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第1話 Peek-a-boo
下半身に違和感を覚えて、目が覚めた。股間がびっしょりとして冷たい。どうやら布団まで濡れているようだ。まさか寝小便? いくら泥酔してもそんな失態を演じたことはない俺が? 第一、昨夜は酒を飲んでもいないというのに?
俺は股間に手を伸ばす。いや、伸ばそうとして、更に違和感が強くなった。思ったところに手が届かないのだ。どういうことだ。もしかして脳に何か起きたのか。それなら粗相も、思い通りに動けないのも分かる。57歳。高血圧。いつそういった状況に陥ってもおかしくない。
「あー。」
声を出してみる。良かった、声は出る。これなら助けが呼べる。今何時だ。敦士 がまだ出勤していないといいが。
「あちゅちぃ!」
いつもと違う甲高い声で、しかも幼児のような発音になってしまう。やはり脳の異常で、呂律 が回らないのか。
「あちゅち!!」
もう一度呼ぶ。しばらくして、ドアが開いた。
「……えっ。」
ドアノブに手を掛けたまま、やはり出勤間際だったのだろう、スーツ姿の敦士が絶句しているのが見える。どうやら俺は一見しただけで分かるほど、尋常な状態ではないらしい。
「父さん?」
敦士は俺を呼ぶ。だが、そのくせ俺を見ないで、きょろきょろと部屋を見回している。
「あい。」
俺が返事をすると、敦士はやっと俺を見た。一歩近づいたかと思うと、また足を戻す。結局俺の部屋から出て行ってしまい、それからトイレ、浴室、キッチン、ベランダと順繰りに回っては「父さん?」「どこ?」といった言葉を発しているのが聞こえてきた。
父さんはここにいるじゃないか。一体どういうことだ?
2LDKの家だ。各部屋を一通り回ったところで大した時間はかからない。間もなくして敦士は戻ってきた。
「……誰?」
敦士の顔がぐんと近づいてきた。
「からだがうまくうごかないんら。おれはいまどうなってる。」
俺はさっき伝えられなかった窮状を訴えた。
「……え?」
敦士は目を見開いて、それから俺を抱きあげた。
――そう、いとも簡単に、ひょいと抱きあげたのだ。170cm、68kgの親父を。
「君は、誰?」
そして、赤ん坊に「高い高い」をするように俺を掲げた。俺の視点はぐんと高くなり、敦士を見下ろす形になった。
「とうたんらよ!」
無意識に足をばたつかせてしまう俺。しかしその足は敦士を蹴り飛ばすこともなく、空を切った。敦士の顔の前でバタつく小さな足が視界に入ってきた。まさか、これが俺の足なのか。俺は一度足の動きを止める。小さな足の動きが止まる。動かしてみる。小さな足が動く。――そうか、これは俺の足なのか。
「ええっ?」
敦士と俺は同時に叫んだ。
敦士は混乱しつつも、とりあえずは会社に休みの連絡を入れた様子だ。そして、スーツ姿のまま、俺の前にへたりこんだ。今もその姿勢のままうなだれて、時々俺を見てため息をつく。
俺はと言えばソファに座らされている。「高い高い」の後、敦士は俺とベッドが小便で汚れているのに気がついたようだ。それをなんとか処置し、全裸だった俺にTシャツを被せた。俺も自分でできることはしようと試みたが、二足歩行すらできず、結局は敦士に全てを委ねることになった。俺ができる移動手段はハイハイまでのようで、そして最初の体勢だけ手伝ってもらえれば、このように座っていられるらしい。とりあえず把握できた現状はそこまでだ。
「父さん?」
「あい。」
「本当に父さんなの?」
「おおちゅきいわお、ごじゅうななちゃい。てっこうめーかーきんむ。おまえは、ひとりむちゅこのあちゅち、にじゅうごちゃい。ちょうちゃきんむ。かのじょなち。」
(大槻巌、57歳。鉄鋼メーカー勤務。おまえは1人息子の敦士、25歳。商社勤務。彼女なし。)
