お、おいらも、そうすけの側にいるね! そうすけをひとりにしないね!」
勢い込んでさとりが告げた言葉に、そうすけはこれまで見たこともないくらいうれしそうな顔で笑った。
「ああ、頼むな・・・・・・」
さとりはかあっと赤くなった。なんだか急に恥ずかしくなって、うつむいたままもじもじしてしまう。
「それにしてもさとり、風邪を引いたときにネギを巻くなんてどこで知ったんだ?」
さとりはパッと顔を上げた。その質問だったらさとりにも答えられる。
「あ、あのね、前にテレビドラマでやっていたの!」
実際にそうすけは元気になった。そんなことまで教えてくれるなんて、テレビドラマとはなんてすばらしいんだろうと、さとりは胸を膨らませる。
「テレビドラマ?」
『いまどき、風邪でネギを巻くなんてそんなドラマがあるか・・・・・・?』
いまいち腑に落ちないといったようすのそうすけの心の声が聞こえてきて、おいら何かおかしなことを言っただろうかと、さとりは首をかしげる。
そのときさとりの足元に、白いふわふわの妖怪が心なしか不満げなようすで水を寄越せと催促にきた。そういえばきのうはそうすけの具合が悪かったことに動揺して、すっかり放ったらかしにしてしまったことに気がつく。
「あっ! ごめんね、いますぐにあげるから!」
慌てたさとりはシーツの波に足を取られ、転びそうになってしまった。とっさに伸びてきたそうすけの腕がさとりの身体を支えた。
「ほら、気をつけろよ」
「う、うん! ありがとう!」
「それにしてもこいつら、ますます図々しくなってないか・・・・・・」
あれ・・・・・・?
呆れたように呟くそうすけに、さとりは違和感を覚えたが、それが何なのかわからない。
さとりは首をかしげた。
「どうした?」
「う、ううん、なんでもない」
気のせいだよね・・・・・・?
ぷるぷるっと頭を振ったさとりに、そうすけは「おかしなやつだな」と笑った。
さとりはうれしくなって、恥ずかしそうにうつむいた。
「とりあえず飯をつくるか。そのようすじゃどうせ夕べから何も食べていないんだろう?」
そうすけの飯という言葉に反応して、白いふわふわの妖怪はうれしそうにぴょんぴょんと跳ねた。
「わかってるよ。いま水をやるって」
『ほら、足元を跳ねるな。踏んじまうぞ』
さとりはぱちぱちと瞬きした。気のせいだろうか、そうすけの目に白いふわふわの妖怪が映っているように思えるのは。
「さとり」
そのとき、さとりはそうすけに呼ばれた。自分に向かって少しの躊躇いもなく伸ばされた手に、さとりは眩しいものでも見るかのように目を細めた。
『おいで』
さとりはふわっとほほ笑んだ。
間もなく夜が明ける。そうすけはあなうんさーの仕事へいき、さとりはさとりにできる仕事をして、人間界のことを勉強する。この世界でそうすけと生きていくために。
さあ、いつもと同じ一日が始まる。
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