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home sweet home

 朝のニュース番組の放送を終え、スタジオを出ようとした壮介の視界にちらりと白いものが走った。  あれは……?  多くの人が行き交うスタジオの片隅で、綿毛のようなものが人々の足元から逃げ惑っていた。綿毛のように見えるが、生き物の姿は人々の目には見えていない。なぜなら、あれは妖怪と呼ばれる類のものだからだ。さとりはうちにいる二匹のことを、白いふわふわの妖怪と呼んでいる。白いふわふわの妖怪はさとりには懐いているが、壮介には無関心だ。家にいるやっかいものくらいに考えているのかもしれない。  さとりと出会うまで、壮介は当然のように自分の目に映る世界のことしか考えていなかった。龍や妖怪だって? そんなものおとぎ話だと思っていた。だが、この世界には人々の目には見えていないだけで、多くの生き物が存在する。いま壮介の目に映る綿毛も、おそらくうちにいるのと同種のものだろう。だが、その毛並みはどことなく薄汚れて元気がないように見える。 「荻上さん、おつかれさまでした」 「おつかれさま」  スタッフと挨拶を交わしながら、壮介は綿毛に近づいた。誰もこちらを見ていない隙に綿毛を拾い上げ、スーツのポケットに入れた。綿毛は慌てたように、壮介の手から逃げようとする。 「こら、助けてやるからおとなしくしてろ」 「はい? いま何か言いました?」 「いや、何も言っていないよ」  不思議そうに首をかしげるスタッフに微笑みながら、壮介はポケットの膨らみを手で抑える。バラエティ番組を担当している顔見知りのプロデューサーを見つけ、内心ぎくりとした。さりげなくその場から離れようとする。 「荻上ちゃん、久しぶり~!」  周囲が思わず振り返るほどの大声で呼び止められて、壮介は足を止めた。振り返り、いまはじめてその存在に気がついたという顔をする。 「あれ、上沼さんじゃないですか。お久しぶりです。きょうはどうされたんですか?」 「またまた~、いま気づかない振りをして、そのままいこうとしたでしょう?」 「まさかそんなこと」  壮介がさも驚いたような顔をすると、上沼はにやりと笑った。 「まあいいけどね。荻上ちゃん、最近ますます調子がよさそうだよね。正直自分でも自覚あるんじゃない?」 「おかげさまで、ありがたく思っています」  たまたま壮介は人々の目に触れるところにいるだけで、番組はひとりでできるものではない。その陰には多くの人の力があって、はじめて成り立つものだ。 「謙遜だね。まあそういうところが荻上ちゃんの好感度が高い理由なんだろうが。ところでさ、前にきみに出てもらったクイズ番組、いまでもかなり評判いいんだよね。さすが荻上壮介、アナウンサーだけしてるのはもったいない。よかったらまた出てみない?」  やはりその話かと思いながら、壮介は「出ませんよ」と軽くかわした。上沼はまだ四十代前半くらいのはずだが、これまで数々の人気番組を手掛けた敏腕プロデューサーだ。以前どうしても断ることができずに、彼の担当するバラエティ番組に出たことがあった。そのときの映像が放送事故じゃないかと話題になって、その後動画の再生ランキングで急上昇したらしい。 「ちえっ、俺と荻上ちゃんの仲じゃない。つれないなあ……」 「いったいどんな仲なんですか。一度だけどうしても、という約束だったはずです」 「んん~、そうだっけ? 最近どうにも物忘れが激しくて。ま、立ち話も何だし、コーヒーでも飲もうか」 「いいですけど……」  まったく懲りたようすのない上沼に苦笑しながら、これはきっと何かあるなと警戒を強める。スタジオを出て、局内にあるカフェに移動した。 「荻上ちゃんもアイスでいい? アイスコーヒーをふたつ。急いでね」  注文を取りにきた店員が去るなり、上沼は「実はきょうは荻上ちゃんに折り入って頼みがあってさ……」と、切り出した。 「頼み? 