「……母さんの情報を言ってみて。」
「ちゅま、ゆうこ。じゅうにねんまえのきょう、こうちゅうじこち。いらい、ちちとむちゅこ、ににんさんきゃくのじんちぇい。」
(妻、優子。12年前の今日、交通事故死。以来、父と息子、二人三脚の人生。)
「マジで?」
「これがげんじちゅら。」
「なんでそんな冷静なの……。どう見ても1歳ぐらいの赤ん坊だよ? 何があったの?」
「おれにもわからん。あちゃおきたらこうなってた。」
「そんなにしゃべれるのに、動けないの?」
「おもったようにはうごけない。ところで、ぱんちゅがほしいんだが。のーぱんは、おちちゅかない。」
「そのサイズのパンツがうちにあるかよ。ていうか、おねしょしてたってことは、まさかそういうのも自力でどうにもなんないの?」
「たぶん。」
「……まずはおむつかな。あと食べもの……って、何食べられるの? 赤ん坊だからミルク? 普通の牛乳でいいの? 食パンならあるけど、食えるのかな。ああ、もう、全然分かんねえよ。病院連れてくか。」
「やめて。」
「え?」
「びょういんはまじゅい。おおごとになって、かいちゃにばれたら、こまる。おやじがあかんぼうになったなんて、だれがちんじるか。」
「そう言えば父さん、会社は……って、そうか、今日は命日だから。」
12年前の今日、家族で旅行に行こうとした。その道中に居眠り運転のトラックに追突され、運転していた俺と後部座席の敦士は怪我で済んだものの、助手席の優子は亡くなった。それ以来、妻の命日は有休をとる。今年は金曜日に当たっているから、明日明後日も会社は休みだ。なんとか3日間は誤魔化せそうだが……。
「母さん、こんなになっちゃった父さんを見たら、なんて言うかな。」と敦士が笑った。あの時中学生だった敦士は、母親の死にショックを受け、何年も笑わない、いや、笑えないこどもだったけれど、大学生の頃から急にこんな風に笑うようになった。彼の中で、何かが変わったのか。大人になったということなのか。
「あちゅち、かがみをみちぇてくれ。」
敦士が大人になったのは喜ばしい限りだが、俺が赤ん坊になった事態はどうしたものか。まずは自分の状態を知っておかないことにはどうにもならない。俺は敦士の抱っこで、洗面所に連れて行ってもらう。
洗面台の鏡に映った俺と敦士は、まるで。
「いれかわったみたいだな。」
「ん?」
「あちゅちはおれににてるからな、まるでおまえがうまれたころの、おれとおまえみたいだ。たちばがぎゃくだが。」
敦士も鏡を凝視して、それからぷっと吹きだした。「確かに。俺の赤ん坊の頃の写真に、こんなのあったよね。母さんと一緒に撮った。」
敦士が生まれたのは、俺が32歳の時のことだ。敦士は今、25歳。ちょうど俺が優子と出会った年齢だ。彼女は会社の後輩だった。俺から告白して、5年交際して、30歳で結婚、2年後に敦士が生まれた。順風満帆だった。あの日までは。
「あちゅちは、ほんとうにかのじょ、いないのか?」
俺がそう言うと、敦士の顔から笑顔が消えた。元いたリビングに戻り、俺をそうっとソファに座らせた。それからスマホを取り出して、誰かにメッセージを打ち始めた。
しばらくして、敦士はそのスマホをテーブルに置くと、しゃがんで、俺と目線を合わせた。
「来てくれるって。俺の、好きな人。」
いるんじゃないか、好きな人。なんだか嬉しくなって体を動かしたところ、バランスを失ってソファの上で転がってしまった。敦士がそれをさっと支えて、もう一度安定させてくれた。
「保育関係の仕事をしているから、きっと、助けてくれる。」
「ほいくちか。そりゃあいい。こどもじゅきにわるいこはいない。」
「……うん。」
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