何ですか?」  壮介が訊ねても、うん、それがさ……、と言葉を濁すばかりでなかなか本題に入ろうとしない。先ほどまでのふざけた態度とは変わって言いづらそうなようすに、壮介は「上沼さん?」と訊ねた。 「……実はさ、俺の姪がきみのファンでね、将来はきみのようなアナウンサーになりたいんだそうだ。いまはまだ大学生なんだけどさ、将来についていろいろ悩んでいることがあるらしくて、よかったら一度会って話を聞いてやってくれないかな。いや、もちろん荻上ちゃんが忙しいのはわかってるんだけど……」 「いいですよ」 「へ? いいの?」  上沼は拍子抜けしたようなひどく意外そうな表情を浮かべた。 「ええ、構いません。ここしばらくは特に急ぎの予定もないので、姪御さんが都合のいいときでいいですよ」  手帳を取り出し、スケジュールを確認する。そのようすを眺めていた上沼の表情がぱっと輝いた。 「てっきり断られるかと思ってた。さすが荻上ちゃん、頼りになる~」 「……煽てても何も出ませんよ」  そのとき店員がグラスに入ったアイスコーヒーを運んできた。やっかいな問題は片付いたとばかりに、上沼はグラスに手を伸ばした。 「いや、知ってはいたけど、中身も男前だなあって改めて感心してた。荻上ちゃん、確かまだ独身だったよね。モテるくせに浮いた噂のひとつも聞かないし。俺が言うのもなんだけど、うちの姪、ミスキャンパスに選ばれるくらい器量もよくていい子でさ、年齢は少し離れているけど案外荻上ちゃんと似合いなんじゃないかな。ほら、縁は一生の宝っていうじゃない。よかったら一度……」 「――すみませんが」  最後まで聞かず、壮介は上沼の言葉を遮った。 「結婚はしていませんが、一生を共にしたい相手はいます。この先何があっても大切にしたい相手です」  はっきりと告げた壮介に、上沼はぽかんとした表情を浮かべている。さとりのことを隠すつもりは微塵もなかった。誰に何を言われようとも、壮介の気持ちは決まっている。 「それってさ、騙されてるんじゃないの?」 「はい?」  一瞬何を言われたのかわからなった。上沼は壮介を眺めると、訳知り顔で続けた。 「いやあさあ、荻上ちゃん、人が好いから相手の女に騙されてるんじゃないかと思って。その歳で一生を共にしたいなんて決めなくてもいいんじゃないの? だいだいさ、その人本当に大丈夫なの? 荻上壮介の名前に惹かれているだけじゃない? 荻上ちゃん、相手に利用されてない?」 「な……っ!」  瞬間、頭にかっと血が上った。テーブルの角に腕がぶつかり、その拍子にグラスが倒れる。 「あっ」 「わっ、荻上ちゃん!」  慌ててペーパーナプキンでテーブルの上を拭いていると、すぐに店員がやってきて片付けてくれた。 「大丈夫ですか? お洋服は濡れなかったでしょうか?」 「服は大丈夫です。すみません、コーヒーを零してしまって……」 「いえ、大丈夫ですよ。すぐに代わりを持ってきますね」 「本当に申しわけない……」 「どうぞお気になさらずに」  店員が立ち去ると、後には何も起こらなかったかのように元通りになった。 「案外荻上ちゃんもドジだな、いったい何を考えていたのさ~」  ずけずけと物言う上沼に、壮介は呆れて言葉も出ない。  そのとき、上沼は何かに気づいたように立ち上がると、「悪い、荻上ちゃん! 詳しい話はまた後で! 姪の件、よろしくね!」忙しなく入り口のほうへと向かった。 「上沼さん?」 「や、どうも秋山先生じゃないですか。お久しぶりです。きょうはどうしてこちらに?」  上沼はアシスタントらしい若い女性を連れた初老の男性に話しかけると、そのままカフェを出ていった。壮介はため息を吐くと、伝票を手にした。レジで先ほど対応してくれた店員に謝罪の言葉を告げると、会計を済ませ店を出た。やり場のない思いが渦巻くように腹の底に沈んでいた。次に会ったとき、コーヒー代はきっちり請求しようと心に決めつつ、壮介は上沼の頼みを引き受けたことを後悔しはじめていた。  事務処理を終えると、その日の業務は終了となる。テレビ局を一歩出た途端、忘れていた暑さが襲ってきた。白く乾いたアスファルトは永遠にどこまでも続いているかのようだ。  携帯を取り出し、メッセージを確認した。まず視界に入ってきたのは、さとりがお子さまケータイで撮った写真だ。きょうのさとりの昼食は焼きそばのようだ。紅ショウガが彩りを添えてある。 「おいしそうにできてるな……」  写真を眺める壮介の口元に柔らかな笑みが浮かんだ。  ――そうすけ、おしごとおつかれさまです。午前中、そうすけの妹さんかられんらくがあって、旅行にいく間、ニ、三日むぎをあずかってほしいそうです。そうすけに聞いてからへんじをするって答えたけど、よかったかな? 「はあ?」  続けてさとりから送られてきたメッセージを読んだ壮介は思わず声が出た。むぎとは妹・陽菜の家で飼っている犬の名前だ。人間の歳でいったら九歳くらい、遊び盛りのまだ子犬だ。すぐにさとりに電話をかけようとして、思い直して妹の番号をタップする。  あいつ、いったいどういうつもりだ。  数コールの呼び出し音の後、「お兄ちゃん、どうしたの?」という声が聞こえてきた。壮介はさとりから聞いた話を訊ねる。 「どうしたじゃない、むぎをうちで預かるってどういうことだ?」 「ああ、さとちゃんに聞いた? 今度の連休にね、智士さんも久しぶりにゆっくりできるらしくて、母さんたちも誘って旅行にでもいこうかと話をしているの」  智士さんとは妹の結婚相手で、大手企業に勤めている。若いながら仕事もできるらしく、もちろん壮介も実際に会ったことはあるが、家庭も大事にするいい旦那さんだ。性格は悪くないが多少わがままなところもある妹がよく結婚できたものだと思う。 「それでね、ペットホテルも考えたんだけど、なんだかそれもかわいそうな気がして。お兄ちゃんのところなら、さとちゃんがいるじゃない? お兄ちゃんのとこのマンション、確かペット可だったよね?」  壮介の部屋で会って以来、妹とさとりの間で交流が生まれたらしい。妹は壮介が留守のときでもときどき三歳になる甥をつれてマンションを訪れているらしく、よく土産のスイーツやおすすめの便利グッズなどが残されている。最近ではさとりの会話からも妹や甥の話がでることがたびたびあって、さとりがうれしそうなので壮介も放っておいていたのだが……。 「さとりもいるってお前なあ……! そういう話なら直接俺に言え。あいつを利用するな」  上沼とのことですっきりしない気持ちが残っていたのだろう。珍しく声を荒げた壮介に、はっと息を呑むような気配が伝わってきた。 「陽菜?」  やがて沈黙の後、「……ごめんなさい」という声が返ってきた。 「別にさとちゃんを利用したつもりはなかったんだけど、さとちゃんからお兄ちゃんに言ってもらったら、お兄ちゃん何も言わないかなと思いました。ごめんなさい」 「あ、いや……」  素直に謝られて、多少八つ当たりをしたという自覚のある壮介はきまりが悪くなる。壮介は息を吐くと、妹に謝った。 「悪い……。いまのは完全に俺の八つ当たりだ。さとりがいいなら俺も構わない。いつでも都合のいいときに連れてきたらいい」  受話器の向こうから、はあっとため息を吐くような声が聞こえてきた。壮介はなんだと眉を顰める。 「お兄ちゃん、さとちゃんのことが本当に大切なんだね。学生のときからお兄ちゃん、成績優秀でスポーツもできて、女の子には人気あったけど、どこか冷めてるっていうかそつがなさすぎて、正直あるときぷっつり切れちゃうんじゃないかなあって心配してた。いまのお兄ちゃん、そのころとは別人みたい。かっこ悪いけど、いまのお兄ちゃんのほうが好感が持てるよ」  いったいいつの話をしているんだよと呆れながら、妹の言うことにも若干心当たりのある壮介は居心地悪く押し黙る。確かに昔は妹の言う通りのところがあった。そのときは気づかなかったが、自分が努力すれば叶わないことなどないように、子どもじみた尊大な思い違いをしていたように思う。唯一例外があるとすれば、遠い昔、壮介がまだ子どもだったころ、祖母の田舎で会った年上の青年のことくらいだ。あのときはさとりのことを何も知らなかったけれど、図らずも自分が約束を破ってしまった青年のことを心のどこかでずっと忘れられなかったように思う。 「……わかってるよ」  苦々しく答えた壮介に、妹がふふ、と笑った。そのとき、「あれ、もしかしたら荻上壮介じゃない?」という声が聞こえた。見れば若い女性二人がこちらの方を指して何かを話している。声をかけられるのが面倒で、壮介がその場を離れようとしたときだ。一人の女性が「きゃっ」という声を上げた。 「どうしたの?」 「わかんない。いま何か足に触れた気がしたんだけど……」 「やだあ、何言ってるのよ」  不思議そうに首をひねる女性たちの前で、古い傘のようなものがケラケラと笑いながらどこかへ消えていった。あれはきっとから傘の妖怪だ。以前さとりと一緒にスーパーに出かけたときにも見かけたことがある。さとりがいうには、悪戯好きだが人間に害をなすことはないという。 「それじゃあ、詳しいことはさとりと相談してくれ。あいつがいいなら俺も構わないから」  その場を離れ、通話を終えようとした壮介の耳に、「お兄ちゃん」という声がした。壮介は足を止める。 「最近実家に帰っていないでしょう。お兄ちゃんが忙しいだろうからって口には出さないけど、きっと寂しいと思うよ。知ってる? お母さん、お兄ちゃんが出ているニュース番組、毎日録画してるの。もうずっとだよ」  どこか気遣うような妹の声に、壮介は何も答えることができない。そんな壮介の沈黙をどう受け止めたのか、陽菜はそっと言葉を重ねた。 「もしかしてさとちゃんのこと、お母さんたちが反対すると心配してる? 確かにさとちゃんのこと知ったら最初は驚くと思うけど、頭ごなしに反対する人たちじゃないと思うよ」 「陽菜……」  わかっている。妹の言う通り、両親は話も聞かず反対するような人たちじゃない。きっと驚くだろうが、壮介にとってさとりの存在がどれだけ大切だとわかれば、ちゃんと話は聞いてくれるだろう。だけど妹は知らないことがある――。 「……怒った?」  幼い頃の妹のような、ひどく頼りない声に、壮介は携帯を持つ手を変えた。静かに「怒ってないよ」と答える。受話器の向こうで妹がほっとするような気配が伝わってきた。 「よかった。それじゃあ詳しいことはさとちゃんと相談するね」 「わかった」  通話を切った後、人知れずため息が零れた。さきほど一瞬だけ浮上しかけた気持ちが重くのしかかる。頭上に広がるくっきりした青空が眩しくて、壮介はそっと視線をそらした。  エレベーターのボタンを押し、八階のフロアにおりた。目の前にのどかな下町の風景が広がる。東西を荒川と隅田川に挟まれたこの地区は、緑と水辺に囲まれたことから水彩都市とも呼ばれている。近年豊洲のあたりは都市開発が進んでいるが、その一方で壮介の住むこのあたりは情緒あふれる下町の風景が残っている。  はじめて壮介の部屋を訪れたとき、さとりは眼下に広がる夜景を手すりから身を乗り出すようにして眺め、「そうすけ、星だ! 星が見えるぞ! こっちへきてみろ! きれいだなあ」と叫んだ。まるで小さな子どもに呼びかけるみたいに。それまで毎日のように目にしていたはずなのに、さとりに言われるまで壮介は夜景の美しさなどすっかり忘れていた。  ポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。ぱたぱたとした足音と共にさとりが廊下を駆けてきた。 「そうすけ、おかえりなさい!」  さとりの姿を目にした瞬間、壮介の中で言葉にならない思いが湧き上がった。 「……ただいま」  さとりの身体をぎゅっと抱きしめる。そうしていると、それまで胸を塞いでいた思いがわずかに晴れるような気がした。しばらくじっと抱かれていたさとりは、やがてあれっというふうに、壮介を見た。 「そうすけ? 何かあった?」  壮介は心配そうにこちらを見つめるさとりにほほ笑むと、「何でもないよ」と身体を離した。さとりの足元には白いふわふわの妖怪たちがぴょんぴょんと跳ねている。そのときさとりが何かに気づいたような顔をした。 「そうすけ、その子は?」 「その子?」  さとりに言われてはじめて気がついた。グレーの綿毛の妖怪が、壮介のスーツのポケットからぴょこんと顔をのぞかせている。 「しまった……! そのまま連れてきちゃったのか……!」  知らない場所で警戒しているのだろう、グレーの綿毛はここはどこだろう? と迷うそぶりを見せると、やがて思い切ったようにフローリングの上に下りた。だが、すぐに好奇心旺盛な二匹に囲まれて、慌てたように部屋の奥へと逃げ込む。その後を二匹の白いふわふわが追った。 「こら、お前たち待て……っ!」  壮介の制しの声も聞かず、白いふわふわの妖怪はグレーの綿毛を追いかける。 「だめだよ、待って……!」  グレーの綿毛はパニックに陥ったように部屋の中を逃げ惑う。小さなフラワーベースが倒れ、零れた水が木製のシェルフを濡らした。床に積み重なっていた雑誌がばさばさと倒れる。グレーの綿毛は薄いカーテンをよじ登ろうとして失敗し、ぽとりと床に落ちた。  何だかこいつどんくさくないか……?  壮介が内心で失礼なことを考えている間にも、グレーの綿毛はベッドの下へと逃げ込んだ。その後を追いかけようとした白い二匹のふわふわを、ようやくさとりが捕まえた。いまにもさとりの手から飛び出さんばかりの二匹に、そっと言い聞かせる。 「ねえ聞いて? あの子、知らない場所で怯えてる。かわいそうだから落ち着くまでそっとしておいてあげよう?」  さとりの言葉をおとなしく聞いていた二匹のふわふわは床に飛び降りると、まるでグレーの綿毛のことなど忘れたように遊んでいる。  こいつら、俺とさとりとで態度を違えすぎやしないか……?  壮介の心の声を読んだように、さとりは申し訳なさそうな顔をした。 「気にするな。ただの愚痴だ」  抱き寄せるようにさとりの頬にキスをすると、その瞳が零れんばかりに大きく見開かれた。かわいらしい顔はじわりと赤く染まっている。 「そ、そうすけ……!」  慌てたように飛び上がるさとりに、愛しさを覚えた。その身体を抱き上げ、そのままベッドに連れ込みたくなる。  あー、このまま面倒なんてすべて横に置いておいて、さとりといちゃいちゃしていたい。 「……そうすけ?」  さとりの手が壮介の頬にそっと触れた。じっとこちらを見つめる瞳には、壮介を気遣うような色があった。どうかした? と訊ねるさとりを抱きしめると、壮介は自制心を総動員して身体を離した。 「……よし。飯をつくろう」  倒れたフラワーベースを起こし、濡れたシェルフを台布巾で拭いた。開いたページの端を引っ張り合いっこしている二匹から雑誌を奪うと、遊び道具を奪われた二匹のふわふわが抗議するように壮介の頭の上で跳ねた。   「いたた……っ、仕方ないだろ。これはお前たちの遊び道具じゃないぞ」  逃げるようにキッチンへ行き、冷蔵庫の中身を確かめる。前回妹がきたときに持ってきた干物がまだ残っている。なんでも小田原の有名な干物店から取り寄せたらしい。智士さんもここの干物が好きなのよ。お兄ちゃんも昔から干物好きだったでしょうと、大量の干物を持ってきた。確かに干物は好きだしありがたいが、壮介の家はさとりとふたりだけだ。いくらなんでも物には適切な量と限度がある。 「普通に焼いて食べるのもさすがに飽きたな。きょうは暑かったし、冷や汁にするか。それから豚肉がまだ残ってたな。確かゴーヤがそろそろだったか。さとり、今夜の料理にベランダのゴーヤとなすをもらってもいいか?」  去年の春くらいからさとりはベランダ菜園をはじめた。きっかけは夕食後、一緒にテレビを見ていたときに、ドラマの主人公が家庭菜園をしていて、さとりが興味をしめしたことだった。うちでも育ててみるか? と訊ねたら、そんなことができるのかとばかりに目を丸くして驚いたので、後日ホームセンターに出かけて一緒に苗を選んだ。それから毎日せっせとベランダ菜園に励んでいる。今年はミニトマトとなす、それからおくらとゴーヤを育てている。 「取ってくるね」  言うなり、ぴょこんと飛び出すようにベランダに向かったさとりの後を、二匹のふわふわの妖怪が慌てたようすでついていく。思い立ったときにすぐに出られるよう、ベランダにはさとり専用のサンダルと壮介の使い古したスニーカーが置いてある。 「ああ、こらだめ、いたずらしないで。こっち? これがいいの?」  冷や汁の準備をしている壮介の元に、開いた窓からくすくすと笑うさとりの話し声が聞こえてくる。壮介の口からふっと笑みが零れた。まだ半分ほど残った干物の中からあじを取り出していると、戻ってきたさとりが「そうすけ、これでいい?」と壮介に訊ねた。 「ああ。ちょうどいい具合だ」  ありがとう、とゴーヤを受け取りながら礼を言うと、さとりがうれしそうに笑った。素早く口づけると、二匹のふわふわの妖怪がいいかげんにしろとばかりに壮介の周囲で跳ねた。 「わかった、お前たち、わかったってば……!」  あじをグリルでこんがりと焼き、先ほどさとりが取ってきたゴーヤとなす、それからきゅうりを水で軽く洗い流す。 「そうすけ、おいら何をしたらいい?」 「あじが焼けたら皮と骨を取り除いてほぐしてくれるか? 適当でいいぞ」 「わかった」  手伝おうと隣に並ぶさとりと場所を変わる。きゅうりを小口切りに切って塩をまぶし、ゴーヤは半分に切ってからワタと種を取り除き、二、三ミリの厚さに切っていく。豆腐はペーパータオルで水気を押さえると、豚肉を切り、卵を溶いた。 「このくらい?」 「ああ、そしたらそのボウルに入れて混ぜてくれるか?」 「はい」  さとりが冷や汁をつくっている間に、壮介は二皿目の仕上げに入る。フライパンにサラダ油を熱すると、適当な大きさにちぎった豆腐を並べた。塩をふって全体に焼き色をつける。ゴーヤはしんなりして色鮮やかになるまで炒めると、それぞれいったん皿に取り出しておく。ご飯はさとりがいつも壮介の帰宅時間を見計らって先に炊飯器のスイッチを入れておいてくれる。ときどきテイクアウトですませることや、デリバリーを頼むこともあるが、外食することはほとんどない。他人の考えを読むことのできるさとりは心やさしく、ひとの多い場所にいると疲れてしまうからだ。  肉の下の部分に焼き色がついたら豆腐とゴーヤを加え、溶き卵と醤油を回し入れてからざっと炒め、塩コショウを振って器に盛りつける。 「よし、いいぞー」  休みの間に作り置きしていた常備菜を取り出し、リビングへと移動する。 「あの子、あとで食べてくれるかな?」  さとりは小皿に水を入れると、ベッドの脇そっと置いた。もうひとつの小皿にも水を注ぎ、ぴょんぴょんと跳ねる白いふわふわの妖怪たちの前にも置いてやる。 「いい風だ……」  昼間の暑さが嘘のように、心地のよい風が部屋に入ってくる。 「おつかれさま」  冷たく冷えたビールをグラスに注ぎ、乾杯した。アルコールが飲めないさとりはもちろん好物のおいしい水だ。一日働いた後のビールは格別だと思う。  ぽつぽつと明かりが灯りはじめた家々の向こうに、薄紫色の空が広がっている。白いレースのカーテンが風に揺れるたび、薄闇が深まり、昼と夜の輪郭が曖昧になってゆく。 「陽菜が無理を言って悪かったな。本当にいいのか? 迷惑だったら俺から陽菜に言ってもいいぞ」  犬を預かるといっても、日中壮介は仕事で家にはいない。負担になるとしたらさとりのほうだ。もしさとりが自分と妹に遠慮して無理をしているようならと、壮介が考えたときだった。 「ううん、迷惑じゃないよ」  珍しくきっぱりと言い切ったさとりに、壮介は少しだけ意外に思う。 「ひなちゃんね、よくそうすけが子どもだったときのこと、話してくれるの。ひなちゃんにとってそうすけは自慢のお兄さんだったんだって」 「さとり?」  妹の話をするさとりの瞳には、何かを訴えるような真剣な色があった。それが犬を預かるというだけの話でないことに気づいた壮介は箸を置き、さとりの話に耳を傾ける。 「……あいつはほかに何か言ってたか?」  壮介の言葉に、さとりは一瞬だけびくっとした。だが、すぐに唇をきゅっとつぐむと、覚悟を決めたように壮介をまっすぐに見る。  どうしたんだ、さとり……? 「ひなちゃんね、この前言ってた。そうすけが最近何かに悩んでいるんじゃないかって。前はまめにじっかに顔を出していたのに、最近はそれもなくてそうすけのお父さんとお母さんがしんぱいしてるんだって。そうすけは気づかれていないと思っているけど、自分たちがここにくるのもあまりよく思っていなかったんじゃないかなあって。じっかって、そうすけのほんとうのおうちのことでしょう? そうすけはおいらがいるからほんとうのおうちに帰れないの?」  陽菜のやつ、さとりによけいなことを。壮介は苦い思いを隠せない。 「さとり……」  違う、そうじゃないよと言おうとして、壮介はさとりの顔を見て口をつぐんだ。さとりの表情は悲しみでいっぱいだったからだ。 「おいら、ひなちゃんにそうすけから何か聞いている? って聞かれても、何も答えられなかった。そうすけがひなちゃんに秘密にしていること、おいらのせいなのに、ほんとうのこと、どうしても言えなくて……」 「さとり?」  いったい何の話をしているんだ? 「さとり、お前のせいって何のことだ? 何を陽菜に言えなかった? 本当のことって何だ?」  膝の上で握りしめているこぶしに触れ、はっとなった。さとりの手は緊張と不安で冷たくなっていたからだ。思わずその手を包み込むように握りしめると、さとりが弾かれたように叫んだ。 「おいらがひなちゃんたちとは違うってこと……! だから、そうすけはほんとうおうちに帰れないんでしょう? そうすけの大事なかぞくなのに……! そうすけがおいらと一緒にいることで、たくさんのもの犠牲にしてること、おいら知ってるの。だけどおいらどうしてもそうすけといたくて……」  ごめんなさい、と呟くさとりの声が、染みこむように伝わってきた。その瞬間、抑えていた感情がどっとあふれる。  ――ああ、気づかれていたのか……!  ここ最近壮介がひとりで悩んでいたことを、さとりに気づかれているとは思っていなかった。さとりに心配かけたくない、自分ひとりでなんとか解決しようとしたことがまさかさとりを傷つけることになろうとは……。 「違うよ、さとり。犠牲なんかじゃない。そんなふうに思うわけがない」  静かに、だけどきっぱりと告げる壮介に、さとりが顔を上げた。澄んだ瞳が不安げに揺れている。壮介の中に苦い後悔が広がった。 「……確かに、はじめのうちはお前と陽菜たちを会わせたくなかった。だけどお前が思うような理由じゃない。おそらくそう遠くはないうちに、会えなくなるときがくると思ったからだ」  そのときさとりに自分のせいだと思ってほしくなかった。いまのお前のように悲しい顔をさせたくなかった。  さとりと妹たちとの間に交流が生まれて、壮介の中でわずかに迷いが生まれた。さとりがうれしそうにしていて、壮介は自分の不安を口に出すことができなかった。  いまはいい。いまはまだ陽菜たちに気づかれずに隠すことができる。だけどこの先は? あと何年? それとも何十年このままこの秘密を隠し通せるだろう。  人間と妖怪とではそこに流れる時間が違う。さとりの命運がつきかけたあのとき、おそらく龍神と契約を交わしたことで、壮介の中で何かが変わったのだろう。はじめは気づかないくらい些細なものだったが、いまの自分が昔の自分とは明らかに違うことを壮介ははっきりと理解している。  さとりと生きる未来を選んだことに後悔はない。たとえ何度同じ選択肢を与えられても、自分はさとりとの未来を選ぶ。そこに迷いはない。  だけどさとりは? もしこの先自分が人間としての生を生きられなくなったとき、さとりはきっと傷つく。自分のせいだと責めるかもしれない。  そのとき、思いに沈む壮介の腕に、さとりの手が触れた。 「そうすけ、おいら、おいらね、そうすけがおいらのこと大事にしてくれるの、すごくうれしいの。そうすけはおいらが傷つかないよう、いつも守ろうとしてくれる。だけどおいらのためにそうすけのだいじなもの、あきらめたりしてほしくないの……!」 「さとり……」  まっすぐに自分を見つめるさとりは、拙い言葉で一生懸命思いを伝えようとしていた。自分のために壮介に犠牲になどなってほしくない、ただ守られるだけの存在じゃ嫌だと。自分も壮介を守りたいのだと。それを見つめているうちに、壮介は自分が大きな勘違いをしていることに気づいた。  壮介はこれまであらゆるものからさとりを守りたいと思っていた。さとりが傷つかないよう、先回りをして、悲しい思いをすることがないように……。だけどさとりは壮介が思っていたほど弱くない。  わかったよ、さとり……。  その瞬間、山から清冽な風が吹き抜けるように、壮介の中を通り過ぎていった。壮介は不安そうに瞳を揺らすさとりの頬に触れた。 「……さとり。お前はひとつ大事なことを間違えている。本当の家って何だ? お前と俺がいるこの場所が本当の家じゃないのか?」 「そうすけ……」  唇をぎゅっと噛み締めるさとりの瞳が潤んだ。壮介は息を吐くと、そっと笑みを浮かべた。 「これから先、もしかしたら俺と一緒にいることで、お前が傷つくことがあるかもしれない。だけど俺はもうお前に隠し事はしない。それでも俺のそばにいてくれるか? 俺と生きる未来を選んでくれるか? ……さとり」  自分の中にある弱さもすべてを曝け出し、壮介はただひとり、さとりに愛を誓う。 「いる……! おいらずっとそうすけのそばにいたい……!」  次の瞬間、さとりはぴょんと飛びつくように、壮介の首に腕をまわした。  さとり……。  腕の中の大切な温もりを受け止めながら、壮介はほっと息を漏らした。たまらなく愛おしさがこみ上げる。  さとり、お前を愛している――。  さとりの反応に驚いたように、白いふわふわの妖怪たちが何だ何だと飛んできた。それを見て、壮介は少しだけ笑う。 「さとり……」  そっと身体を離し、ゆるくその腰を抱きながら、ひたむきな瞳を向けるさとりにほほ笑む。 「落ち着いたら、一度一緒に実家へいこうか。お前を両親に紹介してもいいか」  これが俺の大切な人だと、一生を共にする人だと。そのとき両親は何て思うだろうか。きっと驚くに違いない。  さとりが驚いたように目を見開いた。  気がつけば、グレーの綿毛がベッドの下から姿を現していた。さとりは一瞬ためらうように壮介を見てからその腕を離すと、グレー綿毛にそっと近づいた。 「だいじょうぶ、何もこわいことなんかないよ」  グレーの綿毛を驚かせないよう、やさしく話しかける。  そのとき、グレーの綿毛がぴょこんとさとりの膝の上に乗った。白いふわふわの妖怪が興味深げに近づくが、先ほどのように逃げようとはしない。まるで最初から一緒にいたようにじゃれ合う三匹に、壮介は諦めの境地でため息を吐いた。これはもう無理に追い出すことはできないだろう。 「こいつにも名前をつけないとな」  壮介の言葉に、さとりが弾けるようなうれしそうな笑みを浮かべた。  この先、想像もつかないような困難や未来が待ち受けているかもしれない。だけどきっと大丈夫だ。たとえ何が起ころうとも、俺はさとりと共に生きていく――。  壮介の胸に希望の光が灯る。 「あのね、この子、ふわふわして色がちょっとグレーだから……」  新しい住人について夢中で話すさとりを促し、リビングへと戻る。その後を、白いふわふわたちが慌てたように追いかけてきた。 end

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